簡単に婚約破棄とか言うなよ
王立学園の卒業記念パーティー。
王国中の貴族が集まる華やかな会場で、第一王子アルヴェルトは、ついに決意を固めた。
隣には、可憐な男爵令嬢ミレイアがいる。
彼女は緊張した面持ちで、アルヴェルトの袖をつまんでいた。
「殿下、本当によろしいのですか……?」
「ああ。心配するな、ミレイア。俺が必ず君を幸せにする」
アルヴェルトは自信満々にうなずいた。
そして、会場の中央へと進み出る。
そこには、彼の婚約者である公爵令嬢セレスティアがいた。
銀色の髪を美しくまとめ、落ち着いた表情でこちらを見つめている。
アルヴェルトは彼女を指さした。
「セレスティア! お前との婚約を破棄する!」
会場が静まり返った。
周囲の貴族たちが、一斉にこちらを見る。
アルヴェルトは満足した。
そうだ。これでいい。
恋愛とは、もっと自由であるべきなのだ。
家同士の都合で決められた婚約など、時代遅れもいいところである。
自分には真実の愛を誓った女性がいる。
ならば、その女性と結ばれるために行動するのは当然のことではないか。
完璧な理屈だった。
少なくとも、アルヴェルト本人にとっては。
「……承知いたしました」
セレスティアは、静かに頭を下げた。
「は?」
アルヴェルトは思わず聞き返した。
「ですから、承知いたしました。殿下との婚約を破棄するというお話でしょう?」
「そ、そうだ! 分かっているなら話は早い!」
「ええ。では、明日からの予定を変更しなければなりませんわね」
「予定?」
「王妃教育の一環として参加するはずだった会議がいくつかございますので、そちらの辞退を。それから、王宮に保管してある私物の整理と、婚約に伴ってお預かりしていた品々の返還。公爵家にも報告しなければなりませんし……」
セレスティアは指を折りながら、やるべきことを数え始めた。
「まあ、少々忙しくなりそうですわね」
「ちょ、ちょっと待て!」
「はい?」
「どうしてそんなに冷静なんだ!?」
アルヴェルトは、もっとこう、泣いたり怒ったりするものだと思っていた。
婚約者から一方的に別れを告げられたのだ。
普通なら、少しくらい動揺してもいいのではないだろうか。
「殿下。婚約がなくなるだけですもの。わたくしの人生までなくなるわけではありませんわ」
セレスティアは微笑んだ。
「それでは、失礼いたします」
そう言って、彼女は会場を去っていった。
残されたアルヴェルトは、拍子抜けした顔でその背中を見送った。
「……なんだ。案外、あっさり終わったじゃないか」
そのときの彼は、まだ知らなかった。
この宣言が、王国を揺るがす大騒動の始まりだったことを。
◇
翌朝。
アルヴェルトが朝食を終えて執務室に入ると、すでに財務大臣が待ち構えていた。
「殿下! 大変でございます!」
「朝から騒々しいな。どうした?」
「公爵家から、来年度の資金援助について問い合わせが来ております!」
「資金援助?」
「はい。王都の水路整備事業です。公爵家の資金援助を前提として計画されていたものですが、今回の婚約破棄を受け、契約を再検討したいとのことでございます」
アルヴェルトは首を傾げた。
「待て。どうして婚約破棄と水路が関係するんだ?」
「公爵家と王家の協力関係が前提となっていたからです」
「だが、婚約がなくなっただけだぞ?」
「ですから、両家の関係が今後どうなるのか、確認したいというお話です」
「今後も何も、これまでどおりでいいだろう!」
「それでしたら、殿下ご自身が公爵家に説明なさってください」
「……なぜ俺が?」
「殿下が婚約を破棄なさったからです」
財務大臣は、きっぱりと言い切った。
アルヴェルトは口を開きかけたが、何も言えなかった。
そこへ、今度は外交大臣が飛び込んできた。
「殿下! 隣国から書簡が届きました!」
「今度は何だ!」
「セレスティア様との婚約を前提に進めていた、両国間の協定について説明を求められております!」
