一、生まれ落ちた傾国の娘
あるところに、禍の国と呼ばれる大国があった。
禍の国は、選民思想がはびこっている国だ。
国民は『神民』『江民』『畳民』そして『泥民』に分けられる。
神民は、王とその親族。
江民は、貴族。
畳民は一般市民。
泥民は、上記の階層外の民草をまとめた最下層の存在だ。そこに、『侵犯者』と呼ばれる犯罪者も、くくられる。
禍の国にはおおきないびつな歪みがあった。
いびつな歪み。政治体制の歪みに、思想の歪みに、国外での横暴な政策の歪み。諸外国から激しく恨まれる超帝国、禍の国。この国には、そんな”ゆがみ”を壊して叩き直す選ばれし者どもが存在した。
王の指――と呼ばれる存在。
王の指は、巨大な組織だと思われていた。
しかし、実際の所は、百人にも満たぬ少数部隊。
また、王の指はみなが、比喩ではなく家族であった。
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「可愛い赤子じゃ……」
特殊暗殺部隊の長、衆心という老いた男に、孫娘が生まれた。
「一階に、押しかけてきた例のあの占い師の娘が、まだたわごとを申しておるそうだぞ、爺様! せっかくのこの目出度き日が台無しだ! 爺様、あの娘、殺しておくか」
血気盛んな若者に育ったことだわい、と思いながら、孫息子の盆に、衆心が何を言うか考える。貴族と同じく帯刀を許された王の指の一人である孫息子の盆は、今にも刀で占い師の娘を殺しそうな勢いだった。
「気にするな。占い師がたわごとを申すのは常じゃ。赤き月が出たから洪水が来るだの、米をネズミの大群が喰らうだの。連中の言葉が当たったことなどなかろうが」
「しかし! 不吉だと言われれば、火のないところでも煙は立つものだ! 謀反決起の罪を疑われ、散っていった無実の男子が何人居るとお思いか! 爺様!」
「孫娘には関係の無い事よ。いくらこのやくざ者どもの家系に――王の指の一族に生まれたとて、里の掟をこの娘にわしは守らせる気は無い。この娘には”古くからの縁がある男”の息子を用心棒に雇い、旅に出させようと思っておる」
「なっ、何を言っているか分かっておられるのか!? なぜゆえに……!」
「この可愛いつぶらな目を見よ。ぱっちりと開いて、生まれたばかりだというのに、この世界のことを何でも知っておるかのような目よ」
「まあ、たしかに、賢そうには見えるが。……王の指の一族の娘が、賢かろうと何の関係もない。王の指に生まれたということは、宮仕えも出来ぬし、我ら王の指は文字を覚えることも無い。賢いだけ無駄よ」
「わしはな、疲れたのだよ」
「俺だって疲れているさ」
「訓練がか」
「違う。狂った王に媚びへつらい続ける事に、疲れているのよ」
「わしは、なぁ。犬畜生の腹から生まれた犬よりも、卑しい存在だと王や王の側近には思われておるが、わしだって人の子よ。道具にはなりきれぬよ。わしは、何度――いったい何人の孫娘、孫息子や、家族を失えば良い? わしと同じ釜の飯を食った、仲間も、数多く死んだ」
「…………」
「王命のために、何回身内親族を外地へ派遣させ、罪なき命をほふらせる必要があるのか」
「しかし、王が強いからこそ、この国は成り立っている。恐怖で支配するのをやめれば、積年の恨みで……。我々禍の民草はほとんどが力を持たぬゆえ、いともたやすく、諸外国の民に虐殺されるだろう」
「それもそうよ。とはいえ、王はご乱心じゃ。死への恐怖から気の狂った老人のたわごとを真に受ける臣下どもにも、うんざりしておるのよ」
「……ッ、そんな事は、言わずとも痛いほど皆が分かっている! 俺だって同じ気持ちだ! しかし爺様は……色々言いはするが、”何か”事件を起こすような事はしない。だったら言うだけ無駄だ。爺様だって分かっているだろう」
「お前の瞳の中には、炎が見える。消しきれないゆらめく炎がな。……王の一人息子が妻を犯そうとし、あまつさえ窃盗の濡れ衣を着せられ妻を殺された事を、まだ恨んでいるのだろう……盆や」
「松砂はまだ19になる娘だった。俺は松砂をあいしていた訳ではないが、少なくともあれは俺をあいしてくれていた。俺は、今でも、あの子の夢を見るのよ。……爺様、俺と同じ気持ちなら、俺とともに立ち上がり、戦ってく――」
そこに、ゆらりと女が現れた。
「我々は駒よ。家具よ。道具よ。物が人のように考える事など、天地がひっくり返されようと許されぬ。我らは道具よ。王のための駒なのよ」
「母上! 母上は……! 父上の処遇に不満が無いのですか!?」
「あれは死ぬために生まれてきたのに、まだ生き汚く生きている。それを恥ずかしいと思う気持ちや、まだあれが生きていることに感謝する気持ちはあれど、処遇に不満など無い。当たり前だろうが」
「母上は父上の事を、あれほどまでに愛していたではないですか!」
「だからどうした? 感傷で動くな。いくら死のうと、我らの生に価値など無いわ。愚かな事を言って、爺様を困らせぬようにしろ。我が息子よ。お前のふるまいのせいで、我らが王の指が一本ずつ、風の谷で切り落とされる事になるなど、決して、けっして、あってはならない」
「……しかしッ」
「我々一族は、生き延びなくてはならないのよ。……そのために、枝葉を何度刈り落とされようと、絶対に、家を存続させる。一族を生き延びさせるのよ」
ウウッ……! と女はうめいた。痛みにうめき、身体を抱きかかえ、しゃがみ込み、脂汗が額をすべり落ちる。先程まで身重だった女が、出産直後にふらふらと寝床から抜け出、高い段差の階段を登り、寒い部屋までほっつき歩いていたのだから、当然である。
「母上ッ! しっかり……!」
「わしの愛娘よ。すまなんだ、こんな時まで……お前に余計な事を考えさせてしまった。わしの責任だ」
「……良いのよ。お父様。私はただ、名字無きドブネズミと呼ばれ虐げられていた私達の異国の血を引く先祖を、登用して下さったこの国のかつての王への恩を、忘れてはいけないと、思っているだけ」
びゅううう、と風が開け放された木製の窓から吹きすさび、ぼおお、と燃えていたろうそくの明かりを、一瞬で、吹き消した……。
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その時生まれた、暗殺部隊の長の孫娘。
その名も、朱唇。王殺しの汚名を喜び勇んでかぶる事になる、王族どもからすれば悪逆非道の男の妻になる、この国の運命を変える女だと不吉なことを占い師が囁いた娘は、すくすくと育っていた。
齢、4つになった朱唇は、祖父の衆心に、たいそう可愛がられて育ったそうな。
後世に名を残す大逆事件の犯人、論永縫の最愛の妻。
そして特殊暗殺部隊、<王の指>の長の孫娘。
朱唇。
これは、彼女とその夫が、みずからの役目を捨て、悪政を敷く王をほふるまでの、物語。