四、いえ、この娘は闘うとなれば飢えた狼よりも凶暴にございます
部屋には香の香りがしていた。
そして、すだれ越しに、小后とこの国で呼ばれる身分のやんごとなき女性が――菖蒲の花のようなものが描かれた、薄紫色の着物を着た、王の愛人以上妻未満の女性が、「よく来ましたね」と咳き込みながら言った。
声はやわらかく、穏やかだが、どことなくまだ生気を失っておらず、凛としてもいた。
「私の頼みはこうです。我が弟、論永一睡の息子……可愛い私の縫を……そなたの里の者に、護って貰いたい」
「……構いませんが、それは、誰から……?」
「命を狙われているのです」
「……宮殿の貴族の方々にですか……? それとも、王ご自身に? ……どちらも、なかなか、我ら王の指が守るとなると、……難しい問題になりそうですが」
「……いや……うむ……」
「ですが、我が兄……この娘の父、葉根継は、貴女様の庇護なくしては、とうてい、……この宮中で生きられぬでしょう。その恩を忘れたわけではありません。どうか、考えるお時間を……」
「勘違いをしないで。別に、そのような高貴なお方や、その周りの者どもといざこざがあった訳ではないの。……いえ、私の説明が悪かったのです。すみません」
「謝らないで下さい。神民であらせられる群咲様にそうおっしゃって頂くなど、恐れ多すぎることです」
「私の可愛い弟の、可愛い愛息子、縫を……護って欲しいのは、…………。うう、恥ずかしながら、私の弟の妻の一族からです。連中は、地方豪族の……両語族の末裔なのですが、連中は縫が両語族の長の孫息子を宮中での世話係に、そして両語族の酋長の側近たちを縫の側近にでも任命したら良いと――宮中に自分たちを入れろと、なにかと圧をかけてきていたのですが、……」
「それを貴女様と貴女様の弟様の御子息が断ったというのは聞きました」
「ええ。それから、あの連中は縫を殺そうとしているのです」
「……なぜ?」
「……両語族にしか分からない特有の感覚があるのでしょう。私には分かりませんが、名誉を侮辱された、とかなんとか、縫の母に当たる両語族の女は言っていました」
「なるほど……」
「あの全身入れ墨を入れた恐ろしい女の息子だと思うとゾッとしますが、わたくしの縫は、歌こそ歌えず、詩こそ読めず、細やかさや上品さが足りないとは言われますが……それでも、ほんとうは誰よりも心優しき、思慮のある、器の大きな男子です。可愛い私の縫を、私はずっと見てきました。あの子ったら、ほんとうに、健気でかわいい子なの……」
「そうですか……」
「そして今でも私のことを実の母のように慕ってくれています。実の母である両語族のあのいまいましい女が配慮と愛の欠片もないろくでもない育児を……しようとしたのを止めて、あの子を花よ蝶よと愛でて育てたのは私です」
「…………」
「あの子は、血こそ私とはそこまで繋がっていませんが、わたくしのかわゆい息子です。息子みたいなものなのです……!」
涙ながらに小后が言う。側近の男が慌て、西方で言う『銀』のようななまめかしい鈍色の鎖帷子に身を包んだ兵士の女が慌て、そして、何を言うこともなく、召使の女が、涙を拭う布を差し出した。
「元はと言えば! わたくしのお父様が、もっとちゃんとした女と弟を結婚させてやれば! わたくしの銀は、お父様がそれこそ、もっと地方での武力――、力や、連中のあやしい方法で稼ぎ上げた財力に目をくらませることなく、ちゃんとした家のちゃんとした娘を銀に娶らせれば……ッげほっ……ゲホッ……」
そして小后様が血をすこし吐いた。
(あーあ。つまんねぇ)
(もっとみやこでのお仕事は楽しいと思ってたのに、つまんねぇの。結局護衛じゃん。もっと大きな仕事だと思ってたのにな。)
(いつもと変わんねえ。代わり映えがねぇ十六年間。あーあ)
それに、やけにぴりぴりしてやがるな、この部屋は、と朱唇は思った。
そして退屈で死にそうだ。オキサキ様には大変なことなんだろーけど、正直、くそほどの関心もないなと朱唇は思った。
そもそも、命を狙われて居るのですと言われても、狙われたら負けるようなやつが果たして、一族の長子と呼ばれて良いのだろうか。そんなやつがいずれ長となり、一族の命運を握るってのかい? 情けない話だねぇ。あーあ、もし俺がその論永縫とか言うお坊ちゃんだったら、まっさきにみずから暗殺者をぶっころして、この綺麗でいい匂いのするおばちゃんを喜ばせてあげるのによ……俺が男ならなぁ……。