「だから、どうして婚約と外交が関係するんだ!」
「関係しております!」
「もっと別々に考えられないのか!?」
「すでに一緒になっているものを、どうやって別々に考えろとおっしゃるのですか!」
外交大臣も、負けじと言い返した。
さらに、商務大臣が現れた。
「殿下! 公爵領の商人たちが、王都での取引条件を再検討したいと申しております!」
「商人まで!?」
「公爵家と王家の関係を信用して長期契約を結んでいたそうです。今後の取引に影響が出ないか、確認したいとのことです」
「俺の恋愛の話だぞ!?」
「商人にとっては商売の話です!」
三人の大臣が、そろって深いため息をついた。
アルヴェルトは頭を抱えた。
おかしい。
こんなはずではなかった。
婚約を破棄するだけで、どうして国の財政や外交や商業にまで話が広がるのだ。
「……セレスティアを呼べ」
「公爵令嬢なら、すでに王宮へいらしています」
「よし! すぐに来てもらえ!」
「ただいま、王宮行政局の採用面接を受けていらっしゃいます」
「なんでだよ!?」
◇
その頃、セレスティアは王宮行政局の面接室にいた。
向かいに座る面接官が、彼女の経歴書をじっくりと読んでいる。
「なるほど。王妃教育で財政、外交、法務について学ばれたのですね」
「はい。ですが、実務経験はございません。まずは補佐官として、現場の仕事を学びたいと考えております」
「公爵令嬢が補佐官からですか?」
「肩書きよりも、仕事の内容を重視しておりますので」
セレスティアは真剣だった。
彼女は昔から、政治や財政に興味があった。
王妃教育のために学んだことも、決して無駄ではなかった。だが、学べば学ぶほど、自分が本当にやりたいのは、王妃として社交の場に立つことではなく、実
際に国を動かす仕事なのだと気づいてしまった。
しかし、王子の婚約者である以上、将来は王妃になることが当然とされていた。
本人の希望よりも、王家の都合が優先されていたのだ。
その婚約が、昨日、なくなった。
悲しいかと聞かれれば、少々複雑ではある。
長年付き合ってきた相手なのだから、何の感慨もないわけではない。
ただ、それ以上に思ったことがある。
これで、ようやく自分の好きな仕事ができる。
「実は、現在、王宮では人員不足が深刻化しておりまして」
面接官が言った。
「特に財務関係の部署は、仕事が多すぎて困っているのです。もし採用となれば、そちらで働いていただく可能性もございます」
「ぜひ、お願いいたします」
「……即答ですね」
「わたくし、仕事をするのが楽しみでしたの」
そのとき、面接室の扉が勢いよく開いた。
「セレスティア様! 殿下がお呼びです!」
王宮の使者が、息を切らして立っていた。
「申し訳ありません。現在、採用面接中ですので」
「そんなことをおっしゃらずに! 殿下が大変お困りなのです!」
「それでしたら、正式な書類を担当部署にお送りください」
「書類では間に合わないのです!」
「では、なおさら担当部署にご相談くださいませ。わたくしは、もう殿下の婚約者ではありませんので」
使者は固まった。
面接官は、ゆっくりと経歴書を閉じた。
「……採用したら、王宮の仕事が少しは楽になりそうですね」
「そうでしょうか?」
「ええ。少なくとも、あちらで騒いでいる方々よりは」
面接官は、扉の向こうから聞こえる大臣たちの怒鳴り声に耳を傾けた。
◇
その日の午後、王宮には貴族たちが次々と押しかけてきた。
「殿下! 我が領地の運営計画について、説明をいただきたい!」
「王家と公爵家の共同事業はどうなるのですか!」
「娘を公爵家の嫡男に嫁がせる話が進んでいたのですが、今回の件で先方が判断を保留すると!」
「それは俺の婚約破棄と関係ないだろう!」
「関係がないとお思いですか!?」
アルヴェルトは、次第に声が小さくなっていった。
公爵家は王国でも有数の名門であり、領地の経済力も大きい。
セレスティア自身も、王妃教育の一環として多くの貴族や役人と関係を築いて
