1話 「職歴が書けない!」
モラハラ夫のための「再教育プロジェクト」を確実に遂行するために、私は心構えとして5つの大原則を打ち立てた。
1つ、舐められないこと
1つ、メリハリをつけること
1つ、無視は万死に値するということ
1つ、夫婦は上下ではなく横並びであること
1つ、躾けは必ず『愛』の発露であること
この5大原則は今ぱっと思いついただけのそれっぽい文字列をつらつらと並べただけで、あともう10分あれば百か条まで拡大することができそうだが、ひとまずはこの原則で動いてみよう。意外と芯を食ったものを並べられたような気もする。
一々解説するまでもないだろうし、心構えだけ決まって行動に移さないのは意味がないため、まずはこの大原則の一つ目、『舐められないこと』を実践する必要があった。モラハラ野郎は自分に非があっても棚に上げて、相手の付け入る隙ばかり窺っている。自分をボロの出ない完璧な人間に見せかけることは困難なことではあるが、あまりに大きな隙は、早期に対応した方がいいだろう。
そこで、『働く』という選択肢だ。
昨日の彼の小言の中に、梓が働いていないことを全く関係のない話題に織り込んだのがどうしても気になって仕方がない。きっとあの言い回しは彼が常套句にしているものだ。梓にとってもかなり心に響いたフレーズだったのであろう。
効率的な考え方をすれば、梓が働かないで専業主婦に勤しむのはむしろいいことなのかもしれない。ストレスがかかる仕事に専念できるし、帰宅すれば温かいご飯とお風呂が自動的に提供されるのは、巡り巡って仕事のパフォーマンス向上にもつながるだろう。
ただ、そこに上下関係ができるといけない。これは大原則でも言及したが、どれだけ働いて、どれだけ家計に貢献したとしても、上下ではなく横並びでなくてはならないのだ。
葵の言い振りからすれば、元々梓に働いてほしいという考えはなく、これだけ立派な家に住めていることから考えても、家計に不安を抱いているわけでもなさそうだ。これは専業主婦としての梓の役割が上手く機能しているということでもあるし、それを盾に上手い言い分を作らせてしまった原因でもあると私は考えた。
専業主婦はモラハラ男の視点から見れば、衣食住が確保された住み込みのお手伝いさん、もっと悪く言えば愛玩動物程度にしか思っていないのかもしれない。
俺がいなければお前は生きていけないみたいな思想を植え付けて、上下関係を築き、従順な依存気質のペットに育て上げる。
だから、パートの仕事でもいいから働いて、お前がいなくても自立できるんだという姿勢を見せなければならない。その上で家事を完璧にこなせられれば、小言も減るだろうし、服は適当に脱ぎ捨て、飲みかけのコーヒーはそのまま放置するといった自分勝手な振る舞いを多少考えられるようになるだろう。
とにかく、私は彼を躾ける前に、絶対に働かなくてはいけないのだ!
そう頭の中で独りでに盛り上がって、昨日のスーパーで貰った求人情報誌を広げてみてみると、いくつか面白そうな仕事を見つけた。
さっそく準備しようとして、家のあらゆるところを探し回り、ついに履歴書を見つけることができた。
その紙を手にした時、私はとんでもない事実に直面した。
「ヤバい! 職歴が書けない!」
思わず声に出た。
そうだ、どうしよう。記憶がないんだから、履歴書を書けるわけがない。
もしかしたら書きかけとか書きミスしたけど捨てていないとかいうものがないか、と願いながら履歴書があった棚を探したが、そんなものあるわけがなかった。よくよく考えると、仕事だけじゃない。学歴も、持っている資格も、全て分からないのだ。
一応、財布の中に運転免許証があり、そこに自分の生年月日やら住所やらが書かれていたので、履歴書の埋められるところだけは書くことができた。
しかし、ほとんど真っ白だ。
詰んだか? どうしよう……。
そう思い悩んでいると、突然携帯が鳴った。誰かから電話が来たのだ。
葵かな、と思い画面を見ると、そこには『柳(旧姓:小林) 梅香』と書かれている。
『旧姓』まで書くなんて梓はマメだなと思う一方、誰か分からない人の電話に出ていいのか不安があった。
そうして葛藤していると、着信音のメロディーが2回繰り返さないうちに、ぱっと切れてしまった。
もしかしたら、かなり親しい仲だったのかもしれないと、電話の着信履歴を見る。
そこにはもちろん『山岸 葵』だとか『お母さん』という名前が多かったが、それよりもこの『柳(旧姓:小林) 梅香』の表記が二人を足した数よりも多いくらい、履歴が残っていた。
たまたまこの1週間は電話が来なかったのかというくらい、2、3日のペースで履歴が残っている。
ずっとなのかな、と下にスクロールしていくと、葵の両親だと思われる二つの名前が頻繁にあらわれるゾーンがあり、少し怖い気持ちになった。
一日に何回も電話が来ている、と不思議に思っていると、ピコンと、メッセージアプリの通知が画面の上部に表示された。
『急にごめん! 今ウォーキングしてるんだけどさ、あーちゃん家の近くのあのクロワッサンがおいしいカフェで休憩しようと思って♪ 無理に電話返さなくていいからね~』
この文面を見る限りだと、かなり親しい仲だと言える。電話の履歴を見ても、身内以外で電話帳に登録されている名前の履歴があったのはこの『梅香』という人物だけだった。
もし、親友と呼べるほどの仲なのだとしたら、着信を無視したのは心が痛むし、このメッセージにもどう返せばいいのか分からない。全文を読もうとして考えなしにその通知をタップし、アプリを開いてしまったから、既読の文字が彼女の画面に表示されているのだろう。
私は慌てて嘘をついた。
『ごめん、今トイレにいて』
とりあえず、電話が取れなかった言い訳だ。しかしこの後に続く言葉が思いつかない。
……この『既読』文化は本当に現代の闇だ。まず会うか会わざるか見極めるところから私は考えているというのに!
額に脂汗がにじんで、指先が冷たくなるのを感じる。
その時、あらぬ方向からアイディアが舞い降りてきた。
こんなに親しい人なら、梓の履歴書、埋められるんじゃね?
刹那に脳に入り込んできた考えはまるで反射のように冷えた指を動かし、無意識のうちに返事を返してしまった。
『いけるよ 念のたて場所を教えて』
誤字があったのも送信してから気付くくらい、私はこの『既読』文化に切迫させられていた。
ポン、とすぐに返信が返ってくる。
ありがたいことに地図アプリから共有してお店の場所を表示してくれた。
『実はまだ遠いからあと20分くらいで着くと思う』
『先に入ってて』
彼女からのメッセージが連投される。
多分、この様子だと、この1週間でこの梓の身に何が起こったのか知らないだろう。葵があんまり外には言っていないと言っていたから、間違いない。
『わかった』
何から話すべきか。どこまで言っていいのか。まずそこまで信用してしまっていいのか。
悶々と考えながら、私はパジャマを脱いだ。