――と、性別や身分ゆえに権力者にはなれぬ生まれであることを呪っている身の朱唇は、自分勝手にいろいろ思った。
まあ、お貴族様は俺らとは考えやカチカンってものが違うんだろうけどよぉ、俺だったらそんなひ弱な男は勘当するね。というか、誰が狙ってくるか分かってるんだったら、ソイツぶっ飛ばしに貴族お抱えの軍隊でも連れて行きゃあ良いじゃねえか。首謀者とその親族でもはりつけにしてから、槍で数回ぶっ刺せば、他の連中もみぃんな大人しく言うこと聞くようになるだろうによ。
――と、随分と適当で荒唐無稽かつ、血も涙もないことを朱唇は呆れた顔で思った。
そんな恐ろしくむごたらしいことを小后が首謀するなどあってはならないこと。尊い血の流れる生まれついての貴族というものは、血生臭いもの全般を普通はとても嫌うこと。というか、そもそもこの国の弱き民間人たちは、商売こそ上手いが戦うのはへたくそで、普通誰でも血など見たくもないこと。
そんなことなど、何も知らぬ。
まだ、十六の朱唇は何も知らぬ。
この世のことも、父のことも、王のことも、何も知らぬ。
何も知らぬが、巻き込まれてゆく。
「あー」
「どうした? 朱唇。大事な話をこのお方はなさっているんだ。ちっとは黙っていられないのか」
叔父が言う。
そうだ、便所に行くふりをして、ちょっぴり抜け出そう。そう朱唇は思った。
小后の弟の息子を、弟の息子の妻の一族(地方豪族)から守ってほしいと言われた朱唇の叔父は、すこしだけ、やつれ、年老いて見えた。しかし、目にはギラギラとした”なにか”があった。それは、忠義の心であるのかもしれないし、野心であるかもしれないし、王への謀反のくわだてでもあるのかもしれない。たんに、腹が減っているだけかもしれない。
「護るのは、構いませんが、そう大人数は裂けませぬ。私とこの娘と、指南役と、盆と……この娘と同い年の少年になるでしょうな。護るのは」
「……その、娘……?」
「大丈夫です。この娘は……」
「まるでうぐいすと梅の精がちぎり、夫婦になったかのような、愛くるしい娘に、そのような大仕事がつとまるのですか……?」
「いえいえ、可愛らしいのは見た目だけでして。この娘は、鬼や狼の子みたいなものです。戦うとなれば、残酷無慈悲。飢えた上で眼の前で子を煮て食われ殺された母狼よりも凶暴にナタや小刀をふるいます」
「まあ、おそろしい」
「なぁ、オッチャン。かわや行ってきていいか」
朱唇が言う。
「おい、朱唇。我慢しろ」
「……けどよぉ」
「おや。構いませんよ。私は貴女の叔父上とすこし話していますから、かわやはあちらを左に……あら。行ってしまったようですね」
「……はぁぁ……すみません、申し訳ない」
「構わぬことです。それよりも、私がそなたをこの離宮に呼んだのは、……例の、……”お方殺し”の……話のためです」
「な、なんと!」
「…………」
王の愛人以上妻未満の口から、よもや「王を殺そう」などと、しらふで言われるとは。…………!
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「決心がつかれたのか」
「時は満ちた、と”あのお方”のお兄様やお父様はおっしゃっておられます。我らの側につくと申しておる家臣の者も、少なくはないようです」
「なんと……」
「信じられない?」
「いえ。……あのお方を……当然です……民草も、家臣も……、ご親族の方ですら……。ええ、ええ、それは皆の総意なのでしょうね……。……こんなことになってしまうとは……」
「わたくしは、どうなっても構いません。縫を護るとだけ誓ってはくれませんか。私の首が刀で切られ、死んだ後の首が跳ね飛ばされても、蹴鞠にされても、さらし首になりハエやアブにたかられようとも、いっこうに構いませんが、あの子が私は不憫でなりません。あの子は、”あのお方”にとっても、”反乱軍”にとっても、生まれついて不穏因子でしか無いでしょうから……」
「私は、小后様も、縫様も、御守りいたします」
「あの子だけで構わないのです。私は前の夫の子どもを、3人とも……あのお方に焼き殺されています。もう、生きてゆくのが辛い。私はどのみち、生き延びたら出家でもして、全知全能なる天使様にお仕えしようと思っています」
小声でささやいた小后に、「まぁ!」と兵士や召使の若い女たちが悲鳴を小さくあげ、「おいたわしや……群咲様……!」とさめざめと泣いた。召使の老いた女と、中年の女だけが、静かな表情をしていた。
