【スピンオフ・読切】「無能な君との婚約は破棄する」と笑われた夜、勝ったのは私でした――偽聖女が銀板三枚目で奇跡の正体に気づき、王都の井戸が濁った日に殿下の帳簿を差し出すまで
笑い声には、順序がございます。
まず身分の高い方が笑い、次にその取り巻きが笑い、それから事情を知らない方々が、笑うべき場面なのだと察して声を重ねます。
あの夜も、そうでした。
「無能な君との婚約は破棄する」
レナード殿下は、広間中に聞こえる声でそうおっしゃいました。言葉の終わりには、愉快でたまらないという笑いが混じっていました。
私は殿下の腕の中におりました。
正確には、肩を抱かれ、逃げる理由もないので寄り添っていたのです。少し俯けば慎ましく見え、顔を上げれば殿下への信頼を示せる。どちらが今の場にふさわしいかは、正面に並ぶ方々の表情を見れば分かりました。
私は顔を上げました。
殿下の向こうでは、イザベラ様が扇で口元を隠していらっしゃいました。扇の上に覗く目が細くなっていたので、何を隠しているかは誰にでも分かります。
「お姉様も、これで肩の荷が下りるでしょう」
その声を合図にしたように、笑いはもう一段大きくなりました。
誰もが、どちらが選ばれ、どちらが捨てられたのかを理解していました。理解したうえで、選ばれた側に立とうとしていたのです。
私は微笑みました。
大きく笑う必要はございません。勝った者は、勝利を確かめるために声を張る必要がないからです。殿下の指が私の肩を引き寄せるたび、近くにいた令嬢方の視線が私の髪飾りや首飾りへ移りました。明日には同じ意匠の注文が増えるでしょう。翌週には、私を避けていた方から茶会の招待状が届くはずです。
それは誇らしいことではなく、ただ、そうなるというだけのことでした。
人は権威のある場所に集まります。権威が誰かを愛しているなら、その愛された者のそばにも価値があると考えます。私が聖女と呼ばれ始めてから、何度も見てきた動きでした。
ですから、セシリア様が何か言い返すものと思っておりました。
殿下の判断が誤りであるとか、ご自分には功績があるとか、長年の婚約をこのような場で破棄するのは礼を欠くとか。正しいことを並べるほど、負けた者の弁明に聞こえます。殿下が笑えば皆も笑い、イザベラ様が涙の一つでも拭うふりをすれば、姉に苦しめられた妹という構図も完成します。
どの言葉が来ても、こちらには返す言葉が用意されていました。
けれど、セシリア様は取り乱しませんでした。
一礼なさいました。
「かしこまりました」
それだけでした。
声はよく通りましたが、広間に訴えかける響きではありませんでした。殿下を責めもせず、私を見据えもせず、妹君に反論もしない。与えられた決定を受け取り、もう必要がないとでもいうように、身を翻しました。
裾が床を滑り、扉の向こうへ消えました。
私は殿下の胸元に添えていた指へ、ほんの少し力を入れました。
追いすがられなかったことが、不満だったわけではございません。それこそ望んだ結末です。泣いてくだされば気分がよかった、などとも思いません。涙は時に、泣かせた側を悪者にいたします。あれほど静かに去っていただけたのですから、面倒のない幕引きでした。
そう考えました。
それでも、「かしこまりました」という短い言葉だけが、指先に刺さった細い棘のように残りました。
「案外、素直だったな」
殿下はお笑いになり、杯を掲げました。
「これで、わたしも真にふさわしい者を選べる」
いくつもの杯が続きました。私を称える言葉も聞こえました。清らかな方、慈悲深い方、天の祝福を受けた方。先ほどまで私を値踏みしていた方々が、殿下の視線が届く場所では競うように頭を下げました。
私は一人ずつに礼を返しました。
「もったいないお言葉でございます」
「私など、ただ祈ることしかできません」
「すべては皆様の信仰あってのことでございます」
どの言葉も嘘ではないつもりでした。
少なくとも、その夜までは。
