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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
最終章 「梓と葵と楓と椿」
22/24

5話 「目を閉じて」

 私たちは水族館を満喫して駐車場に戻ると、もう日が暮れ始めていた。

 帰る直前にフードコートで軽食を取ってしまったため、夕飯は外で食べることはせず、家でしっぽりお酒を飲もうという話になった。元々車で移動している以上、そういう流れになるのは当然と言えば当然だった。

 高速やバイパスを乗り継いでも家までは2時間近くかかる。そのころにはもう星が見えているだろう。

 私は帰る前に連れていきたい場所があると言って、運転座席に乗った。

 葵は心配そうにしていたが、思い返せば私が目覚めてから一度も運転をしたことがない。私は小さいころから乗り物を運転するのが好きで、自分の車は持っていなかったが、よく母や姉の車を借りて遠出をすることがあった。

 仕事以外で久しぶりにハンドルを握る。レザーのハンドルは触り心地がよく、私のアクションの対する車の反応も良かったため、私は運転する楽しさをしみじみと思い出していた。

 私たちが住む街を通り越して、どんどん郊外の方へ車を走らせる。山道に入って、途中、道の駅に寄り、お手洗いを済ませ、缶コーヒーとお酒のつまみになるちょっとしたものを購入した。

 私が連れていきたいのは、もちろんあの観測スポット。

 私たちは車を降りた。

「ここって、あの場所だよな」

「そう。あの場所」

 よく父に連れられて3人で星空を眺めた場所。梓が死に場所に選んでしまった木々の隙間から街を眺望できる場所。

 葵もそこが何であるかを気付いているようだった。

 車のトランクを開けて、荷物を取り出す。

「それも用意してたんだ」

「うん。葵が江戸切子の魅力を教えてくれたように、私も星の魅力を伝えたくて」

 私はポーチにプレゼントで買った香水を隠して、葵に三脚の部分を持ってもらった。

 父が言うには元々ゴルフ場の跡地だったその場所は、今でも自然公園の一部としてきれいに芝が刈られている。若干街からは遠いが、紅葉シーズンだと彩られた山々を眺めることができる展望台としても有名だ。

 砂利道を進むとぽつんとコンクリートでできたベンチがある。

 そこに飲み物やポーチをおいて、私たちは望遠鏡をセッティングした。

 もうすっかり暗くなって、街の方は煌々と明かりが灯っている。

 肉眼で見える夜空は雲一つない素晴らしいコンディションではあったが、星空観察としてはあんまり有り難くない満月が浮かんでいて、夏が近いということもあってか全体的に星が見えづらくなっていた。

 それでも葵は「おお」と感嘆の声を上げた。

「結構星が見えるんだね」

「今日は全然見えない方だけど」

「そうなんだ。そういえばあんまりまじまじと星を眺めたことがなかったな。月もちょうど満月だ」

 その『ちょうど』が嬉しくなかったのだが、水を差すのもよくない。

 私はレンズを覗いて西の空に望遠鏡の首を傾けた。事前に調べた情報によると、6月の夜が浅いこの時間帯は西の空にまだ春の大三角が見えるらしい。

 いつも父か姉がピントを合わせていたので、経験が少ない私はそれを見つけるまでに少し時間がかかった。

 三者三様に光る三角形が見えた。確か梓はこの春の大三角が好きだったはずだ。

「ねぇ、見て」

 私は望遠鏡から目を離して、葵を呼んだ。

「今、西の方角に望遠鏡を向けてるんだけど、まだあそこには春だった軌跡がある」

「梓が最後に見た空と同じ?」

 葵からそんな言い回しが出るとは思わなかった。

 梓が自殺を図ったのは4月。そうだ。あの星をきっと梓も眺めていたのだろう。

「そうだね。多分私も見ていたし、春の空には私が好きな星がある」

「どれどれ」

 そう言って葵は望遠鏡を覗き込んだ。私は横から声をかける。

「三角形が見えるでしょ? それが春の大三角。私が好きな星」

「あー、これかな。確かにある」

「その3つの星をよく見て。それぞれ違う色で輝いてない?」

「ホントだ。少し違う」

「オレンジ色は牛飼い座のアークトゥルス、少し青っぽいのがおとめ座のスピカ、そして一歩引いて白いのが獅子座のデネボラ」

「へー、星に色があるなんて知らなかった」

 梓はこの星を父と自身と私に例えるのが好きだった。アークトゥルスは牛飼い座だし一番強く光るので、父の茂。スピカはおとめ座なので清純でおしとやかな自分がふさわしいと、姉の梓が。そして私は一見弱弱しいのに心の中に獅子を飼っているという理由でデネボラがいいと言っていた。

 私はその理由が納得いかなくて、よく梓と口喧嘩をした。

 今となっては別にどう例えられようが気にしないが、梓にとってこの春の大三角がどれだけ思い入れがあったのかを考えさせてくれる思い出だった。

「きれいだ」

 葵はぼそっと呟くと、急にのけぞって望遠鏡から顔を離した。

 手の甲で目を押さえている。

 葵は涙を流していたのだ。

「きれいだとは思うけど星を見て泣く人なんて初めて見たよ」

 葵は丁寧に頬に残った涙を拭って、深呼吸をした。

「色々と考えちゃって、そしたら気づかないうちに流れて」

 複雑な感情が沸き立ったというのはなんとなく想像ができた。

「やっぱり、昔の私に会いたい?」

 葵は両手で顔を覆って俯き、大きく息を吐いた。

「ごめん。今の梓も梓でしかないのに……。こんなこと思いたくはなかったのに……。ごめん」

 体を震わせる葵の肩に私はそっと手を置いた。

「気にしないで。それが普通だよ。それが普通の『愛の在り方』だよ」


 少し時間が経つと、星々が動いて東の空に夏の大三角と天の川が見えた。

 子供のころの私は梓とは違い、派手で分かりやすい天の川を見る方が好きだった。肉眼で見るのと望遠鏡を通して見るのとで一番違いを感じられるのが個人的に天の川だと思う。久しぶりに天の川を見ることができて、私としても天体観測を十分楽しんだ気持ちになった。

