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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
最終章 「梓と葵と楓と椿」
21/24

4話 「やっぱり子供が好きなんだな」

「梅香から聞いたんだけど、葵ってさ」

「ん?」

「子供が欲しくないの?」

 葵は飲み切ったコップの中に残った氷を意味もなくストローでかき混ぜた。

「うーん」

 俯いて考えこみ、4、5周ストローを回した。

「梓はどうなの?」

「私はできるなら子供を産みたい」

「俺と?」

「他に誰がいるの?」

「いや、それでいいならいいんだけど……」

 やはり葵は返す言葉に困っていた。聞いていた話は本当らしい。

「さっきの葵の昔話を聞いて、なんとなく思ったんだけどさ」

「?」

「葵は子供が嫌いというよりは、子供を育てることを恐れているんじゃないかなって」

 葵は一瞬目を見開いて、より目線を下げた。

「どういうこと?」

 上目遣いで葵は訊いた。唇は震えて、彼の呼吸が早くなっているのが分かる。

 私も意味もなくストローを回してアイスティーを飲んだ。

「私の勝手な解釈だけど、葵は親から自分の未来を束縛された経験から、自分が子供を持ってしまうと一族の末裔として同じ道を歩ませてしまうんじゃないかと思ってるんじゃないかなって」

 葵は体の向きを少し斜めにして、足を組み、テーブルに肘をついた。口をへの字に曲げて考え込む。

「その通りだ。俺は子供が嫌いというより、親として子供を幸せに育てられる自信がない」

「そんなのみんなそうじゃないの? 私だって子育てに自信があるわけじゃない」

「いや、俺に関してはあの親父の血が流れてる。もし職人の道を継がなくてよくなってとしても、俺は一代で会社を立ち上げてしまった。子供を俺の会社の跡取りとして育てる可能性もある。きっと子供なんて持ってしまったら、そうやってその子の選択肢を狭めてしまう親になるだろう。俺の親父のように」

「そこを子育てする前から自覚できてるなら大丈夫じゃないの?」

「ごめん」

 葵は突然頭を下げて謝った。

「どうして謝るの?」

 彼は肘を上げて手のひらを太ももに置き、体を正面に向き直す。

「心の中でそう思っても多分無理だ。梓が記憶を失ってから、俺はどれだけダメな人間なのか自覚させられた。君が退院してすぐ、柳から俺は『人殺し』だと言われたが、その時はあんまりピンと来ていなかった。だけど今の君に俺の態度を何度も訂正してもらう内に、俺はどれだけ梓を追い詰めてしまったんだろうと気づくようになった。だからまずはそのことについて謝らせて。すみませんでした」

 そう言って葵はつむじが見えるくらい深々と頭を下げた。

「え、ちょっと。顔を上げてよ。ねぇ、ちょっと!」

 今その謝罪が受けられるとは思ってもいなかったので、私は混乱してしどろもどろな返事しかできなかった。

 葵はまだ顔を上げない。私は恥ずかしくなって意味もなくストロー摘まんでいた指に力が入った。

「そしてもう一つ言いたい。これは謝罪かつ俺からのお願いだ」

 そう言って顔を上げた。色被せガラスの照明を浴びた大きな瞳は、まるで江戸切子のように透き通って煌めいていた。

「子供についてはもう少し時間をくれ。俺の信条もあるが、梓は一度メンタルが不安定になったばかりだ。無理なことはさせたくない」

 そう言って彼はストローを摘まんでいた私の右手を奪って両手で包んだ。

「無理だと決めつけられたくない」

「だから許してくれ。もう少し時間が欲しい」

「私には時間がない!」

 私は彼の手を振り払って、思わず声を荒げた。

「そう言って葵は先延ばしにしたいだけじゃないの?」

「そうじゃないんだ。分かってくれ」

「金銭的な余裕がないとか、自分のキャリアのために今は子育てする時間がないとか、そういった不可逆な理由がある訳でもないんでしょ?」

「そうだよ。でも分かってくれ」

「何を『分かれ』っていうの?」

「…………ごめん」

 また葵は目線を下げた。

 私もどうかしている。なんでこんなに気が立ってしまっているのだろう。

「私こそ、ごめん。せっかくのデートなのにこんなデリケートな話をして」

「いや、いつかは話し合わないといけなかった。それが今だったってだけ」

「でもごめんね。私もまだ子供だった」

「俺こそ……、悪かった」

 私たちは美術館を出た。駐車場の周りに咲いていた爽やかな水色の紫陽花の前を通ると、そこからミツバチが飛び出してきて葵を驚かせた。驚いた拍子に電柱に後頭部をぶつけた彼はしばしその場に蹲った。その慌てふためいた表情が可笑しくてつい笑い声を漏らしてしまうと、つられて頭をさすりながら葵も笑った。

