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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
最終章 「梓と葵と楓と椿」
23/24

6話 「ありがとう、梓」

 私が子供を授かるまでには思ったより時間がかかった。

 最初はタイミングさえ考えればいいかと特に調べずにいたが、中々結果が出ず、気付けば年を跨いでしまっていた。

 これはまずいと色んな情報を探したが、結局医療に携わる人が詳しいと思い、専門外ではあったが、梓の自殺から命を救ってくれた、あの女医に相談した。

 女医に言われた通り色んな検査をしたり、体を冷やさないように適度な運動を心掛けるようにしたりすると、相談してから1か月足らずで妊娠することができた。

 市役所に行って母子手帳を貰い、葵にも理解してほしいと思って母親教室などに一緒に連れて行った。

 母子手帳には週ごとに経過を記録する欄があり、エコー写真や健診、赤ちゃんの心拍や成長の様子など、様々なことをメモできるようになっていた。

 私は昔から、言われてやる単純作業は好きだが、こうやって自分から何かを発信しないといけない作業は苦手だった。

 ネットで情報を集め、エコー写真を簡単に張る方法や、どう記録していいかなどを参考にしながら、母子手帳に赤ちゃんとの歩みを記録していった。

 赤ちゃんの性別は女の子だった。順調に経過が進み、このまま行けば10月ごろに出産の日を迎えられる。

 出産は痛いものだと思っていたが、最近は無痛分娩なるものが人気になっているらしい。どうやらフランスなどではほとんどの人がその選択をしているようで、分娩時に麻酔を打つことで痛みを軽減してくれるというものだった。

 しかしここ日本ではその麻酔を打つだけの医療処置に10万円以上別で費用がかかってしまう。

 人によっては出産は痛みを経験してこそ、という考え方の人もいるそうだし、実際に初産で自然分娩を経験しておけば2人目以降は体が慣れてきて無痛分娩を失敗するケースが減ると聞いた。なんでも麻酔によって体の感覚が鈍くなるため、いきむことが難しく、時間がかかって結局帝王切開のような傷を入れてしまうケースになることがあるらしいのだ。

 この体は私ではなく梓の体。私は体を借りている身で、傷をつけることはしたくないと思い、自然分娩を選択しようと思ったが、葵がそれを許してくれなかった。

 葵とは立ち会い出産をする話になっている。彼は私が命を懸けて痛みと闘う姿を見たくないと言ってくれた。

 確かに、初産で2人目以降のことを考えても仕方ないなと思い、私は無痛分娩を選択することにした。

 妊娠38週になって経過を観察すると子宮口が3センチほど開いていることが確認できたため、具体的な出産予定日を立てることができた。

 『無痛』と謳っているため勘違いしていたが、ちゃんと麻酔を投与されるのは出産の直前らしい。つまり陣痛に耐える時が来るのは間違いなく、それでも子宮口が開き切っていなかったらそういう状態になるまで痛みに耐える必要があるようだった。

 お腹の張りが10分間隔で一定に感じられるようになると、私はよく葵にドライブに連れて行ってもらっていた。車の振動すらきついと言う人がいるらしいが、車が好きな私にとっては逆にマッサージ機のようで落ち着いて息を整えることができた。

 その日の夜もお腹が張っていたため、葵は私を助手席に乗せて、近くの川沿いの道を車で走ってくれた。

 その時のお腹の張りは明らかにいつもとは違った。腰の痛みも伴って、お腹の張りが来る間隔も短くなっていた。

 10月の中旬になって夜はだいぶ涼しくなってきており、窓を少し開けると川から水分を含んだ心地よい風が車の中を通っていった。

 私は携帯の画面とにらめっこをして、その間隔がどれだけ短くなっているか計っていた。

 河川敷の公園に設けられた駐車場に車を停めた。もう夏も終わったというのに虫の音が聞こえた。

 駐車場には外灯が設けられておらず真っ暗ではあったが、満月が水面と芝生を明るく照らしてくれた。

 見上げると視界の端に大きな橋が架かっており、私の座席の角度からは一つだけ外灯が飛び出て見えた。

 これに似た光景をどこかで見たことがある気がする。

 特にそのことを深く考えることはせず、漠然と感慨に耽っていると、窓の隙間から、1匹の虫が入り込んで私の腕に止まった。

 私は驚いて反射的にその虫を手で払い落した。

 その虫がタオルケットをかけていた膝に乗る。

 カゲロウだ。

 夢で見たあの白いカゲロウが横たわっていた。

 私が考えもなしに手で払ったため、片方の羽が千切れ、もう片方の羽も折れ曲がり、腹もひしゃげて黄色い卵がタオルケットについていた。

「どうしたの?」

「虫がいて」

「え、どこ?」

 カゲロウはひっくり返って、足をわずかに動かしていた。

 黒い小さな瞳が私を見つめている。

 ごめんよ。あなたを死なせてしまったかも――

 ――その時、下腹部に激痛が走った。

 なぜか体が覚えている。生理痛の痛みだ!

