01.悪役令嬢不在の世界で、ヒロインは自分を苛め始めた
この世界は、わたし───伯爵令嬢クリスティアナ・エインズワースがかつて夢中になって遊んでいた乙女ゲーム、『薔薇の宮廷恋物語』そのものだった。
王都の象徴である王立ガレア貴族学園。燦然と輝く大理石の校舎、薔薇の咲き誇る広大な庭園。そして、わたしを取り巻く学園生活のすべてが、あのゲームのビジュアルそのままだ。
王太子を筆頭に、公爵子息の騎士、侯爵子息の魔法使い、宰相の息子である文官……攻略対象の殿方たちは、絵に描いたような美貌と才覚を持ち合わせている。そして、庶民出身の奨学生として入学してきたのが、物語の主役、アメリア・ローズベルだ。彼女が数々の理不尽な困難を乗り越え、運命の男性と真実の愛を掴む。それがゲームのシナリオであり、わたしが知る『薔薇の宮廷恋物語』の結末だった。
わたしは、ゲームのクレジットにすら名前の出てこないモブ令嬢として、この世界に転生した。平凡な伯爵家の娘。顔立ちも、成績も、魔力も、すべてが「普通」。目立たず、静かに、誰にも干渉せず、与えられた人生を全うする。それが、転生者としてのわたしの誓いだった。
だが、世界はどうにも噛み合っていなかった。本来なら序盤から圧倒的な存在感を放ち、ヒロインを底なしの絶望へと突き落とすことで物語を駆動させるはずの「悪役令嬢」が、不在なのだ。
王太子殿下の婚約者であり、学園の女王としてヒロインを徹底的に苛め抜く役どころのレイラ・ヴァインシュタイン公爵令嬢。彼女の影も形もなく、歴史を紐解いても、誰も彼女が「存在していた」気配すらない。まるで、彼女が担うべき役割そのものが、最初からこの世界に組み込まれていなかったかのように。不在の悪役令嬢。それは、物語の楔が打たれていないことを意味した。そのせいで物語が始まらない。
攻略対象たちは、ただの優秀な学生として日々を過ごしている。王太子殿下は政務の勉強に励み、騎士の公爵子息は剣術の稽古に汗を流す。ヒロインであるアメリアは、その美貌と聡明さで周囲に好意的に受け入れられ、誰にも苛められることなく、平穏な学園生活を送っていた。
平穏。それは、ゲームで言うならバグに近い状態だった。ヒロインの成長も、攻略対象との劇的な出会いも、困難を乗り越えるカタルシスもない。何も起こらないのだ。わたしは転生したモブ令嬢として、それを端から見ていた。しかし、その静寂は、ある日突然、爆発的な音を立てて破られた。
季節は春から初夏へ移ろうとしていた。昼食時。王立ガレア貴族学園の豪華絢爛な学園食堂で、わたしは目立たない窓際の席で、友人のモブ令嬢たちと静かに紅茶を飲んでいた。いつものように、王太子殿下を遠目から眺め、アメリアが穏やかに笑っているのを観察する。
「……どうして……どうして誰も私を苛めてくれないのっ!?」
突如として、食堂の中央付近から、甲高く、悲痛な叫び声が響き渡った。周囲の貴族の令嬢や令息たちの優雅な視線が一斉にそちらを向き、ざわめきが波紋のように広がる。わたしは驚きのあまり、口に含んでいた香り高い紅茶を、思わず吹き出してしまった。
「……ごほっ、ごほっ……な、なにを言っていますの、あの方……」
慌てて口元をナプキンで押さえ、アメリア・ローズベルのほうを見る。彼女は、王太子殿下たちが座るテーブルのすぐ側で、完全に爆発していた。アメリアは、その美しい栗色の瞳を怒りと焦燥で潤ませ、机に両手を叩きつけながら、顔を歪ませて叫ぶ。
「分からないの!? 困難を乗り越えてこそ、物語は輝くのよ! 王太子殿下が私を庇ってくださるためには、誰かが私を苛めなくちゃいけないの! でも悪役令嬢がいないから、何も起こらない! このままじゃ、ただの退屈な学生生活で終わっちゃうじゃない!」