私がしていたのは祈ることでしたし、人々がひざまずかなければ聖女は成立いたしません。銀板のことは、儀式に必要な聖具だと聞かされていました。聖なる力を受け止めるための器。選ばれた私が持つことで光り、人々の濁りを取り除くもの。
最初の一枚を使った日の光景は、今も覚えております。
銀板を袖の内側に忍ばせ、両手を組んで祈ると、白い光が指の隙間からこぼれました。儀式の水は澄み、そこに指を浸した方の腫れは少し引きました。死者が起き上がったわけでも、重い病がたちまち消えたわけでもございません。それでも、目の前で濁りが消え、痛みが和らげば、人は奇跡と呼びます。
私も、そう呼びました。
二枚目も同じでした。
祈り始める。銀板が温かくなる。光が満ちる。用意された水の色が薄くなる。見守る人々が息を呑み、やがて泣きながらひざまずく。
同じ順序が二度続けば、それは私の中で仕組みではなく作法になりました。
祈りの言葉は毎回少し変えておりました。参列する方の事情に合わせるためです。婚姻の祝福を願う二人には変わらぬ結びつきを、病床の家族を案じる者には安息を、長旅へ出る者には無事を。銀板は、どの言葉にも等しく光を返しました。
私の祈りが届いているからだと考えるのに、不都合はございませんでした。
夜会から戻ったあと、私は贈られた花を侍女に分けさせました。数が多すぎれば、部屋に置いても香りが混ざるだけです。高価なものは殿下の目につく場所へ、送り主の名札がないものは廊下へ。翌朝に礼状を書くべき相手だけを覚え、鏡の前で髪飾りを外しました。
鏡の中の私は、勝った女の顔をしておりました。
聖女として認められ、殿下に選ばれ、邪魔になる婚約者は自ら退いた。広間の誰も、明日になってセシリア様の側へ移ろうとはしないでしょう。人は沈む船より、金色に飾られた船へ乗りたがります。
眠る前、銀板を収めた箱を確かめました。
細長い箱の中には、薄布に包まれた板が並んでいました。使い終えた二枚は別の区画へ戻すよう命じられております。曇りが生じていたため、同じものを続けて用いるべきではないのだろうとは思っていました。
けれど、それを不思議とは感じませんでした。
香炉の炭も尽きます。祭壇の蝋燭も短くなります。聖なる儀式に用いた品が姿を変えることは、力が働いた証しだと説明できます。銀板の曇りも、私の代わりに穢れを受けた跡なのだろうと、都合よく理解していました。
三枚目の包みには、まだ曇り一つありませんでした。
私は蓋を閉じました。
そのときにも、あの一礼が浮かびました。
何も持たずに出て行ったはずの方が、なぜ、あれほど落ち着いていたのでしょう。
答えは出ませんでした。出す必要もないと決め、灯りを消しました。
翌朝、私はいつもより早く祭祀室へ入りました。
夜会に出席していた方々が、早くも祝福を求めて集まっていたからです。殿下に選ばれた聖女の力を確かめたい者。婚姻の許しを得たい者。私に近づいたという事実を、家へ持ち帰りたい者。願いの中身は違っても、ひざまずく姿は同じでした。
白い布をかけた卓上に、儀式用の水が置かれていました。その水へ銀板を直接沈めることはいたしません。袖の下で板を握り、器の縁に指を添え、祈りを通じて力を移す。それが教えられた手順でした。
三枚目は、前の二枚より冷たく感じました。
朝の空気のせいだと思いました。私は微笑み、最初の二人を前へ招きました。
婚姻の祝福を望む二人でした。互いの手首に白い紐を結び、私の前で頭を垂れていました。緊張しているのでしょう。片方の指が細かく震え、もう片方がそれを覆っていました。
私は器へ手を伸ばしました。
そのとき、袖口の留め具が引っかかり、銀板の端が先に器の縁へ触れました。
まだ祈りの言葉を口にしておりませんでした。
それなのに、板は光りました。
ほんの一筋、見落としてもおかしくないほど淡い光でした。白い布に銀色の影が走り、すぐに消えました。
私は手を止めました。
「聖女様?」