 コンクリートのベンチに二人並んで座る。

 私は日ごろの感謝を述べてポーチに隠していたプレゼントを渡した。昨日ふと思い立ってショッピングモールで選んで購入した物だ。梓と食べ物の趣味は違うが、匂いの好き嫌いくらいは変わりないだろう。私は一番気に入ったウッディ系の温かみのある香りがする香水をプレゼントした。

 葵は喜んでプレゼントを受け取ってくれたが、「参ったな」となぜか恥ずかしがって頭をかいた。

「実は俺もサプライズのつもりでプレゼントを用意してたんだよ」

「えー、嘘! 嬉しい!」

 葵からこんなに風にプレゼントを貰える機会なんて、今日が初めてだった。葵がどんなプレゼントを用意するのか想像がつかない。

 おそらくこんなことをするのに慣れていないだろう彼がどんな物を私のために選んだのか、わずかな不安はあったが、それを忘れるくらい私は期待感で胸いっぱいになっていた。

「プレゼントの前に言いたいことがある」

 そう言って葵は私の目の中を覗き込んで距離を縮めた。

 その時、ふいに彼の格好の変化に気付いた。道の駅でお手洗いを使った時だろうか。彼の首には銀色に輝くネックレスがかけられていた。二つのシルバーのリングにチェーンが通っている。私は葵がネックレスをしているのを初めて見た。

「何? 改まって」

 ネックレスから目線を戻すと、大きな瞳で真剣に私を見ている葵がいた。

「まず昼間、少しこじれそうになった話を覚えてる?」

「子供の件?」

「そう。その答えを今、出そうと思う」

 葵は瞼を閉じ、かすかに息を吐いて、口を開いた。

「こんな俺でよかったら、俺たちの子供を産んでほしい」

 葵は毅然とした態度でそう言った。昼食の時に話した彼とは完全に別人だ。

「どうしたの? 時間が欲しいって言ってなかったっけ?」

「もうその時間は待ってくれた。これが今の俺の答えだ」

 葵はさらに顔を近づける。その大きな黒い瞳に私は吸い込まれそうな感覚になっていた。

「それは嬉しいけど、むしろ私からも訊きたい。今の私でいいの?」

「うん」

「記憶がなくても?」

「くどいな。前もいいって言っただろ?」

「もっと口うるさくなるかもよ?」

「だから、俺にとっては梓はずっと変わらない」

「さっき昔の私を思い出して泣いてたのに?」

「それは……、なんか違うじゃん。なんていうか、その……」

 葵は言葉を詰まらせて目線を外した。

「ありがとう。でも理由が知りたい。なんでそんな半日でそう思うようになったの?」

 彼のネックレスが揺れる。葵の瞳も水分を纏って揺らいでいた。

「正直に話すと、俺はこの機会にもう一度プロポーズをしようと思っていた。だからプレゼントを用意していたし、何を伝えたいかある程度考えがまとまっていた。だけど、お昼にあんなことを聞いた。君がそれを求めていることは記憶を失くす以前から薄々察してはいた。でも俺には俺の考え方もあった。君に心底失望されるだろうなと思ったけど、君はいつも俺の心を見透かしていて、あの時も俺の考えを汲み取って理解を示してくれた。それが何よりも嬉しかった。そして水族館で楽し気に子供と話す君の笑顔を見て、俺も気付かされた。梓が死を以って生き地獄から抜け出したいと考えたように、俺もその定めから逃げようとしてしまっていたんだ。今の俺は余所から見ても成長したと評価してもらえるくらい、内面から変化できたと胸を張って言える。それは全部、君のおかげだ。今の俺なら、そして梓、君となら何でもできる気がする。春の夜空は地平に消えてしまったけど、俺はもう逃げないし、君を逃したりもしない」

 視界がぼやけた。葵の声ははっきりと聞こえるのに、彼の顔が見えなくなる。

 なんで私まで涙ぐんでしまっているんだ! これじゃ、私もまるで彼に……。

「好きだ。愛してる。今度こそ一生をかけて君を幸せにしたい」

 葵は握りしめていた右の手のひらを開けて、私へのプレゼントを見せた。

 ネックレスだ、銅色の。彼の物と同じ、2つのリングにチェーンが通っている。

 葵はそのまま手を私の首の後ろまで伸ばして、ネックレスを付けてくれた。

 最悪だ、泣いてしまいそう。こんな顔、葵に見せたくない。

「目を閉じて」

 私は咄嗟にそう言って葵が瞼を閉じるのを待つと、彼の唇にキスをした。

 葵とのキスは、少し塩っぱい。

 夏の夜空の下、私たちは何度も『愛』を確かめ合うように唇を重ねた。

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