2話 「面倒なことになった」
しばらく、私の夫を名乗る男と抱擁していた。
私はつまり、記憶喪失ということで、彼は私が愛すべき男であるということらしかった。
しかし、変な感覚だ。
これだけ密着しているのに、私が記憶喪失だと気づかされる瞬間に起こっていた異常なまでの心臓の速い鼓動は、だんだんと落ち着きを取り戻していた。
どれだけ彼の温もりを感じても、どうしてか他人のような感覚を感じずにはいられなかったのだ。
「そうか、そうか」
と、耳元で呟かれる。それがなんだかこそばゆい感じがして、正直離れてほしい気持ちがふつふつと沸き起こっていた。
「心配させてごめんなさい」
私がそう言うと、やっと彼は体を離してくれた。
目の下が赤く腫れている。
私は相当危機的な状況から、こうして意識を取り戻すことができたのかもしれない。
「苦しいことがあったら言ってくれたらよかったのに。いつでも傍にいてあげられた」
彼は私の目を真っ直ぐ覗き込んでそう言った。頼りになる優しい言葉だが、どういうわけか言い方に違和感を覚えた。小魚のそのまま飲み込めるくらいの細かい骨が、変に喉に引っかかった感じだ。
「その言葉を私は前に聞いてた?」
私がそう言うと、彼は黙って俯いた。
「分からない」
そう言う彼の表情にはどこか陰りがあった。
「看護師を呼んでくる」
彼がそう言って立ち上がると、ちょうど廊下を歩いていた看護師が私に気づいた。
すぐに駆け寄って体温を測り、医師を呼んで、問診をすることになった。
1分もしないうちに医師がやってきた。物腰の柔らかい、優しげな40代くらいの女の医師だった。
軽く挨拶を済ませた後、身体検査をするために別の部屋に移動した。
彼女からの質問に答えながら、道具を使わない触診でできる身体検査をした。
淡々と触診と問診を繰り返す中で、私が記憶喪失について打ち明けると、驚く素振りはあまりなく、その可能性は大いにあったと説明された。
何があったのか説明を求めると、「取り乱さず落ち着いて聞いてくださいね」という前置きを挟んで、私に起きたことを順序だてて分かりやすく教えてくれた。
どうやら私が意識を失う前、この山岸梓という女はこの病院から10キロ以上も離れた山道の路肩で車を停め、その中で自殺を図ったそうだ。練炭を用いた自殺だったため、脳が一酸化炭素中毒や酸欠といった危険な状態になっており、機能障害が起きてしまう可能性が非常に高かったそうだ。意識をおそよ2日と半日失ってから起きた影響で体が重たい感じはしていたが、それ以外は特に身体的に問題がなかった。知能検査を後日しようということになったが、そこでの問答が医師の視点でははっきりと受け答えしているように見えたため、おそらくは問題ないだろうといわれた。
記憶障害という後遺症が残ったものの、その他の影響が少なかったのは不幸中の幸いだということのようだ。
「そんなまずい状態だったのに、どうして私は助かったんですか?」
そう言うと、医師は私の肩をポンと叩いた。
「あなたの旦那さんに感謝しなさい。あなた夫婦は携帯のアプリで位置情報を共有していたの。元々出張に出かけていた旦那さんが夜にあなたに電話をかけたのに出なくて、位置情報も山の中にいたというから誘拐されたのかもと思いすぐに警察に捜索依頼を出したの。その結果、その日のうちに警察が動いて、車の中で練炭を焚いて後部座席で倒れているあなたが発見された。旦那さんがもし後1分でもあなたの異変に気付くのが遅かったら、あなたは目覚めなかったかもしれない。本当に奇跡的に助かったのよ」
私はその事実にどうにもやるせない気持ちになって、粛々と彼女の言葉を聞くことしかできなかった。
「あなたの旦那さんは仕事をキャンセルして夜通し車を走らせて、この病院に来たわ。それからあなたが目を覚ますまでずっと家に帰らずに、あなたの目覚めを待っていたの。あのスーツ姿も昨日の朝、私が目にしてからずっと変わってないわ」
話を聞いている内に、あの男への感謝の気持ちがこみ上げたが、どうしてか同時に心の中にモヤモヤが溜まっていた。状況を整理して冷静に考えると、ふと解答のようなものを見つけて、つい声に出してしまった。
「なのになぜ私は自殺しようとしたんですか」
何に対する『なのに』なのかは、医師もすぐに察したようで、右眉を少し吊り上げ、訝しい表情になった。
「それは私もあなたが目覚める間、ずっと考えていたものよ。もしあなたに記憶が残っていたのなら、真っ先に質問していたと思うわ」
意味深な言い回しだった。何かこの騒動の根本に暗い影が落とされたような気がして、対面する私と医師の間には何とも言えない居心地の悪い空気が流れていた。
看護師が車いすを用意してくれたが、足に力が入りづらく体が重たいくらいで歩けないほどではなかったため、自力で病室に戻ると言った。付き添いの看護師は私の横でペースを合わせて歩いてくれる。私は一人でも戻れると言ったが、看護師という仕事柄、彼女はどうにも心配性だった。
病室の手前まで来て、付き添いの看護師は他の看護師から声をかけられ、それに返事をしていた。
「そちらの病室です。あとは大丈夫ですね。お食事やシャワーなど、何か必要なことがありましたら何でも気軽に申し付けてください」
そう言って彼女は呼ばれた看護師の方へ足早に向かっていった。
看護師は大変だな、と社会を知らない幼子のような単純な感想が頭の中を駆け巡ると、病室の中から、あの葵という私の夫らしき男が誰かと話している声がした。
私の病室はもう二つベッドがあったが、その部屋を使っているのは私だけだった。
私がいない以上、彼は誰とも話す相手がいないはずだが、弾みのついた軽快な口調になっていた彼の雰囲気に嫌な予感がして、私は部屋に入らず扉の前で少し聞き耳を立てた。
おそらく病室に誰かがいるのではなく、誰かと電話で話している。
『おふくろ』や『親父』という言葉が聞こえたので、彼は自分の親と話しているのだろう。さっきよりも口が回っているのが何よりも証拠だ。
会話のほどんどがうまく聞き取れなかったが、こんな言葉が聞こえてきた。
「面倒なことになった」「大変だよこれから全く」「今どれだけ大切な時期か知りもしないで」
おどけた口調で、自虐的な話しぶりで、そんな言葉が飛び交う。
彼と対峙した時から、なんとなく違和感があった。私のことを気にかけているようで、どこか健気に介抱する理解のある夫像に酔っている感じ。彼の話し方の節々から、その気配があると匂っていたのだ。
私は葵の言葉を聞いて、ますます疑惑の念が深まった。
この梓という女が自殺に走った原因は、実は彼にあるのではないか、と。