呼ばれ、私は目を伏せました。
「失礼いたしました。お二人のお心が、とても強く伝わってまいりましたので」
それらしい理由を口にすると、震えていた指が安堵したように緩みました。
私は改めて祈りました。
いつもと同じ言葉を、いつもと同じ速さで唱えました。けれど、光はすぐには現れませんでした。
一呼吸。
二呼吸。
前の二枚なら、最初の一節を終える前に指の間が白く染まりました。三枚目は、二節目に入ってからようやく淡く光りました。しかも、器の底まで届かず、水面に薄い膜を張るように揺れただけです。
参列者には違いが分からなかったようでした。
むしろ、長い沈黙を深い祈りだと思ったのでしょう。すすり泣く声さえ聞こえました。
私は祈りを続けながら、銀板を握る指を少しずらしました。
掌の中心に刻まれた線へ板の角を押し当てると、光が強くなりました。力を込めたからではありません。板の別の面が、器の縁へ近づいたからです。試しに祈りの言葉を一つ飛ばしました。光は消えませんでした。
次の一節を、声だけ敬虔に整えながら、頭の中では順序を数えました。
言葉と光が合っていない。
祈りの切れ目とも合っていない。
板と水の距離が近づいたときに強まり、離したときに弱まっている。
私は両手を広げ、祝福の終わりを告げました。
「お二人の行く末に、穏やかな光がございますように」
二人は泣きながら礼を述べました。周囲からも感嘆の声が上がりました。水は前より澄んでいましたが、底にはごく薄い濁りが残っていました。
私はそれを布で隠しました。
「次の祈りの前に、しばし心を静めとうございます」
誰も疑いませんでした。聖女が祈りを整えるためだと言えば、待つことさえ尊い時間になるのです。
衝立の奥へ下がり、私は扉を閉めさせました。
手伝いも外へ出しました。一人になってから、三枚目を卓上へ置きました。
銀板の表面には、先ほどまでなかった曇りが浮いていました。中央から端へ、ごく薄く広がっています。使い終えた一枚目と二枚目にも、同じ向きの曇りがありました。ただし、二枚はもっと濃く、銀色がほとんど見えないほどでした。
私は水差しから、きれいな水を小皿へ注ぎました。
祈らずに銀板を近づけました。
何も起こりません。
次に、先ほどの器の底に残っていた濁りを一滴だけ落としました。銀板の端が触れた瞬間、白い光が走りました。
私は黙ったままでした。
神の名も唱えず、願いも込めず、ただ板を水へ近づけただけでした。
それでも濁りは薄くなりました。
もう一滴落としました。光は先ほどより弱くなりました。
三度目には、板を押し当てても、細い線が一度またたいただけでした。
そこで私は箱を開け、使っていない四枚目を取り出しました。
同じ小皿に、同じ濁りを一滴落とします。言葉を発さず、四枚目の端を触れさせました。
小皿全体が白く光りました。
違いは、私ではありませんでした。
祈りの深さでも、信仰でも、二人の思いの強さでもない。銀板に残っている何かが、使うたびに減っているのです。三枚目の光が弱かったのは、私が夜会で浮かれていたからでも、セシリア様を追い出した罰でもございません。
板の残りが少なかった。
それだけでした。
私は、三枚目と四枚目を並べて見ました。
同じ大きさ、同じ厚み、同じ紋様。けれど一方は曇り、一方は澄んでいる。四枚目には力があり、三枚目にはほとんどない。私がどちらを握っても結果は変わらないでしょう。
奇跡ではない。
これは、使えば減る道具でした。
そう理解した瞬間、祭祀室の外から祈りの声が聞こえました。次に祝福を受ける者たちが、私のために唱えているのでしょう。
扉一枚の向こうで、大勢がひざまずいていました。
私が出て行き、今確かめたことを話せば、皆はどのような顔をするでしょう。
祈りに答えたのは私ではありませんでした、と。
言葉より先に光った板を、私は聖具と呼んでいただけでした、と。
皆様の信仰を受け止めたのではなく、減っていくものを握っていただけでした、と。
