あれ、見えるんですか?
――うわ……。
夕暮れ時の駅のホーム。おれはいつものように、なんとなく空いたスペースに立ち、電車を待っていた。低く傾いた太陽がホームの端を橙色に染め、線路を鈍く照らしていた。その最後の悪あがきのような日差しに目を細めて顔を背けた、そのときだった。ふと、少し離れた場所に立つ中年の女が目に入った。
俯き加減で、誰にともなくぶつぶつと文句をこぼしていたのだ。
――あれは、“アブない人”だな。同じ車両は避けよう。突然キレてドアを蹴ったりするかもしれん。
「あの……」
「え、はい……?」
もう少し離れようと踵を返した瞬間、背後から声をかけられた。振り向くと、そこにいたのはスーツ姿の男。やけに真剣な顔つきで、おれの隣にすっと並んだ。
「あなた……あれが見えるんですね……?」
「あれ? あれって……あそこのおばさんのことですか?」
「ええ……あれは良くないものです」
「良くないもの……?」
なんだこの男は……。確かに“良くない”部類ではあるだろうが、それをわざわざ言いにくるなんて悪趣味だ。
おれはそう思い、顔をしかめた。だが、よく見ると男は気味悪がっているというより、どこか怯えているようだった。
「ええ、見ないほうがいい。あちら側に引っ張られますよ……」
「あちら側? なんですか、それ」
まさか……幽霊だとでも言いたいのか? 馬鹿馬鹿しい。おれは笑おうと口角を吊り上げた。
「あの」
「はい?」
そのときだった。また背後から声をかけられた。振り返ると、今度は若い女が立っていた。落ち着かない様子で、目をせわしなく左右に動かしている。
「あれが見えるんですか……?」
「えっ、あれというと……あそこのおばさん……?」
「はい……あれは危険です。うっ……」
「だ、大丈夫ですか? 今ちょうど、この人とその話をしてたんですよ」
おれは隣の男を手で示した。まさか、本当に幽霊なのだろうか。
だが、女は口元をハンカチで押さえたまま、小首をかしげた。
「この人……? あの、どなたのことですか?」
「えっ? この人ですよ」
「だから、誰のことですか……?」
「いや、だから、この男の人……えっ、まさか、見えてない?」
「あの、大丈夫ですか? さっきから一人で何を喋ってるんです?」
男がおれの顔を覗き込みながら言った。
「え、まさか、あなたはあなたで、この女の人が見えてないんですか!?」
おれは女を指さした。男は指先を見つめるが、やはり見えていないらしく、眉をひそめた。
「あのー、大丈夫ですか? 具合、悪いんですか? 今そこで水を買ってきたんですけど……」
おれが困惑していると、今度は女子高生が背後から声をかけてきた。
「え? いや、別に……ああ、彼女のことか」
気づけば若い女はその場にしゃがみ込んでいた。女子高生が駆け寄る。女はうっすら笑みを浮かべ、小さく礼を言った。
「あっちのベンチに移動しますか? 誰か、手を貸してくれる人は……」
「あ、ああ。じゃあ、おれが」
「誰かいないかな……」
「えっ、おれが見えてないのか!?」
「あら、どうしたの? 何かお困まり?」
困惑するおれをよそに、辺りを見回す女子高生。その様子に気づいたのか、老女がゆっくりと近づいてきた。
「あ、ちょっとお手をお借りしたくて……」
「この人に何かされたの? 大丈夫? 駅員さん、呼ぼうか?」
「え? いえ、この女性が具合悪そうで……」
「女性……?」
「見えないのか……? どうなってんだ、これ……頭が変になりそうだ……」
おれは目頭を揉み、瞬きを繰り返した。誰が誰を見えていて、誰が見えていないのか。頭がこんがらがってきた。おれには、全員がはっきりと見えているというのに。
「ねえ、ちょっと!」
「えっ」
「さっきから、何こっちじろじろ見てんのよ! そんなに集まって、なに! なんなの!」
あの中年の女がドスドスとこちらに向かってきた。
おれは一歩前に出て、おそるおそる訊ねる。
「い、いや、その……ちなみに、何人見えてますか?」
「はあ!? 何言ってんの? あのねえ、言っとくけど、これはしつけだからね! 虐待じゃないから! ほら、そうよね!」
「えっ、子連れ!? そこに子供がいるんですか!?」
確かに女は背を少し丸め、子供の手を引くような仕草をしていた。いよいよわけがわからない。おれは額に手を当て、ぐらつく頭を押さえた。
と、そのとき、駅員が横を通り過ぎた。おれはぱっと顔を上げて、駆け寄った。
「あの、すみません! 駅員さん! あの……え、まさか、おれが見えてないのか……?」
「ああ、あの駅員さん、態度悪いんですよね」
「そうそう、あの人は話しかけても無駄よ」
「単に無視!? ……あ、もう電車来てるじゃないですか。じゃあ……その……さよなら!」
もう考えるのが嫌になった。おれは訳のわからない連中に背を向け、電車に向かって駆け出した。
車両に飛び乗る――
「電車……?」「でんしゃ……?」「電車……?」「電車……?」「電車……?」