周囲の令嬢や令息たちは、冷ややかな、あるいは戸惑った目で彼女を眺めている。「アメリア嬢、何を言っているんだ。君は被害妄想が過ぎるぞ」と、宰相の息子である文官の彼が、眉をひそめて諭す。それが普通だ。
だが、わたしには分かった。アメリアは真剣そのものなのだ。彼女もまた、ゲームの記憶、あるいは「ヒロイン」としての役割の認識を持っている。そして、その役割を果たすための「敵」の不在に、耐えきれなくなっていた。
ヒロインの苛立ちがピークに達している。このままでは、彼女の精神が崩壊する。わたしは背筋に冷や汗を垂らしながら、事態の推移を見守るしかなかった。
翌日、王太子殿下の執務室前の廊下。殿下と、護衛役の公爵子息が話しているところに、アメリアは一直線に歩み寄った。そして、殿下の前に立ちふさがると、顔を厳しく歪め、大見得を切る。
「庶民風情が王太子殿下に近づくなんて、身の程を知りなさいっ!」
その台詞は、ゲームの序盤で、悪役令嬢がアメリアを階段から突き落とす直前に発するものと、寸分違わぬものだった。殿下も、公爵子息も、目を丸くして立ち尽くす。
「……アメリア嬢?」
王太子殿下が困惑した声で彼女の名を呼ぶと、アメリアは一瞬表情を緩め、そしてすぐに、再び険しい顔に戻る。
「違うの! 今のは悪役令嬢の台詞! 私が悪役令嬢を演じているの!」
説明まで添える徹底ぶり。その姿は、痛々しいほどに滑稽だった。アメリアは胸を張り、演じきろうと必死だ。
「さ、さあ、遠慮なんてするんじゃありません! その汚らわしい平民の手で、殿下のお手を煩わせるなんて……許しませんわ!」
王太子殿下は困惑しながらも、なんとかその茶番に乗ろうと試みた。
「ええと……私は君の身分など気にしない。アメリア嬢は学園にふさわしい資質を持っている」
「なっ……そんなことを言われたら、私は……私は……!」
アメリアは顔を覆い、演技のままに涙目で殿下を見上げる。
「ぐ、ぐすっ……悔しい……! 殿下は優しいけれど、私は庶民……! 立場なんて超えられない……!」
茶番だ。それは完全に茶番であり、傍から見ている令嬢たちは、その光景に唖然とし、一部は失笑を漏らした。だが、恐ろしいことに、それは成立してしまった。アメリアは日々「悪役令嬢ごっこ」を繰り返した。
図書室では、「庶民がここにいるなんて許せない!」と叫んでから、自分で「でも勉強したいの!」と悲痛に返す。剣術場では「あなたなんかが殿方に近づくなんて!」と怒鳴って、自分でその場に泣き崩れる。「平民の分際で」と罵倒する彼女自身が悪役令嬢役であり、その罵倒に耐える可憐なヒロイン役も彼女自身。一人二役を、日に何度も演じ始めたのだ。
周囲は、初めこそ「アメリア嬢は頭がおかしくなったのでは」と噂し、距離を置いた。しかし、攻略対象の殿方たちは真面目に対応した。彼らはもともと、ヒロインを助けるという役割を無意識に持たされている。目の前で、理不尽に自分を苛めている少女に対して、もう一人の少女が涙を流していれば、助けずにはいられない。
王太子殿下は「私は君の味方だ」と優しく手を差し伸べ、公爵子息は「気にすることはない、私たちが守る」と力強く宣言した。その結果、アメリアは着実に好感度を稼いでいった。物語は、悪役令嬢という「敵」を内包することで、歪な形で動き始めたのだ。
世界は狂っている。わたしは転生したモブ令嬢。名前すら物語に出てこない、背景キャラだ。本来なら傍観に徹し、安全な場所からこの狂気の茶番劇を見守るべきだった。けれど、アメリアの姿は、目を離せないほど滑稽で、同時に眩しかった。
彼女は必死なのだ。「ヒロイン」として、この世界に生まれた。与えられるはずの「試練」が存在しないから、自分でそれを背負っている。自分で自分を貶め、傷つけ、そして攻略対象からの優しさでその傷を癒す。