おそらく、最初は誰も信じません。けれど同じ試し方をすれば分かります。私でなくても光るかもしれません。神の名を唱えなくても濁りは消える。そうなれば、ひざまずいている人々は立ち上がります。
立ち上がった人の目は、ひざまずいていたときとは違います。
昨夜、私へ礼をした方々も変わるでしょう。殿下が私の肩を抱いた理由も、聖女という名がなくなったあとまで残るとは限りません。婚約者を捨てて選んだ相手が、ただ借りた道具を握っていた女だったと知れば、殿下の笑いは誰へ向くでしょう。
私は答えを知っておりました。
笑い声には順序がございます。
次に最も身分の高い方が私を笑えば、広間にいた全員が続きます。
箱の中には、まだ銀板が残っていました。
今ここで真実を告げなくても、四枚目を使えば儀式は続けられます。光は戻り、水は澄み、待っている方々は安心して帰る。誰も傷ついた顔をしない。殿下も恥をかかない。私も聖女でいられる。
それは大勢のためでもありました。
そして、何より私のためでした。
どちらがより大きいかを比べることはいたしませんでした。比べれば、答えまで口にしなければならなくなるからです。
私は曇った三枚目を布に包み、使用済みの区画へ収めました。
四枚目を袖の内側へ滑らせます。
扉を開けると、待っていた者たちが一斉に頭を垂れました。その中には、先ほど祝福を受けた二人もいました。互いの手を握り、私を疑うことなく見上げています。
「お待たせいたしました」
私はいつもと同じ微笑みを作りました。
「祈りは整いました」
次の二人が進み出ました。私は名を尋ね、願いを聞き、白い紐を結ばせました。答えを知る前と同じ手順を、一つも違えず繰り返しました。
四枚目を握り、器へ手を添えます。
祈りの第一節を唱える前から、掌の中では銀板が温かくなっていました。
私は気づかないふりをして、目を閉じました。
言葉を唱えます。
白い光があふれました。
祭祀室の隅まで照らす、前の二枚と同じ強い光でした。歓声が上がり、何人かは泣き、何人かは床へ額をつけました。私の名と神の名が、区別もなく重なって聞こえました。
昨夜の広間で見た背中が、ふいに脳裏をよぎりました。
取り乱さず、一礼し、たった一言だけを残した背中です。
あの方が何を考えていたのか、私には分かりません。
私に分かるのは、私が今、何をしたかだけでした。
奇跡ではないと知りました。
知ったうえで、私は四枚目を使いました。
光が収まるまで待ち、ひざまずく人々を見渡してから、私は静かに告げました。
「皆様の祈りは、確かに届きました」
それから、王都では、なくなるものが増えました。
最初は塩でした。
厨房から、味が薄くなったという不満が出ました。料理人は保存用の分を食卓へ回せないと説明し、侍従は商人に急がせると答えました。けれど翌日も、その翌日も荷車は門をくぐりませんでした。
代わりに届いたのは請求書でした。
納期を守れなかったことへの違約金。契約を途中で変更したことへの違約金。受け取るはずの品を受け取れなくなった側からではなく、王宮の側が支払うべき金額ばかりが、赤い封蝋を割るたびに増えていきました。
「脅しているだけだ」
殿下はそうおっしゃいました。
「王家を相手に、本気で取り立てられるものか」
私も、そうかもしれないと思いました。
契約書を作っていた方々が、いつの間にか王都からいなくなっていたことには気づきませんでした。衣装の刺繍を任されていた職人、馬具を調整する職人、祭具の細工を直す職人。呼びつけても返事がなくなり、工房を訪ねさせると戸が閉まっている。それでも別の者を雇えばよいのだと、誰もが申しました。
別の者も、ほどなく消えました。
遠い噂だけが届きました。
公爵令嬢が隣国へ移ったらしい、と。
それがセシリア様を指していることは分かりましたが、何をなさっているかは分かりませんでした。塩が来ないことも、請求書が積み上がることも、職人が去ることも、私には別々の出来事に見えておりました。