その目には、「我々は群咲殿にどこまでもついてゆく。たとえそこが天使寺でも、地獄でも、かまわずついてゆきお世話をしてみせる」というような、狂気じみた決心と忠義の心が垣間見えた。
いっぽうで。
その頃、朱唇は……。
「……うわぁ。きれいな桜だなぁ」
勝手に宮中の庭を散策してみているのだった。
はらり、ほろりと桜が舞い散る。
「美しい。まるでこの世の楽園ではないか! ハハハハハッ!」
朱唇がわぁい! わぁい! 桜だ! みやびだ! 美しいなぁ! と大きな声できゃっきゃとはしゃぐのを見ている男が居た。
うぐいす色だけれどもどこか浅ましい襤褸切れを継ぎ接ぎにしたような着物を着た、娘の背後。
背後より、足音を消して近寄る一人の男。
「よぉ、かざぐるまの。どうして、こんなとこに居るんだい?」
それは、話題にされていた美男子の、論永縫、そのものだった。長く伸ばされたはしばみ色の髪の毛。まるで、黄金を溶かして、森の腐葉土や赤い落ち葉と混ぜたあとに、牛乳でも混ぜたような、若干赤茶色い色合いの金色の髪。まつ毛まで、金だか茶色だか分からない、金と茶の中間の美しい色をしている。緑茶のような、やや濁った……けれどどこか清廉で、神秘的で優しい瞳。
「……おまえ、天使か何かか……?」
男のかざぐるまうんぬんの挨拶というか話を聞いていなかった、朱唇はとんちんかんなことを言った。すると男は、「あっははははははは!」と初めて大きな声で、笑った。「天使なものか。西方人の血を引いているだけよ」
「ほう……? セイホージンっていうと、あれか……あの、ほら、あれだよ。あれ」
「そうだよ。その”異人さん”の血を引く、国内の地方部族の血を引くがゆえに、俺の髪や眼の色は、この国の黒髪と赤茶色い目ではない」
「きれいだなぁ、お前。羨ましいよ」
「ハッ、そんなことを言うのはお前だけだよ。変わり者の、一人称が俺のお嬢ちゃん」
「なんていうか、森の生き物に愛されそうな色だな」
「フン……。……俺は赤茶色い目と、黒髪が欲しかったんだがな」
「俺の目は赤色が強すぎるんだ。鮮血みたいに見えるだろ? 前に幼馴染の男に、お前は怖いって言われたぞ」
「お前のお情けがたっぷり詰まった自虐より、どうしてお前がここに居るかを俺は聞きたいんだがねぇ、お嬢ちゃん」
「俺の名前は朱唇ってーんだ。よろしくな。えっと、お前は誰だ? 俺、これから論永縫ってやつ……いや、軟弱なお貴族様の男を叔父と護りに、このばかでけぇ宮中歩いて人探ししなきゃならねえ。知ってる?」
「…………!」
「お前も、ここで働いてんのか? ひょっとして、書類整理だの歴史書を作ったりだの教科書ってやつを作る文人とかか? それか、大義名分がある場合の戦争に行く力人か?」
「俺がその、探してるひ弱なお貴族様の歌音痴のアホ息子だったら、お前、どうするよ」
「首が飛ばされるな。ウン。面白くない冗談だ。たしか、ソイツは歌が歌えなくて、詩が書けなくて、絵も下手で、お茶も淹れれねぇし、楽器も弾けないし、本も大嫌いだとか聞いたが。お貴族様らしくねぇよなぁ」
「冗談なもんかよ。……俺ぁ、その”無能の君”と呼ばれてる、論永縫、その人よ」
冷たい視線。…………!
「マ、マ、マッサカァー!」
「まさかだな。…………。……なぁ? なーんで、この俺が、よりにもよって、お前みたいなちんちくりんのガキに護ってもらうことになったんだ? ……あァ?」
「それは、私がそうするように命じたからですよ。可愛いわたくしの縫」
「…………! おば様!」
背後から、小后が現れた。
「お、お体は大丈夫なのですか!?」
「さきほど吐血しました」
「ばかじゃねえの、おば様!! あんた、ほんと、なんで、俺の心配なんかしてる暇あったら、自分の身体の心配を……」
「縫。彼女の叔父上と、彼女と、その知り合い数名が、貴方を護衛する事になるわ。けれど、誰が渡したのか分からないような食べ物や飲み物は、必ず断り、飲食は必ず毒見役を通してから行うように」
厳格そうな表情で、小后様が言った。
朱唇は、そろり、そろりと、二人から距離を遠ざかるように、後ろへさがっていた。
「おい、朱唇。かわやじゃ無かったのか? ……ナァ……」
背後には、叔父が居た。
「うわああああああー!」
朱唇は、慌てて逃げた。木にとまっていたうぐいすが、数羽、飛び立った。