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悪役令嬢不在の世界で、ヒロインは自分を苛め始めた【改稿版】  作者: 宮野夏樹


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2/2

02.後日談:悪役令嬢不在の世界で、それでも物語(あした)は続いていく


 舞踏会の夜から、季節は巡った。王立ガレア貴族学園の中庭では、蔦薔薇が静かに冬支度を始めている。葉は鮮やかな色を落とし、花はもう咲かない。けれど、雪の下で春を待つ根は、確かに瑞々しく生きている。


 わたしはその様子を、回廊の影から眺めていた。耳を澄ませば聞こえてくるのは、冬の鳥の羽ばたきと、遠くで談笑する生徒たちの柔らかな声。───平穏だった。少なくとも、今この場所にあるのは、演じられた安らぎではない。


 アメリア・ローズベルは、もう自分を苛める台詞を口にしない。「庶民の分際で」だとか、「身の程を知りなさい」だとか、かつて彼女自身を縛り付けていた呪詛のような言葉は、学園のどこからも聞こえなくなった。


 授業中も、廊下でも、彼女は一歩引いた「聖女」を演じるのをやめ、等身大の少女として穏やかに笑い、誰かの顔色を窺うことなく自分の歩幅で歩いている。王太子エドワード殿下との関係も、以前よりずっと健全なものに変わっていた。


 かつての殿下は「悲劇に見舞われる彼女」を救うヒーローとしての自分に酔っていた節があったが、今は違う。彼は、アメリアが抱えていた孤独と「物語への強迫観念」を正面から受け止め、それを共に乗り越えようとする一人の男性として彼女の傍にいた。


 学園内では、二人が並んで歩く姿は、もはや「身分差を乗り越えたドラマ」ではなく、ごくありふれた「睦まじい恋人たち」の風景として馴染んでいる。


 けれど、すべてが完全に解決したわけではない。学園の外、社交の場では、今もなおアメリアへの風当たりは少なからず存在していた。あの舞踏会の夜、自らを悪役と称して叫んだ彼女の姿は、保守的な貴族たちの記憶に「異物」として焼き付いてしまったからだ。


「精神の危うい令嬢」

「何をしでかすか分からない平民」


 直接耳にすることはないが、茶会や夜会で向けられる冷ややかな視線や、不自然に途切れる会話。アメリアは今も、その空気という名の棘に刺され続けている。


 だが、現在のアメリアは、その悪意から目を逸らさない。かつての自作自演という過酷な経験が、皮肉にも彼女に「自分の立ち位置を客観視する」という冷静な強さを与えていた。




「クリスティアナ」


 その清らかな声に振り向くと、アメリアが中庭の入口に立っていた。かつての華美な装飾を削ぎ落とし、落ち着いた色合いの外套を纏った彼女は、血の通った一人の人間としてそこにいた。その瞳には、かつての焦燥や狂気はもう微塵も感じられない。


「こんなところで、また何を観察していたの?」

「……薔薇が眠るのを。冬を越すための準備は、人間も植物も同じだと思いまして」


 そう答えると、アメリアは小さく、けれど心の底から楽しそうに笑った。


「相変わらず、詩的な観察ね。そのノート、今は何が書かれているのかしら」


 わたしはポケットに入れていた、小さなノートを指でなぞった。かつて彼女の悲痛な自作自演を、一字一句漏らさず書き留めていた黒い表紙のノート。かつては狂気で埋め尽くされていたページは、今では白紙が多い。


「……書くことが、極端に減りました。あなたが、演じるのをやめてしまったから。私の筆は、誰かが劇的な何かをしていないと動かない、業の深い筆なんです」


 冗談めかして言うと、アメリアは少しだけ目を伏せ、穏やかな表情で言った。


「私もよ。今でも時々、夢を見るの。誰かに苛められ、冷たい水を浴びせられ、階段から突き落とされそうになる……あの物語の通りの夢を」


 わたしの指先が止まる。彼女の夜は、まだ完全に静まり返ったわけではないのだ。

 

「でもね」


 彼女は顔を上げ、冬の柔らかな日差しをその瞳に宿して続けた。


「目が覚めて、冷たい空気を感じると、心から安心するの。ああ、私はもう、台本通りの人形じゃないんだって。誰かを憎む役も、誰かに守られるのを待つだけの役も、全部終わったのねって。これからは、真っ白なページに私自身の言葉を紡いでいかなきゃいけない」


 王太子殿下との婚約は、今も保留のままだ。愛が足りないからではない。国が、彼女という存在を「王妃」として受け入れるための準備期間を設けているのだ。


 以前の彼女なら、その停滞に焦り、また自ら事件イベントを起こして物語を動かそうとしただろう。けれど、今のアメリアは、その沈黙の時間さえも大切に味わっているように見えた。


「急がなくていいのよね、きっと」


 彼女はそう言って、冬の高く澄んだ空を見上げた。


「物語なら、イベントを逃すとバッドエンドだけど……現実は、イベントとイベントの合間にある、何でもない時間にこそ本当の幸せが詰まっているんだもの」


 わたしはその言葉を、ノートの白紙のページに、静かに書き留めた。これは演技ではない。誰に見せるための台詞でもない。彼女という一人の少女が、物語という呪縛を振り解いて手に入れた、真実の答えだ。


「……これからは、これを書くことにするわ」

「え?」

「あなたの芝居じゃなくて、あなたが今日、何を食べて、何を見て、何を思ったか。そんな、世界で一番ありふれた、けれど一番愛おしい日常の断片を。観察させてもらうわ、友人として」


 アメリアは一瞬驚いたように目を見開き、やがて今日一番の、そして一番「アメリア・ローズベル」らしい笑顔を見せた。


「期待しているわ、私の『専属記録係』さん。……ねえ、クリスティアナ。あっちの東屋で、暖かいココアでも飲まない? そこで今日の出来事をゆっくり話しましょう」


 悪役令嬢が不在だった世界は、確かに歪な傷跡を残した。物語のルールは壊れ、用意されていたハッピーエンドへの近道は消えてしまった。


 ───けれど。

 

 アメリアは、ここに生きている。わたしも、彼女の傍らに立っている。物語という舞台を降りた私たちは、冷たい風の吹く現実の上で、ようやく自分たちの足で歩き出したのだ。




 庭園の薔薇は、今はもう咲かない。けれど、厳しい冬を越えた先で、いつかまた、どんな物語にも書かれていない自分たちだけの花を咲かせる日が来るだろう。遠回りでも、不器用でも───それが、わたしたちの選んだ、最高に愛おしい「現実つづき」だった。

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