イザベラ様は、ご領地からの収入を増やせばよいとお考えになりました。
冬越し税を三倍にする命令書へ署名なさったのは、最初の霜が降りる前でした。
「払えない者は、土地を使う資格がないのですわ」
扇を閉じる音とともに、そうおっしゃいました。
払えない者は追放されました。
三百六十二名。
当時の私は、その人数を一度聞いただけでした。三百六十二という数が、老人と子どもと、荷物を背負って歩く者たちに分かれているとは考えませんでした。領地の報告書では、一行に収まる数字だったからです。
それでも、祭祀室の前の列だけは短くなりませんでした。
塩が手に入らない者も、職を失った者も、税を納められない者も、最後には祝福を求めました。契約が破られたなら次の契約が結ばれるように。商いが止まったなら道が開くように。追放されるなら旅が無事であるように。
私が解決できることは一つもございませんでした。
けれど、祈ることはできました。
銀板を握れば光が出ました。水に混じった濁りは薄くなりました。喉の痛みが和らぐ者も、腫れが引く者もおりました。その程度の変化であっても、他に頼るものがなければ、人は夜明け前から並びます。
五枚目を使いました。
六枚目を使いました。
七枚目に替えた日、私は箱の空いた区画を数えました。
数えたあと、蓋を閉じました。
列には、婚姻の祝福を求める二人もおりました。片方の家族が借金を抱え、もう片方の家族が婚姻を急がせていると聞きました。私は二人が何を望んでいるかを別々には尋ねませんでした。並んで頭を下げていたので、同じ願いなのだろうと決めました。
「変わらぬ結びつきがございますように」
そう唱えました。
銀板は、本人たちの同意を確かめませんでした。水の濁りに反応して光っただけです。
私も確かめませんでした。
八枚目の光は、前より早く弱まりました。
使い方が増えたからです。初めは儀式の水だけだったものが、飲み水へ、浴槽へ、宴席の葡萄酒へと広がっていました。祝福を受けた酒ならば国の不安を払えると殿下がおっしゃり、貴族方も望みました。
私は断りませんでした。
九枚目を出したころには、王宮の中でも水差しの底に砂が残るようになっていました。井戸の水位が下がり、深く汲むためだと聞きました。郊外では井戸がいくつも干上がっていました。
それでも祭祀室の器だけは満たされました。
列の前で空の器を見せることはできないからです。
朝夕の炊事に使う水を減らし、儀式へ回しました。私はその水を銀板で澄ませ、人々へ一口ずつ与えました。受け取った方々は泣いて礼を言いました。
水を減らされた者が、どこで何を飲んでいるかは尋ねませんでした。
十枚目を使うころ、祭祀室の奥から低い音が聞こえるようになりました。
壁の向こうには親板がございました。
子板が取り込んだ不純物を受ける、大きな銀の板です。当時の私は、そこまで正確には知りませんでした。ただ、祭祀室から動かしてはならないもの、定期的に職人が調整するものだと教えられておりました。
けれど、その職人も消えていました。
親板の縁は黒ずみ、固定具の一つが歪んでいました。修理の申請は出されていました。私も、祭祀室の受領者として書類の端へ印を押しておりました。
修理は来ませんでした。
代わりに、戴冠式の準備が始まりました。
国王印を使った命令が、王宮内を行き交いました。殿下は金箔の冠を作らせ、天蓋へ新しい布を張らせ、広間の柱へ銀の飾りを巻かせました。誰の許しを得た戴冠なのかを尋ねる者は、次の日には席を失っていました。
「奇跡の証しが要る」
殿下が祭祀室へ入っていらしたのは、十一枚目を使い始めた日のことでした。
「民は愚かだ。目に見えるものを掲げれば信じる」
そう言って、壁の覆いを外させました。
親板が露わになりました。子板よりはるかに大きく、表面には黒い筋が幾重にも走っていました。固定具の周囲には細かな亀裂も見えました。