 いや、この圧迫感はそれに輪をかけて痛い!

 きっと、これは本格的に陣痛が始まってしまったのだ!

 あまりの痛みに私は思わずうずくまった。

 息ができない。頭に酸素が回らない実感がある。

 葵は私の手を握って、私の背中をさすった。

 私は体を起こしてヘッドレストに後頭部を擦り付けた。体が内側から破裂してしまいそうな、例えようのない感覚だった。

 タオルケットが膝から滑り落ちる。葵が手を伸ばして足元に落ちたタオルケットを引っ張り、私の膝にかけ直してくれた。

 そこにカゲロウはいなかった。もう死んでしまったのかもしれない。

 葵は車のエンジンをかけて、病院に向け、車を発進させた。


 私たちは無痛分娩を選択していたため、設備が整っている総合病院の産婦人科で出産を予定していた。

 検査をすると子宮口がもう十分に開いていたため、すぐに麻酔が投与され、そのまま分娩室に連れていかれた。

 あれだけ痛かったのに、麻酔はすぐに効いた。嘘のように痛みが和らいでいる。

 私は助産師のアドバイスをもらっていきむ練習を何度かした。

 葵は産科医たちが準備をしている間に、一度私の着替えを取りに家に戻った。

 私についてくれた助産師は年配の方で、積極的に話しかけてくれて、時にはプライベートな雑談を交えながら、私の初産に対する不安を和らげてくれた。

 コンコンと分娩室の扉が叩かれる。

 その助産師が扉を引いて開けると、カーテンレールが揺れて、驚くべきことにあの女医が入ってきた。

「先生、すみませんが私一瞬だけここを離れますね。すぐに戻ってきます」

「大丈夫ですよ、ゆっくりしてください。ちゃんと見ておきます」

「ありがとうございます」

 そう言って助産師は目線を私に向けて微笑みかけると、足早に分娩室を出ていった。今日は平日の夜だったが、病院にそんなことは関係ないのか、医者も看護師も助産師も、みんな慌ただしそうに廊下を歩いていた。

「先生、わざわざ来てくれたんですか?」

 この総合病院は私が目覚める時にもお世話になった病院だ。彼女が見舞いに来てくれる可能性もなくはなかった。

「今日はたまたま当直でしたから」

 『当直』ということはここに泊まりながら待機しているということだろうか。厚めにファンデーションを塗っていても、その疲労は顔に出ていた。

「先生のおかげでここまで来ることができました。あとは産むだけです」

「その『産む』ということが一番の正念場だというのに。あなたは本当に強い人ですね」

「そうですか?」

「そうですよ。電話をいただいて妊活をしたいと聞いた時は本当に腰が抜けそうになりました。先ほど葵さんと廊下ですれ違いましたが、彼、ちゃんとお父さんの顔になっていましたよ。相当苦労したんじゃないですか?」

「もちろんです。もうしょうもないことをずっと言わされて、私は自分の性格が悪くなってしまったんじゃないかと、自己嫌悪になってしまうくらいでした」

「その時から相談してくれてよかったんですよ?」

「いえいえ、そんなことまでは頼めないです。それに私は退院後、葵以外の色んな人と関わって、思ったよりも恵まれた人間関係を築けていることに気付かされました。私は本当に幸せ者です」

「そうですか」

 女医は分娩台のそばにあった丸椅子を引いて腰かけた。疲れた目で私に優しい眼差しを送っている。

「記憶は戻りましたか?」

「いえ。でももうそろそろ思い出せそうな気はしてます」

「なら、今、あなたに会えてよかったです」

 含みのある言い方だった。彼女は表情を変えない。

「やだな~、そんな意味深なこと言わないでくださいよ。どういう意味で言ったんですか?」

「知りたいですか?」

「はい」

「……あなたはこれから出産を迎えるんです。不安に思うことにならないといいのですが……」

「大丈夫です。むしろ訊かない方が不安です」

「そうですか。口が滑ってしまいましたね」

 女医は一度目線を落として、また同じ眼差しで私を見た。

「私は色んな患者の死期に立ち会ってきましてね。医者なのに非科学的なことを言いますが、なんとなく死相が見えるようになったんです。どうか、嫌に思わないでください。あなたは出会った時から死相が見える不思議な人でした」

 私は冷や汗をかいた。

 ここまで周りのサポートがあったとはいえ、その事実を隠しながら生きてきた。それなのに関わりが少なかったはずの女医は、椿としての私の意識の世界に片足を突っ込もうとしている。

「本当に嫌なことを言いますね。私はもう麻酔も効いて、こんなに元気なんですよ?」

 そう言って私は上体を起こし、肩を回してアピールをした。

 その姿を見ても女医は眉一つ動かさない。

「だから今、会えてよかったんです」

「?」

「記憶障害とはいえ、ここまでトラブルなく生活できていたとなると、それはもう単なる記憶喪失ではなく、二重人格、医学的に言うなら『DID』、つまり『解離性同一性障害』の域です。私が今こうして話しているあなたが何者なのか知りませんが、あなたは私の視点からだと『死』を背負って生きているように見える、梓さんとは別人の人間なのです。あくまでそう見えるだけですよ。だから今、あなたに会えて、あなたと会話を交わすことができて、あなたを見ている人がいることを伝えることができて、よかったんです」

