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3話 「変わったね」

 記憶障害は一向に治る気配はなかったが、体力が回復するまで、しばらくの間私は入院することになった。

 葵はあまり事を大きくしないように身内にしかこのことを伝えなかったようで、私を見舞いに来たのは私の実母と彼の両親だけだった。

 先に彼の両親が駆けつけてきてくれ、義母は彼以上に力強く私を抱擁し、着ていた患者衣が濡れるのが分かるくらい大粒の涙を流して私を抱きしめた。

「何があっても死ぬなんて考えちゃダメ!」

 そう何度も言ってくれる人情深さが彼らにはあったが、葵の本性に気づいてしまった以上、彼らにも見えない裏の顔があるんじゃないかと、内心どぎまぎした。

 彼らが帰ってすぐに私の実母を名乗る女が現れた。彼女は少し違う雰囲気がした。

「私があなたのお母さんです」

 そう言うと彼女は私の手を取って、「気づいてあげられなくてごめんね」と言い、私の手の甲に顔を押し付けた。

 彼女の涙は私の手の甲から薬指を伝って、爪の先からこぼれ落ちた。

 記憶を無くした私にとって、親身に接してくれる誰もが他人のように感じて仕方なかったが、彼女の涙をこの手で受けて、嫌な気持ちには全くならなかった。血が繋がっているからか、何らかのシンパシーがあったのだろう。

 実母は奥ゆかしい人だった。

 私の実の母だというのに、私が記憶喪失であることを知っているせいか、変に他人行儀であった。

「ごめんなさい」

と言って、濡れた私の手をハンカチで拭く。それから彼女は私にわざわざ抱きしめてもいいかと訊き、私は断る理由もなかったので、彼女とも抱擁した。覚えていないはずなのに、どこか懐かしく感じる優しい匂いがした。

 それからというもの、トントン拍子で事が進み、1週間足らずで退院することになった。

 MRIなどの精密検査をしたり、知能検査をしてみたりもしたが、ほとんど異常が見つからず、一時的な記憶障害で、しばらく時間が経てばだんだんと思い出してくるでしょう、とあの女医に言われた。

 私は安心して退院当日の朝を迎えた。葵が退院する私の着替えを持ってくるために、その前夜は自宅に帰っていた。そのことを医師は知っていたため、私が起きたと分かるや否や、私の病室に訪ねてきた。

「おはようございます」

「おはようございます。よく眠れましたか?」

「はい! おかげさまで、もうぐっすりと」

「病室が埋まらなくてよかったですね」

 そう最後の挨拶を交わしながら、簡単な問診をしたり、触診をしたりする中で、他愛ない話などもするようになった。

「実は山岸さんと二人で話したいことがあったんです」

 彼女は急に硬い表情になって、私を見つめた。

「どうしたんです?」

「お家に帰ってからの話です」

 そう彼女が話を切り出すと、その話というのはやはり彼女も心配してくれた、あの違和感についてのことだった。

「葵さんは気配りができて思いやりがある、理想の旦那さんです。看護師の間でもあんな素敵なパートナーが欲しいと話題になっていたくらいです。ただ、不思議なのは、あなたと彼が二人っきりで生活し、しかもあなたは専業主婦でほどんど外に出ず、交友関係もそんなに多くないと伺いました。そうなると、心配なのは」

「葵に何か悪い側面があるんじゃないかってことでしょう?」

「……気付いていましたか」

「そりゃあ、気付きます。というか現に、彼の本性は薄々気付きつつあるんです」

 女医の表情がますます硬くなる。

「……どんなところに?」

 彼女はこのまま私を家に帰してよいのか気がかりで仕方がないのだろう。変に心配させるのも悪い気がした。

「大丈夫です。心配しないでください。彼も大人です。私に記憶がないから、実際にどんな事情があったのか知りませんが、こんなことが起きてしまったのに、態度を変えてくれないことはないと思います」

「そうだといいのですが……」

 彼女の目線がどんどん落ちていく。

「もう、問題ないですってば! もしかしたら彼が心を入れ替えて私にずっと付き添ってくれたという見方もできるかもしれませんよ」

 そう言うと、女医は顔を上げた。

「ですが、これだけは訊いておきたい。彼から謝罪の言葉は聞けました? その言葉はなかったとしても、なぜそうなったのか彼なりの考えを聞きましたか?」

 流石、お医者様だ。精神科医でなくても、核心を突く質問をする。

「……多分これからだと思います。彼なりに配慮して、入院中は言葉にしなかったのでしょう」

「いつでも私はあなたの味方です。正直に申し上げると、今の時点でその話題が出ていない時点で、葵さんには何らかの問題を抱えているようにしか思えません。くれぐれもお気を付けください。そして何か異変があれば、どんな時でも直接でいいですから、私に連絡してください」

 そう言って彼女は一枚の付箋を渡した。電話番号らしき数列が並んでいる。

 一医者が一患者にこんな簡単に連絡先を渡していいのか、疑問に思ったが、彼女の健気な眼差しに、それを口にするのを止めることにした。

 10時になって、葵が迎えに来た。

 荷物を整理して、彼の車の助手席に乗り込む。地下の駐車場まで、入院中付きっきりでお世話をしてくれた若い看護師と、女医が私を送り届けてくれた。

 葵と私は彼女らに何度もお辞儀をして、車を発進させた。

 地上出口から光がこぼれ、外に出るとなんだか新鮮な気持ちになる。

「窓を開けてもいい?」

「いいよ」

 そうして、窓を全開にした。

 病院の中では感じられなかった瑞々しい空気が車の中に流れ込んだ。

「そういえばあなたは私のことをなんて呼んでたの?」

「え、どうした、急に」

「なんとなく、気になって」

「そうだな、……なんて呼んでたっけな」

「えー、あなたも記憶喪失になったの?」

「悪い冗談はよせ」

「ごめんごめん」

 横から見る彼の顔は初めて会った時よりもスッキリした印象になって、わずかに口角が上がっているようにも見えた。

「あんまりあだ名とかでは呼ばなかったな。最初は『梓さん』で、結婚してからは呼び捨てかな」

「じゃあ、私も『葵』でいい?」

「別にいいけど……」

 そのタイミングで信号待ちになり、葵は一瞬私の方を向いた。

「無理してない?」

「えっ、元気だよ」

「いや、そうじゃなくて。無理に距離を縮めようとしてないかな、と思って」

「……どういう意味?」

「うーん、だって記憶を無くす前は俺のこと『葵さん』て呼んでたから」

「えー! 夫を『さん』付けで呼んでたの?」

「内気な性格だったんだよ」

 彼の語気が少しだけ強まった感じがした。

「まあでも、これからは『葵』って呼んでいい? 記憶がないとはいえ、一応夫婦なんだし」

「…………」

 これから梅雨のシーズンということもあってか、水分を含んだ風は私の肌をひんやりと冷やし、沈黙の中でも留まることはなく吹き抜けていた。

「変わったね」

「人は変わるよ」

 そう言って私は座席を後ろに倒して伸びをした。

 そんな私をまたチラッと見て、葵は黙々と車を走らせた。

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