「これは動かしてはならないものです」
私は申しました。
仕組みを告げたのではございません。私自身、親板が何を受け止めているかを、まだすべて理解してはいませんでした。ただ、動かすなと教えられた言葉を繰り返しただけです。
「聖女である君がいれば足りる」
殿下はお笑いになりました。
職人が使うはずだった金具ではなく、兵に槍の柄を差し込ませました。台座の封が砕け、歪んだ固定具が石壁を削り、甲高い音を立てました。
殿下は親板を壊すおつもりではございませんでした。持ち去るために、封を砕いて引き抜かせただけです。けれど板は、抜かれる前からすでに歪み、亀裂が入っておりました。
黒い筋の一本が、銀色の表面を端まで走りました。
殿下はそれを布に包ませ、運び去りました。
親板が失われたあと、祭祀室はひどく静かになりました。低く続いていた音が消え、耳の奥だけが痛みました。
その夜、王都の井戸が銀色に濁りました。
最初に異変が出た井戸の水を、誰かが煮沸しました。湯気を吸った者が倒れました。喉と目を傷め、血を吐いた者もいたと報告されました。それから、火にかけることも禁じられました。
後の検査記録で知りました。
子板が取り込んだ不純物は消えていたのではございません。親板へ送られ、留め置かれていただけでした。歪み、亀裂の入った親板を接続部から無理に外したため、蓄えられていたものが最寄りの水脈へ逆流したのです。
私が清めたと思っていたものが、まとめて王都へ戻りました。
配給水は、一人につき朝夕一杯となりました。
それでも、私の前には列ができました。
今度は婚姻の祝福でも、旅の無事でもございません。銀色の水を飲んで腹を壊した子どもを抱く親たちでした。
「聖女様、どうか」
「この子だけでも」
「祝福のお水を、一口でよいのです」
祭祀室には、差し出せる水がありませんでした。
十一枚目はほとんど曇っていました。親板もありません。新しい水へ近づけても、弱い火花のような光が散るだけでした。
私は子どもの額へ手を当てました。
熱がありました。
手を当てたから分かったのであって、手を当てても熱は下がりませんでした。
幼い口から、細い息が漏れていました。母親は私の袖をつかみ、何度も頭を下げました。私は祈りの言葉を唱えました。銀板を握らずに唱えました。
何も起こりませんでした。
起こるはずがございません。
私は三枚目の朝から、それを知っていました。
「医師のところへ」
ようやく言うと、母親は首を振りました。
「水がないから、薬も作れないと」
私には返す言葉がございませんでした。
次の親が進み出ました。その次も、その次も、腹を壊した子どもを抱えていました。私は一人も治せませんでした。死にかけた者を起こすことも、失われた水を作ることもできませんでした。
泣き声が続きました。
けれど、あの声を聞いて悔い改めた、と書くつもりはございません。
もし他人の苦しみだけで立ち止まれる人間だったなら、私は三枚目の朝に扉を開け、すべてを話していたはずです。
私は、そうしませんでした。
私を止めたのは泣き声ではなく、数字でした。
祭祀室を閉じた夜、私は受領簿を確かめました。
銀板の箱を受け取るたび、私は受領者として署名しておりました。納品書に記された実費は、一枚につき金貨九枚でした。初めて受け取ったとき、安いと思ったので覚えておりました。聖なる品にしては安価なのですねと尋ねると、量産された浄化用具だからだと担当者が答えました。
九枚。
けれど、王宮の帳簿には四十枚と記されていました。
私は、同じ行を何度も見ました。
銀板一枚、金貨四十枚。
実費、金貨九枚。
差額、金貨三十一枚。
間違いではありませんでした。別の頁でも四十枚。さらに別の帳簿にも四十枚。支払先の名目だけが変えられ、祭祀費、浄化費、聖女保護費として重ねて計上されていました。
子板は十一枚。
三十一を十一回足しました。
金貨三百四十一枚。