気づけばわたしは、彼女の「悪役令嬢ごっこ」を観察するのが日課になっていた。誰にも見られないように、ポケットサイズのノートに彼女のその日の台詞を書き留めるほどに。わたしは観客であり、彼女は孤独な主演女優だった。
季節は巡り、秋の深まりと共に、学園最大のイベント、学園主催の大舞踏会が開催された。煌びやかなシャンデリアの下、アメリアは王太子殿下にエスコートされ、一際目立つ存在となっていた。完璧なヒロイン像だ。ゲームのシナリオ通り、彼女は愛と信頼を勝ち取っている。そして、そのクライマックス。音楽が一旦途切れたとき、アメリアは王太子殿下の手を離し、会場の真ん中に進み出た。
「皆さま……わたくしは、皆さまに申し上げたいことがあります!」
ざわめきが鎮まり、視線が集中する。アメリアは、その美貌に覚悟と狂気を宿らせていた。
「わたくしこそが、この国の未来を脅かす悪役令嬢よ!」
会場は凍りついた。彼女は、自ら悪役を名乗ることで、断罪イベントとハッピーエンドを同時に回収しようとしているのだ。王太子殿下は、心底困り果てた表情で、静かに否定する。
「アメリア嬢。君は悪役令嬢ではない。君は心優しく、聡明な女性だ」
だが、アメリアは涙を浮かべて叫んだ。
「違うの! わかっていただけないの!? 悪役令嬢がいないと、殿下と私の物語が始まらないのよ! わたくしが、殿下と真実の愛を育むためには、試練が必要なのよ!」
彼女の言葉は、この世界を支配する「物語」のルールへの、悲痛な叫びだった。
舞踏会の後、誰もいなくなった深夜の大理石の廊下。アメリアは一人、座り込んでいた。ドレスは乱れ、顔には涙の跡が残っている。
「……もう、誰も信じてくれない」
その言葉に、遠巻きに様子を見ていたわたしの足が、ピタリと止まる。わたしは、意を決して彼女の元へ歩み寄った。
「ねえ、アメリア嬢。あなたが悪役令嬢をやる必要なんて、ないんじゃない?」
アメリアは驚いて顔を上げた。
「でも……物語が……」
「ここは物語じゃないわ。現実なの。あなたは今、ここにいる。アメリア・ローズベルとして、生きている」
わたしは彼女の隣にそっと腰を下ろした。
「あなたが無理に役を演じなくても、殿下はきっとあなたを見てるわ。……アメリア嬢が、本当に望むものを、見ようとしてる」
アメリアは目を潤ませ、しばらく虚空を見つめた後、かすかに微笑んだ。
「……ありがとう、クリスティアナ。あなたは、いつも見ていてくれたのね」
彼女が、わたしの名前を知っていたことに、わたしは驚いた。彼女は、わたしが隠れてつけていた観察ノートを見ていたのだ。
「あのノートに書かれた台詞は、いつも正確で、少しだけ優しかったから……」
その瞬間、わたしは気づいた。モブであっても、誰かを支えることができる。わたしが持っているのは、ただ、見つめ続けるという、ささやかな誠実さだけだった。
「私はただの観客よ。でも、あなたの演技は、もう十分よ」
アメリアは小さく頷いた。
それから、アメリアは少しずつ「悪役令嬢ごっこ」をやめていった。彼女が自分を苛める言葉を発しなくなると、周囲の視線は好意的なものに戻り、王太子殿下も一人の人間として彼女に向き合い始めた。世界は崩壊しなかった。物語は、現実の感情によって、新しい形で動き始めたのだ。
わたしは相変わらずモブ令嬢のまま。けれど、もうわたしは、ただの観察者ではない。友人という、新しい役割を得た。アメリアは時々、わたしのノートを借りて、過去の自分の台詞を笑いながら読む。
「あの頃の私、必死だったわね。でも、クリスティアナがいなかったら、私は本当に壊れていたかもしれない」
彼女の言葉に、わたしは微笑む。悪役令嬢が不在で、始まらなかった物語。今、ようやく、愛と友情という新しい要素を加え、真実の幕を開けた。
そしてわたしは今日も、彼らの現実の物語を眺めている。舞台の隅で、転生モブ令嬢として、静かに、しかし確かな存在感を持って。




