5話 「乾杯くらいはしようよ」
私はほぼ確信していた。
葵はモラハラ気質があるに違いない。
この体の元々の記憶である梓の人格は、彼の自分勝手な言動に振り回され、精神的苦痛を負い、引き返すことができないほどの窮地に立たされてしまったのだ。
家に着いてからの態度が明らかに違う。自分の体を休める家だというのに、常に眉間にしわを寄せてイライラしていた。梓を『内気な性格』と言っていたが、それは葵からの見え方で、この梓という人格はいつも彼の機嫌を窺って生きていたに違いない。
だからちゃんと意見を言える今の私とのギャップに居心地の悪さを感じて、仕事に行ってしまったのだろう。
それにこの部屋を見たら分かる。彼は家事に一切協力していない。もう飲まなくなったコーヒーはテーブルに置きっぱなしだし、シンクに溜まった皿も水洗いすらしてない様子だ。
脱衣所の扉を開けると、山積みの洗濯かごが私を待ち構えていた。よく見ると服の裏表もばらばらで、靴下が丸まった状態で脱ぎ捨てられている。きっとこっちの方はこれから洗濯機に回す衣類だ。
私は大きなため息をして、とりあえず気持ちを切り替えようとトイレに向かった。
扉を押し開くと、何か紙のように軽いものがころころと音を立てて扉に当たっているのが分かった。
自動で電気が付き、トイレの蓋が上がる。その床には使い切ったトイレットペーパーの芯が転がっていたのだ。
「マジか……」
思わず声が出た。鳥肌が立つ。
蓋つきのゴミ箱はちゃんと隅に置かれていた。中を開けてみても何か入っているわけではないし、きれいに使われていて匂いもしない。それなのに便座から1メートルもしないゴミ箱の蓋を開けることすら、彼にとっては面倒なのか、と戦慄した。
いやぁ、これはダメでしょ。
そう思いながら芯を拾い、ゴミ箱に入れる。
私は彼がこれから起こすであろうモラハラに気を付けようという思いよりは、あの男をどうにかしなければならないという気持ちの方が腹の底からだんだんと湧き上がっていた。
洗濯に皿洗い、リビングの片づけや風呂掃除といった具合に、私は体力を使わない順に部屋をきれいにしていったが、退院明けだというのに思ったよりも疲れた感じがなく、むしろ少し動いて自律神経が覚醒していたのか、体力が有り余っている感覚になっていた。
家でゆっくりしたいからと、葵の外出の誘いを断ったが、ひとまず目に優しい空間になった部屋を見て達成感を覚え、外に出たい気持ちになった。
冷蔵庫を開けると、1週間料理をしなかったせいか傷んだ食材もあり、買い出しくらいなら何とも思われないか、と軽い気持ちで外に出かけることにした。いつのものか分からない食洗器の中に残っていた皿を片付けていた時、食器棚の端に数冊の料理本を見つけたため、せっかく退院したことだしちょっと手の込んだものでも作ろうと思い、その中から1冊選んでショッピングに使っていそうな薄手の手提げ鞄に入れる。お酒も飲みたい気持ちになり、キッチンにあるあらゆる収納を確認したが、焼酎や日本酒しかなく、洋食を作ろうと思っていた私は赤ワインが欲しいなと思った。
寝室のクローゼットの中に私が使っていたであろう鞄が置かれていて、その中に財布や部屋の鍵なども入っていた。財布の中身を確認すると、1万円札と千円札が5枚以上入っていたため事足りると感じ、総額をきちんと数えるまでもなく鞄の中に戻した。クローゼットの中にある服は寒色から暖色まで色とりどりで、共通して淡い色のものが多かった。私はそこから水色のカーディガンを選び、それを羽織って、二つの鞄を持ち、部屋を出た。
ソーヴィニヨンの赤ワインや黒毛和牛のリブロースなど、欲望のままに食材を買ったが、会計は1万円以内で収まった。
部屋に戻り、支度をする。
カルパッチョやアヒージョ、ボロネーゼやローストビーフなど、ワインに合わないものはないだろうというような王道ともいえる料理をひたすら作った。
食材の下処理から、ソース作りまで、料理本に書かれた1人分の分量に合わせて作ると、思った以上にたくさんの量になってしまった。ダイニングテーブルが6人掛け出来る大きさがあったため、なんとか全てのお皿を並べることができた。
取り皿とグラスを並べる。
ちょうどそのタイミングで玄関の鍵が開く音がした。
結構、うまくいったんじゃない!