そのすべてが同じ場所へ入ったわけではございません。役人への口止め、殿下の宴席、私へ贈られた首飾り、イザベラ様の衣装。行き先は分けられていました。
けれど、元になる金を生んだのは、私でした。
私が銀板を受け取り、祈りのふりをして使えば、次の一枚が必要になりました。次の一枚を受け取れば、金貨四十枚を支払ったと記録できました。三十一枚が消え、私が光を見せれば、誰も不自然とは思いませんでした。
三枚目でやめていれば、四枚目以降の請求は生まれませんでした。
私は、四枚目から十一枚目までを数えました。
八枚。
知らずに受け取った数ではございません。
知ったあとに使った数でした。
帳簿の後ろには、親板の修理申請が綴じられていました。
必要額の欄には査定済みの印がありました。支出許可も下りていました。けれど、実際の支払先は修理工房ではありませんでした。
戴冠式装飾費。
金箔の冠、天蓋の縫い取り、柱へ巻く銀飾り。親板を直すための金が、殿下を王に見せるための飾りへ移されていました。
修理されていれば、固定具は歪んだままではありませんでした。亀裂も塞がれていたでしょう。少なくとも、引き抜いた瞬間に不純物が井戸へ逆流することはなかったと、後に検査官は判断しました。
水が汚れたのは、運が悪かったからではございません。
必要な修理費を、別のものへ使ったからでした。
九、四十、三十一。
十一、三百四十一。
三枚目、四枚目、十一枚目。
親板の修理費、戴冠式の装飾費。
並べれば、逃げる余地がなくなりました。
私は善人になったのではございません。子どもたちのために勇気を振り絞ったのでもありません。
数えられてしまったのです。
誰が、いつ、何を受け取り、いくらを別の名目へ移したのか。どの頁を隠すために、どの帳簿へ二重に記したのか。そして、私が何枚目から知っていたのか。
最後まで数えると、帳簿を元の棚へ戻すことはできませんでした。
戻したところで、数字は消えません。
私は二冊の帳簿を布で包みました。受領書も入れました。銀板十一枚も、一枚ずつ使用順に並べて箱へ戻しました。うち一枚は、使ううちに割れて破片になっていました。欠けたまま、数のとおりに並べました。
夜明け前、王宮の外周には、すでに十二席評議会の監査を受け入れるよう命じる文書が掲げられていました。門を守る兵の半数は、殿下の命令では動かなくなっていました。
私は帳簿と箱を持って、監査官の前へ出ました。
「これは、レナード殿下の二重計上帳簿です」
声は震えませんでした。
立派だったからではございません。言うことを決めていたので、決めた順に口を動かしただけです。
「銀板の実費は一枚につき金貨九枚です。帳簿上は四十枚。差額は三十一枚です。私は受領者でしたので、実費を知っております」
監査官は帳簿を受け取りました。
「いつから銀板の仕組みを知っていた」
「三枚目を使った朝です」
「その後も使用したか」
「はい。十一枚目まで」
言葉を和らげませんでした。
知らなかったことと、知っていたことを混ぜれば、数字が合わなくなるからです。
「保護と免責は同じではない」
監査官は申しました。
「承知しております」
「帳簿の提出によって、あなたの行為が消えることもない」
「承知しております」
誰も礼を言いませんでした。
帳簿を差し出したことを褒める者もおりませんでした。それは当然でした。盗まれた品の隠し場所を知る者が場所を話しても、盗みがなくなるわけではございません。
私は銀板十一枚を返還しました。
箱の中身が数えられ、受領印が押されました。再接続は禁止。親板は回収後、ヴェルデン大公国と十二席評議会の共同保管とし、年四回検査する。その決定も、私の希望とは関係なく記されました。
私には三十日間の仮保護が与えられました。
仮保護とは、逃げてよいという意味ではございません。公開審理まで身柄を管理し、証言を失わせないための措置でした。私有財産は被害返還のため保全され、移動には許可が必要となりました。
