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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
第2章 「再教育プロジェクト」
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2話 「椿ちゃんのことも忘れちゃったんだよね」

 そのお店は個性的な照明がぶら下がり、壁やテーブルは木目調で揃えられた、温かみを感じる雰囲気だった。中央にパンが置かれたショーケースとレジが並び、先に注文をするタイプの喫茶店に見えた。

 クロワッサンがおいしいと言っていたが、なるほど、プレーンのものだけではなく、チョコやサツマイモ、キャラメルにピスタチオ、ホイップが入ったデザート系やサンドイッチのような総菜パン系もクロワッサンで挟まれていた。もはやクロワッサン専門店というべきラインナップだ。

 私はレジにいた若い店員に、後でもう一人来るのでその時にパンを頼みますと伝え、カフェラテだけ注文した。

 すぐに出来上がり、そのトレイを持って店内を見渡すと、他の客は3組程度でまばらに座っていた。

 テーブルが多いため、余裕を持って席を選ぶことができたため、私は日差しが当たる明るい窓際の席を選び、後から来るあの人に見つかりやすいように、店の扉を正面に見据えることができる方の椅子に座った。

 カフェラテはミルクに一本線を引いたよくあるハート形の模様が浮かんでいた。

 一口飲んだが、『ラテアートがあるタイプのラテはミルクが多くて甘いんだよなー』という言葉がふと頭の中に現れた。

 その言葉が思い浮かんだ時、何かに気づかされた気がして、マグカップから口を離した。

 少し、疑問に思う。

 今の言葉は、梓の記憶なのだろうか?

 よくよく考えれば、記憶喪失になってから初めてカフェラテを飲んだはずだ。

 もしかすると梓はカフェラテをよく頼んでいて、その記憶が体に染みついていたのかもしれない。

 そう思うと、少し彼女を近くに感じたような気がして、温かい気持ちになった。

 カフェラテの湯気とすりガラスからこぼれる日差しがより私を温める。

 文字通りほっと一息つくと、ドアベルの音がした。

 白い帽子をかぶり、ピンク色のアームカバーをした、蛍光色である意味統一されたランニングウェア姿の女が扉を開ける。そのあからさまな恰好にすぐに梅香という人物だと感じて、その女に視線を送ると、彼女もこちらに気づき小さく手を振った。

「ごめん、待った?」

 女はレジに目もくれず、私の方に駆け寄った。

「いえ、全然」

 私は差しさわりのない言葉で、そう返事をしたつもりだった。表情も柔らかくする意識があって、騙すつもりではないが、なんとなく梓ってこんな感じだろうなという人物像を思い描いて、彼女の言葉に返事をしたつもりだった。

 しかし、その言葉を聞いてランニングウェアの女は立ち止まる。

「なんか雰囲気変わった?」

 そう言ってクスっと笑い、再び歩みを進めた。

 驚いた。そんな一言喋っただけで、いつもとの違いが分かるのか。

 もちろん履歴書を完成させたい思惑があったため、記憶喪失であることを打ち明ける心構えはしていたつもりだが、こんなにも早く私が私でないことを感づかれるとは思わなかったのだ。