いた。
彼女との婚約は、単なる男女の約束ではなかったのだ。
王家と公爵家が協力していくという、政治的な意味も持っていた。
そして、その関係を公の場で一方的に断ち切ったのは、アルヴェルト本人である。
「……分かった。分かったから、順番に話してくれ!」
「では、まず水路整備事業について」
「それは財務大臣に聞いてくれ!」
「財務大臣は、外交大臣と隣国への説明を協議中です」
「では外交大臣に!」
「商務大臣と、公爵領の商人への対応を相談しております」
「じゃあ商務大臣!」
「先ほど、領主たちの説明を求める会議に向かわれました」
「全員いないじゃないか!」
アルヴェルトは叫んだ。
そのとき、年配の貴族が一歩前に出た。
「殿下。恐れながら、申し上げます」
「……何だ」
「婚約破棄そのものを、我々が責めているわけではございません」
「そ、そうか!」
「しかし、王族の婚約は個人の恋愛だけで成り立っているものではありません。関係する人間がいる以上、相応の責任がございます」
「う……」
「それを、あのような大勢の前で突然宣言なさった。事前の相談も、関係者への説明もなく」
貴族は眼鏡を押し上げた。
「殿下。せめて、事前にご相談いただけませんでしたか」
「……婚約破棄するのに、事前の相談が必要なのか?」
「必要です」
「うるさい!」
「では、今後は何かを決定する際、事前にご相談いただけるということでよろしいですね?」
「なぜ俺が説教されているんだ!?」
周囲の貴族たちは、誰も答えなかった。
答える必要がなかったからだ。
◇
三日後。
アルヴェルトは、ようやくセレスティアと話し合う機会を得た。
「セレスティア! 頼む、なんとかしてくれ!」
彼女は、書類を手にしたまま首を傾げた。
「何をでしょうか?」
「この状況だ! お前なら、どうすればいいか分かるだろう!?」
「もちろん、分かりますわ」
アルヴェルトの顔が明るくなった。
「本当か!?」
「まず、契約を一つずつ確認し、必要なものは再交渉すること。公爵家と王家の信頼を回復するには、殿下ご自身が関係者に説明し、責任を果たすことですわ
ね」
「そ、それを手伝ってくれ!」
「お手伝いはできますわ。ただし、わたくしはもう殿下の婚約者ではありません。公爵家の人間として協力できる範囲には限りがございます」
「そんな……!」
「それから、王宮行政局への採用が決まりましたの」
「は?」
「来月から財務関係の部署で働く予定ですわ」
アルヴェルトは、ぽかんと口を開けた。
「なぜだ!?」
「以前から希望しておりましたので」
「お前は公爵令嬢だろう!?」
「公爵令嬢でも仕事はできますわ」
「そういう問題じゃない!」
「では、どういう問題でしょう?」
「……いや、それは」
アルヴェルトは言葉に詰まった。
彼女が自分の婚約者でなくなったことは理解していた。
だが、セレスティアが自分とは無関係に人生を進めていくことを、なぜか想像できていなかったのだ。
彼女は王妃になるものだと思っていた。
自分の隣に立ち、自分を支え、王家のために働くものだと思っていた。
しかし、セレスティアは違った。
彼女には彼女の希望があり、目標があり、人生があった。
「殿下。わたくし、今回の婚約破棄を恨んではおりませんの」
「……本当か?」
「ええ。むしろ、自分の進みたい道を選ぶ機会になりました」
セレスティアは、穏やかに微笑んだ。
「ただ、殿下が引き起こされた問題については、殿下ご自身で責任をお取りくださいませ」
「……分かった」
「よろしいですわ」
彼女は一礼し、執務室を出ていった。
その背中を見つめながら、アルヴェルトはようやく理解した。
セレスティアは、自分に捨てられたのではない。
彼女は、自分の人生を選び直しただけなのだ。
そして自分は、その結果として生じた問題を、自分の責任で片づけなければならない。
◇
さらに一週間後。