私はそう自負して、スマホで食卓を撮る。
廊下を歩く葵と目が合う。
「おかえり」
「匂いがするけど、なんか作ったの?」
「そう、見て! 結構頑張ったから!」
私は彼の鞄を受け取って、ジャケットの袖を引っ張り、自信満々でそのテーブルに案内した。
正直、その出来栄えはかなり完璧と言っていいくらいで、自画自賛が過ぎるかもしれないが、おしゃれなレストランで出されても分からないくらい、おいしく、そして盛り付けにもこだわることができた。
誰もがその光景を見たら涎を垂らして、目を輝かせるに違いない、と思えるほどだった。
もちろんいくらモラハラを受けていたかもしれないという疑いがあったとしても、入院中の私に寄り添ってくれたのは事実であったため、彼に喜んでほしいという気持ちがないわけではなかったし、むしろ自分の満足感よりも彼への感謝の気持ちの方が、その料理たちには詰まっているくらいだった。
葵は驚いて言葉を失う。
きっと心が温かくなるような言葉が聞けるだろうと、内心そわそわしていた。
ゆっくり顔を動かして、私を見つめる。
ただ、それから彼が発した言葉は、耳を疑いたくなるようなものだった。
「何? 記憶喪失とかもうどうでもいいじゃん」
「えっ?」
葵の強張った表情に、思考が停止した。
まさかこれから非難される未来があるとは夢にも思わなかったのだ。
「お前が家にいるっていうから、俺は安心してせっかくの休みを返上して働いてきたんだ。それが何? あのワインとか肉とか。外に出て買ってきたんだろ?」
「うん。片付け終わったら少し元気が出てきたから」
「つまり、俺に噓をついたんだな。俺がどんな思いで仕事に行ったか知らないで!」
「違う! あの時は本当に疲れてて」
「言い訳するな。お前は昔っからそうだ。記憶が無くなろうが自分の都合で生きる点は変わらないんだな」
彼の剣幕に、私は思わず声を失った。
葵は一度舌打ちを挟んで言葉を続ける。
「医者からお前の心の支えになるように言われた。記憶がないから外に出て人と接するのも不安だろうと。だから俺はわざわざ今日休みを取った。それが、どうした? サプライズだか何だか知らないが、勝手に外に出て、浮ついた顔で無駄金はたいて好き勝手に飯を作って。分かるか? 俺は裏切られた気分なんだ。結局お前が使った金も、この家も、元はと言えば俺の財布から出たものなんだからな」
「気が使えなくて、ごめん」
私はなんとか声を振り絞った。
「あとから気付いても遅い。その時にはもう相手は不満感を持っていて、それがストレスになって現れるんだ。病人だろうが何だろうが、それくらいはできないと」
予想外の言葉にひどく混乱して彼の言葉を冷静に聞けなかったが、彼の言い分が一旦終わり、深呼吸をする間を設けることができると、ようやく思考回路が回り始めた。
何言ってるんだ? こいつは。鏡を見たことがないのか。
思わず反論したくなったが、まだ我慢だ。今言い返したところでどうにもならない。
「お仕事疲れたよね。いっぱい優しくしてくれたから、私なりに恩返しをしようと思ったの」
「そう。ま、いいや。食べよう。冷める」
葵は不機嫌な顔のまま、ジャケットとネクタイを脱いで私に押し付け、食卓についた。後でズボンも脱ぐだろうと思い、私は彼の書斎に行ってネクタイをしまって、クローゼットからスーツカバーのついたハンガーを持ち出してその中にジャケットをかけ、リビングの入り口のドアノブに引っ掛けた。
テーブルに戻ると、葵はすでにワインを開けて自分の分だけグラスに注いで飲み始めており、眉間にしわを寄せたままローストビーフを口にしている。
「乾杯くらいしようよ」
私がそう言って椅子に座ると、彼は口の中のものを飲み込んで一瞬私を睨み、嫌そうに私のグラスにワインを注いだ。私がグラスを持ち上げて乾杯をしようとすると、彼は無視して自分のグラスに口をつける。
「ここは家だろ? 俺は家ではリラックスして食べたい。乾杯とかマナーとかそういうのを抜きにしてさ。そういう人に譲れない『こだわり』なわけ。お前が働かないのと一緒。思い出せないなら、これを機に覚えて」
彼はそう言ってまたグラスに口をつけて、一気に飲み干した。
私は触れ合うことのなかったグラスを引いて、一口飲んだ。
惨めな思いと、復讐心に似たはらわたが煮えくりかえる思いで、胸がいっぱいになる。
そうだ、こうしよう。
運が悪いのかいいのか、彼との関係はゼロからリセットされた。
これは彼にとって人が変われるチャンスなのかもしれない。
どうしてか気の強い今の私ならできる気がする。
いや、やらなくてはいけないんだ!
せっかく記憶喪失になったから、このモラハラ夫を躾けてみようじゃないか!