「飲み物しか頼んでいませんから、一緒に注文しましょう?」

 思わず丁寧語になった。彼女はますます口角を上げる。

「何それ、分かった。行こ」

 そう言って帽子を脱いで、センター分けの長い髪をかき上げ、後ろ髪をくくったヘアゴムを外した。

 私はとりあえずカフェラテが甘かったから、甘さが控えめだと思われるプレーンのクロワッサンにした。

「今日はサツマイモにしないの?」

 私の次にパンを選ぶ彼女はショーケースを舐めるように覗きながら、呟くように言った。

「今日はこっちの気分ですので」

「珍し」

 そう言って一瞬顔を上げて私に微笑みかけると、彼女はすぐに前を向いて店員に

「これとこれと、うーん、あとこれもください」

と言って、指で買うパンを指し示して注文した。

 注文が揃い、改めて席に座る。

「てか、どうしたの? 今更イメチェン?」

 座るや否や彼女からそんな言葉が発せられる。

 梓のことをよく知っているためすぐに違いに気づけたのだろうが、嬉しいような恥ずかしいような気持ちが入り混じって、私は少し頬が温まりすぎている感じがした。

「そんなに分かるものなの?」

 丁寧語をひとまず修正してみる。彼女は見透かしたように目を細めて、唇を薄く横に伸ばした。

「分かるよ、なんか変だもん。風邪?」

「そんなことはないけど」

「分かった! 当てるわ。うーん」

 そう言うと彼女は腕組みをして、考え始めた。

 溌溂とした口調で畳みかけるように話しかけてくる。

 私は急に何を考えこんでいるのか頭に疑問符を浮かべていたが、そんな彼女の落ち着きのなさに初対面である緊張が少し和らぎ、親近感を抱かずにはいられなかった。

「セバスの真似でしょ」

「誰それ」

「ほら『ホワイト・バトラー』の!」

「?」

 おそらくドラマか映画か、そういった創作のキャラのことを言っているのだろう。なんか、こう、鼻息を漏らしながら捲し立てて訊いてくる感じは、いわゆる典型的な『オタク』のイメージ像を思い浮かばせた。

「別に誰の真似もしてないけど」

「あ、そう? そういえばそっか。あーちゃん、あんまり漫画とか読まないもんね」

 漫画のキャラのモノマネをしてると思われたんだ、と内心納得して愛想笑いをした。

 しかし、こうもすぐに気づかれてしまうと話しにくい。

「あのね、冗談だと思わず真剣に聞いてほしいんだけど、」

 私はそう枕詞をつけて、真実を打ち明けることにした。

「私、記憶喪失になったの」

 紅茶を口にしようとする彼女の手が止まる。

「ど、どういうこと?」

 目が点になって、力が抜けるように、カップを皿に戻した。

「実はね、こうやって話してくれるあなたのことも私はよく覚えていない」

「え、マジで?」

「うん。あなたが『梅香』さん、なんでしょう?」

 彼女の顔は青ざめて、強張った表情に変わる。

「そ、そうだけど……。これってドッキリ?」

「ごめんなさい。本当なの」

 あまりの会話の空気の変わりように、私は悪いような気がして少し目線を下げた。

「マジか……。えっ、マジか……」

 そう一言で言われてもすぐには信じられないよな、と思い、私はちゃんと一から説明することにした。

「少し長くなるけど、聞いてくれない?」

「もちろん」

 本当に信じてくれたのか、真剣な表情で彼女は私の顔を見つめた。

 私は梅香に自殺未遂をしたこと、その影響で記憶障害が生じてしまったこと、原因は思い出せないけど夫のモラハラが原因じゃないかと当たりを付けていること、など一つ一つ順序だてて説明した。

 梅香は私の言葉をちゃんと受け止めて、気になる点は質問をしながら、じっと私の話を聞いてくれた。

 一通り話せることを包み隠さず、全部話した。葵のために言ってはいけないラインを設定する必要があったのかもしれないが、出会ってものの数秒で梓の違いに気づける彼女には、今の私の状況を全て知ってほしいという思いが勝ってしまったのだ。

 梅香は私の話を頭の中で整理しようとしばらく黙り込んだ。

 彼女は手を付けていなかった紅茶を一口、口に含むと、ある疑問を投げかけた。

「ということはさ、つまり……椿ちゃんのことも忘れちゃったんだよね?」

 私はこの1週間、葵だけではなく実の母親や葵の両親とも会話を重ねた。しかし、その名前を聞いたのは梅香の口からが初めてだった。

 寂しそうに私の瞳の中を覗いてくる。

「覚えてない」

 私がそう答えると、梅香はゆっくり瞼を閉じて、肩を落とし、

「そうだよね」

と言って、暖かい陽がこぼれる窓ガラスを見つめた。

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