アルヴェルトは、机の上に積み上げられた書類を眺めていた。
水路整備事業の再交渉。
隣国への説明文書。
公爵家との契約の見直し。
商人たちへの補償に関する協議。
そのほか、大小さまざまな問題が山積みになっていた。
隣では、ミレイアが不安そうにこちらを見ている。
「殿下……。私たち、これからどうなるのでしょうか?」
「……どうなるって?」
「その、結婚のお話です」
「ああ……」
アルヴェルトは、遠い目をした。
結婚。
そうだ。自分はそのために婚約を破棄したのだった。
だが、現実には結婚の準備どころではない。
「少し、待ってくれ」
「少しって、どれくらいですか?」
「……分からん」
「分からないんですか!?」
「俺だって分からないんだ!」
思わず声を荒らげてしまい、アルヴェルトは頭を抱えた。
ミレイアは悲しそうにうつむいた。
彼女に罪はない。
自分が軽率だったのだ。
恋愛をしたいと思うこと自体は、悪いことではなかったのかもしれない。
しかし、自分は王族だ。
自分の言葉や行動が、どれだけ多くの人間に影響するのか。そのことを、あまりにも理解していなかった。
そのとき、扉がノックされた。
「殿下。公爵令嬢から書簡が届いております」
「セレスティアから?」
アルヴェルトは、慌てて封を切った。
そこには、簡潔な文章が記されていた。
『殿下。
先日の件につきまして、必要な書類の一覧を作成いたしましたので、お送りいたします。
なお、今後のご相談は、王宮行政局の担当部署を通してお願いいたします。
公爵家として必要な協議には応じますが、個人的なご用件につきましては、お引き受けいたしかねます。
セレスティア・ヴェルクレア』
アルヴェルトは、ゆっくりと書簡を机に置いた。
「……簡単に婚約破棄なんて言うんじゃなかった」
その言葉に、ミレイアが小さくうなずいた。
「そうですね……」
「お前までうなずくな!」
「で、でも、殿下が言ったことですし……」
「分かっている! 分かっているが、もう少しこう、何かあるだろう!」
アルヴェルトは再び書類の山を見つめた。
明日も会議。
明後日も会議。
来週には、隣国の使節団がやってくる。
そして来月には、水路整備事業の予算を決めなければならない。
恋愛に自由を求めた結果、彼はかつてないほど自由を失っていた。
もちろん、婚約破棄を撤回するつもりはない。
セレスティアはもう、自分の人生を歩き始めている。
ならば、自分も自分の責任を果たすしかない。
アルヴェルトは、震える手で最初の書類を手に取った。
「……よし。まずは水路整備事業からだ」
「殿下、こちらの書類もございます」
「まだあるのか!?」
「はい。こちらは公爵家との契約に関するもので、こちらは隣国への説明文書、
こちらは商人たちへの回答案です」
「もういい! 分かった! 全部やる!」
王子の悲鳴が、執務室に響き渡った。
その頃、セレスティアは王宮行政局の自分の机で、初めての仕事に取り組んでいた。
窓から差し込む午後の日差し。
机の上には、整理された書類が並んでいる。
彼女は一枚の書類に目を通し、満足そうに微笑んだ。
「なるほど。これは、なかなか面白い仕事ですわね」
もう、王子の婚約者ではない。
誰かの隣に立つために生きる必要もない。
自分の能力で、自分の仕事をする。
それが、セレスティアの望んでいた人生だった。
彼女はペンを取り、書類に署名した。
そして、ふと思い出したように呟いた。
「それにしても……」
昨日、王宮の廊下で、疲れ切ったアルヴェルトが叫んでいた言葉。
『簡単に婚約破棄とか言うなよ!』
セレスティアは、くすりと笑った。
「本当に、そうですわね」
けれど、もう遅い。
婚約破棄を宣言したのは、アルヴェルト自身なのだから。
そして、その後始末もまた、彼自身の仕事なのである。
今日も王宮のどこかで、王子の悲鳴が響いていた。
簡単に婚約破棄などと言った男の、長い長い後始末は、まだ始まったばかりだった。