 女医の瞳は三白眼で小さく、その黒い点はカゲロウのあの目を思い出させた。

 再び扉が開かれる。助産師が戻ってきた。

 女医は立ち上がって、椅子を元の場所に戻し、「それでは」と言って分娩室を出た。

 私は心にぽっかり穴が空いたような感じがして、少し寂しい気持ちになった。

 何でもいいから話をしたい。

「カゲロウって知ってますか?」

 私は助産師に声をかけた。誰でもいいから私とお喋りをしてほしい。

「『カゲロウ』というのは、暑い時期に道路に見える靄のことですか?」

「そっちじゃなくて、虫のカゲロウのことです」

「ああ、虫にもいますね。一生をほとんど水の中で過ごす生き物と聞きましたよ」

「水から出て成虫になるとどうなるか知っています?」

「確か、大人になると消化器官を失ってしまうから、すぐに交尾をして卵を産むと、そのまま死んでしまうのではなかったでしょうか? まるで子孫を残すためだけに地上に出てきたかのような、神秘的な生き物です」

「そうですけど、その跳んでる姿、見たことがありますか?」

「話に聞くだけで、実際に見たことはありませんね」

「雪なんです」

「『雪』?」

「そうです。まるで雪のように美しく舞って、きれいなんです」

「珍しいですね。あなたのような若い女性が虫に興味を持っているなんて」

「興味があるわけではないんです。ただその美しさに目を奪われていただけなんです」

「そうですか」

 なぜこんな会話をしたのか分からない。葵が傍にいなくて心細かったのかもしれない。

 少しすると葵がやってきて、私の枕元の近くに丸椅子を寄せて座った。

 産科医に麻酔科医、看護師も二人入ってきて、分娩室は一気に人が多くなった。

 いよいよその時が来た。

 葵は私の手を強く握って、何度も声をかけてくれた。

 感覚のない下半身に、うまくできているのか分からないまま何度も力を籠める。

 幸いにも痛みは少なかったが、お腹につっかえている感覚ははっきりしていて、出そうにも出ないじれったい時間がずっと続いた。

 全身に汗をかいて、息が上がる。

 どれだけ長い時間が経ったのだろう。いきむことに疲れ果てて、意味もなく天井を見つめていた。壁紙もなくただペンキが塗られた無機質な空間。照明の光を吸収しない、その艶やかな表面をただただ眺めて、瞼を閉じた。

 ふと、お腹の中が軽くなった。

「あ、出た」

 そう声に漏らしてしまうくらい、予兆もなく自然にお腹の中から排出された感覚があった。

 産声が聞こえる。

 「おめでとうございます」という祝福の声で無機質だったその空間が途端に明るくなって、温かみを帯びていった。

 葵を見ると、今まで見たことがないくらい顔をしわくちゃにして号泣していた。

「なんで産んだ私じゃなくて葵が泣くの?」

「頑張った! 本当によく頑張った!」

 葵はそう言って私の髪までしわくちゃにする勢いで私の頭を撫でた。

 温かいタオルに包まれた新しい命が、今、私の胸の上にある。

 目はまだ開いていないが、あれだけけたたましく泣いていた様子も落ち着いて、ぐっすり眠っていた。

 小さな手が私の患者衣を掴んでいる。

 こんな小さな体でも、しっかり呼吸して、脈打っているのが伝わった。

「お誕生日おめでとう、かえで

 この子の名前は山岸楓。正真正銘、山岸葵と山岸梓の間にできた、夢にまで見た赤ちゃんだった。


 分娩室を出て病室に戻ると、看護師が食事を用意してくれていた。窓から見える外はもう明るくなって日が高くなっていた。私はベッドに倒れ込むように入って、食事をとった。半日近く分娩室に閉じ込められていたせいで、無性にお腹が空いていた。怖いくらい食べることができる。いつもなら食べきれない量の料理があったが、今日に限ってはもう一回同じメニューを食べきることができる自信があるくらい、満ち足りていなかった。

 食事を終えると、どっと肩に疲れが乗ってきた。

 手足がしびれて、とてつもない眠気が襲ってくる。

 ゆりかごに入れられた楓が、私のベッドの隣ですやすやと眠っていた。

 私は母子手帳を開いて、最後の日記をつけた。止まりそうな脳みそ何とか回転させて言葉を紡いだ。

 母子手帳を閉じて、ペンを置く。

 何もできない。限界だった。

 楓の方を向いて横になった。

 もう私は使命を果たし終えていた。

「ありがとう、梓」

 二度あるはずがない人生をこれだけ謳歌させてくれた。この体はあなたに返さなければならない。

 私はこの愛する我が子に見守られて、心臓の鼓動が聞こえなくなるまで、自分の底に到達するまで、深く、優しく、そして泥のように眠った。

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