エピローグ 「強く生きろ」
今日は楓が3歳になる誕生日だ。私にとっては本当の意味で、椿の四回忌でもあった。
私は葵と協力しながら子育てを続け、少し時間に余裕ができると、椿が頑張っていた洗車のアルバイトを受け継いで、楓を保育園に預けるようになっていた。
「楓ちゃーん、朝だよー」
私が声をかけると、うつ伏せになって寝ていた楓は寝返りを打って、小さな体をぐっと伸ばし、口をパクパクさせながら目を開けた。おやつを食べる夢でも見ていたのだろうか。
「おはよ」
「おはよ」
掛け布団を蹴飛ばして、飛び起きた。くっきりと二重になった大きな瞳は、どちらかというと葵に似ている。
「今日は何の日でしょう?」
「かえでのたんじょうび!」
「何歳になったの?」
「3さい!」
「えらいね~」
そう言って私がその小さな体を強引に引き寄せて、額にキスをしようとすると、「やめて」といって私の顔を押しのけるようになった。最近よくこれをされる。3歳になると「イヤイヤ」が加速するとネットの情報で知っていたが、寂しいものだ。もう葵は仕事に行ってしまったが、私は知っている、パパのキスには嬉しそうに受け入れることを。
私はまだまだ愛しい我が子におはようのキスをしないと1日が始まった感じがしない体になってしまっていた。
楓は何でも食べることができたが、特に納豆ご飯が好きだった。私も葵も、確か椿でさえ、納豆はそんなに好みではなかったはずなのに、冷蔵庫に毎日ストックされている納豆パックはすっかり楓専用のものなっていた。
今日の朝ごはんももちろん納豆ご飯だ。それにみそ汁と卵焼き。朝食のレパートリーはおかずしかほとんど変わらないというのに、楓は毎日おいしそうに頬張ってくれた。
バランスよく交互に食べようといつも言っているが、一度納豆ご飯を口にすると、それからスプーンをなかなか手放さない。今日も注意してみたが、一回休憩を挟んだだけで、すぐに納豆ご飯ばかりを食べてしまう。
それでも他の料理を残すことはなかったし、こうして納豆ご飯に夢中になっている間、彼女の髪を整えることができたため、私は何度も注意することはしなくなっていた。
今日もオレンジ色のリボンでまとまったきれいな三つ編みが二つできた。ご飯を食べ終わると、そのまま着替えをした。その他の身支度も済ませ、一緒に家を出て、自転車に乗り、保育園に向かった。
私は楓を送り届けた後、家に戻らず、病院へ向かった。
今回は経過観察のために病院に行く。嬉しいことに2人目の子供を授かることができたのだ。
エコー検査をして赤ちゃんの状態を見た。妊娠16週目の赤ちゃんは鼻や顎がしっかり形作られていて、人間らしい造形になっていた。そうして観察していく中で、下半身に突起物が見えた。今度は男の子のようだ。
検査を終えて家に帰ると、早速ダイニングテーブルに座って、母子手帳を開き、今回の記録を残した。
椿もこういった作業は苦手だったはずだが、楓の母子手帳はその日の天気から母体の健康状態まで事細かに記録されていた。15週を超えた今でも椿の書いた母子手帳を横に置いて、真似をしながら記録を付けている。
詳細を書いて、余ったスペースにエコー写真を貼った。
そう言えば今日は楓の誕生日。
私は椿が最後に書き残した日記のページを開いた。
『 本日、無事に出産を終えることができました! 私たちの間に生まれてきてくれてありがとう、楓。あなたは今日から山岸家の一員、山岸楓ちゃんです。もう言いたいことがたくさんあるけど、もし将来この日記を楓に見せることがあるなら、恥ずかしいことは書けないね。この字をいつか読んでくれることがあるとしたら、嬉しいな。どんな女の子になって、どんな人と恋をして、どんな人生を歩むのか、今の私には何一つ想像できません。
私は初めての出産で分からないことだらけだったけど、友達や家族、そして何より葵の献身があって今日を迎えることができました。1年半前の私たちの仲は本当によくない関係で、子供を持つ選択肢すら考えられない状態でした。そこからお互いのことを知り合って、お互いのことを思い合うようになって、夫婦として成長し続けた結果、今日という日につなげられたのかなと思います。
ただここがゴールではありません。楓を立派な大人に育てるまでが、私たちの使命です。
楓は大きな産声を上げていたから、きっと夜泣きも大変でしょう。葵は自分のことばかり考えることがあるから、イヤイヤ期に入ってしまうと手が付けられないかも。そういう私も学生時代は結構怖いもの知らずで物を言う性格だったから、その遺伝子がいい方向に向かってくれることを信じています。
そして仲が良くなったとはいえ毎分、毎秒、相手のことを好きだと感じて対立しない、なんてことはありません。
そんな時は、かつて打ち立てたあの5大原則を思い出してください。
1つ、舐められないこと
1つ、メリハリをつけること
1つ、無視は万死に値するということ
1つ、夫婦は上下ではなく横並びであること
1つ、躾けは必ず『愛』の発露であること
このことさえ守っていればきっとうまくいくはずです。今度は葵にもちゃんと見せなさいよ。
さて、いつかこの手帳を読むことになる我が子へ。
漢字ばっかりの文章になってごめんね、私は後先考えずにペンを握ってしまうタイプなのです。
あなたは私たちにとってかけがえのない宝物。
あなたがつらい時、悲しい時、やるせない気持ちになって自分を見失いそうになる時も、必ず傍にいて、あなたの成長を見守り続けます。約束しましょう。どんなことがあっても必ず私はあなたの味方です。どんなところからも駆けつけに行くと誓います。
だから、お願いです。
私たちも頑張るから、お父さん、お母さんを愛し続けてください。
『愛』という表現が重たく感じるなら、『気にする』程度で十分です。
私はいつもあなたのことを愛し続けています。
最後に、いつかこの文章を見返す私へ。
今の私から言えることはたった1つです。
強く生きろ。
生きて、生きて、意識が途切れるその瞬間まで、とにかくもがき続けろ。
どんなに苦しくても、どんなに挫けそうになっても、もうあなたの命はあなた一人のものではありません。
みんなの人生の中に息づいています。
私の未来がどういった道を辿るのか知る由もありませんが、この文を読むあなたに少しでも笑顔が見られることを期待しています。
頑張れー、私! これからだよ、人生は』
私は椿の最後の言葉を読み終えると、2冊の母子手帳をポーチに入れた。
お腹も大きくなって再び洗車の仕事を控えるようになっていた私は、家にいる時間を少し持て余していた。
そうだ。椿にもこの2人目の子の母子手帳を読んでもらおう。最近お墓参りできていなかったからね。まだこの子の名前も決まってないし、椿ならその相談相手になってくれるだろう。
私は水色のカーディガンを羽織って、ポーチを手に取った。
10月も半ばだが、まだ日差しが厳しい。
日焼け止めを隈なく塗って、帽子を被る。
新調したスニーカーに足を入れて、私は靴ひもを固く結んだ。
これにて完結です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。 by Libra