首飾りも、髪飾りも、贈られた衣装も、私の手元から離れました。
あの夜、誰の目につく場所へ置くかを選んだ花だけは、とっくに枯れておりました。
共同検査所へ移された日、イザベラ様は先に帳簿机へ座っていらっしゃいました。
扇はお持ちではありませんでした。
旧公爵家の債務額と、将来所得から返す不足分を転記しておられました。追放された三百六十二名は全員、ヴェルデン大公国に残り、自由民の契約者となったと聞きました。
イザベラ様はその報告を読み、何もおっしゃいませんでした。
私も慰めませんでした。
あの方々が新しい暮らしを得たことは、追放した行為を正しくいたしません。イザベラ様が帳簿をつけることも、三倍の税を取り消したことにはなりません。
私たちの机には、それぞれ未清算額の欄がございました。
初日の賃金から控除される額が記入されても、残額はほとんど動きませんでした。イザベラ様の不足分も、私の被害返還額も、零からは遠いままでした。
それが更新でした。
減ったと喜べるほどの額ではなく、始まったとだけ分かる数字でした。
私に与えられたのは、共同検査所の記録係の椅子でした。
見習い期間は三か月。
勝手な外出は禁止。移動は許可制。賃金の一部は返還へ回す。記録の改変、推測の混入、当事者に代わる回答は禁ずる。
最初の封書には、私がかつて祝福した婚姻の記録が入っていました。
四十六組のうちの一組でした。
祝福を受けた二人は、別々の部屋へ通されました。家族が同席を求めましたが、公証人は認めませんでした。
「婚姻を続けるか、契約を修正するか、終了するか。答えるのは当事者です」
夫の聞き取りが先でした。
彼は婚姻を続けたいと答えました。ただし、妻が望むなら住居契約を改め、双方の家から離れて暮らす、と申しました。
私はそれを書きました。
次に妻が入りました。
扉の外で待っていた母親が、娘は婚姻の続行を望んでいると書いた紙を差し出しました。かつての契約書にも、妻は夫の家族と同居することに同意したと記されていました。
けれど、妻は紙を見て首を振りました。
「その答えは、お母上がお書きになったものですね」
私は確かめました。
「はい」
「契約書の同居条項について、ご自身で説明を受けましたか」
「いいえ。祝福を受けたのだから、もう決まったことだと言われました」
私は、契約に同意なし、と書きかけました。
公証人が指先で机を一度叩きました。
「事実と推測を分けなさい」
私は筆を止めました。
説明を受けていないことと、同意がなかったことは同じではございません。本人がまだ口にしていない結論を、私が先に書こうとしておりました。
「失礼いたしました」
紙を替えました。
公証人は私を慰めず、代わりに新しい用紙を一枚寄越しました。それ以上は何も言いませんでした。
妻が答えるまで、私は待ちました。
沈黙を埋める祈りも、安心させるための言葉も口にしませんでした。私が望む結論へ導けば、それは祝福の代わりに記録を使うだけです。
やがて、妻は顔を上げました。
「婚姻は続けます」
そこで一度、息を継ぎました。
「でも、あの家には戻りません。住む場所は、夫と二人で決めます」
母親の紙とも、古い契約書とも違う答えでした。
夫が先に述べた希望と合わせ、婚姻は続行、住居条項は修正協議へ、と公証人が確認しました。決めたのは私ではありませんでした。祝福でも、家族でも、官庁でもございません。
二人の、今の言葉でした。
記録を終えると、公証人は次の封書を机の端へ置きました。合格とも、よくできたとも申しませんでした。
私の未清算額は残っていました。公開審理も、返還も、賃金の控除も、まだ始まったばかりでした。
私は新しい用紙に日付を入れました。
それから、先ほど聞いた言葉を、祈りに直さず、救いにも変えず、一字ずつそのまま書き取りました。
「婚姻は続けます。でも、あの家には戻りません。住む場所は、夫と二人で決めます」