 どちらも話し出しづらい雰囲気ではあったが、ミツバチのおかげでようやく朗らかな空気が流れ出した。

「大丈夫?」

「うん。てか梓は虫、平気なの?」

「いや? 私の方は見向きもせず葵の方に飛んでいったから」

「くそっ、なんだよもう。ビビらせやがって」

「葵のことがタイプだったんでしょ」

「蜂にモテても嬉しくないわ!」

 そう笑いあって車に乗り込んだ。それからしばらく高速道路を走って海沿いにある公園と併設された大きな水族館に向かった。その水族館は葵にとって梓と初デートをした思い出の場所であるということだった。


 水族館の敷地に隣接した駐車場はなく、海を挟んで手前の駐車場で降ろされ、長い橋を歩いて入場した。

 大きな建物がいくつか点在し、その周りはテーマパークの中のような自由に往来できる公園になっていた。家族連れが多いようで、たくさんの子供が一緒に遊んでいる。子供にとっては魚を見るよりかくれんぼをする方が楽しいのだろうか。

 私たちは入場料を買い、手前の建物から入っていって色んな水槽を見て回った。

 椿としての記憶でもこの水族館は何度か来た覚えがある。最後にここに来たのは中学生だったと思うが、父とドライブがてら二人で遊びに来たのが最後だ。建物の雰囲気もお土産屋やフードコートもそのころからたいして変わっておらず、凸凹になったタイルや汚れが目立つ水槽など、大人になってから見返すとよくないところばかり目について、古くなってしまったんだなという印象を持った。

 それでもたくさんの子供がいた。確かにこの辺りにこれだけ敷地が広くてゆっくり見て回れる水族館は他になかったため、親子にとって外で遊びながら水族館を楽しめるこの空間は嬉しいものなんだろうなと思った。

「ここを初デートに選んだのは葵?」

「そう。デートと言えば水族館かなって」

「これだけにぎやかだとあんまりデート向きな感じはしないけど」

「その時以来ここに来てなかったけど、こんなに騒がしかったかな。あんまり覚えてないや」

「初デートに緊張して周りを見る余裕がなかったんじゃないの?」

「マジで反論できないからあんまり言わないで。俺、その時どのタイミングで手を繋げばいいんだろうってことしか考えてなかったから」

 そう言って照れ笑いして思い出に浸るわりには、私の葵の間には人1人分入れる距離があった。

 そういえば結婚した夫婦はこういう時でも手を繋ぐものなのだろうか。母と父が手を繋いでいるところなんて見たことがない。いや、子供がいる夫婦とそうではない夫婦を比べるのはまた別か。

 葵にとっては何気ない発言だったのかもしれないが、私はなんとなくそれを意識してしまっていた。

 左隣に並んで歩く彼は、右手にパンフレットを握って地図を見ていた。

 私は意を決して彼の右腕に手を回した。柔らかい上腕二頭筋がビクッと硬くなる。

「次どこに行くの?」

 私はあくまで自然を装ってそう質問した。

 耳にかけていた髪が横に垂れてしまったが、それを私は直したくない。きっと今、私の耳は赤くなっているに違いないから。

「このタワーに行こうと思う」

 少し上擦った声で葵は言った。地図に正確に指さす左手と違い、パンフレットを持つ右手は少し震えていた。

 葵もそんな初心な反応をしないでよ。梓にこうされたことあったでしょ?

 私はそんなことを思いながら、腕組みの仕方ってこれであってるのかという疑問を抱きつつ、石のように腕を固めたまま目的地に向かった。

 そのタワーはアトラクション的な側面を持っていて、地上から回転しながら上昇していく展望台だった。真ん中に大きな柱があり、それを囲むように椅子が外側に向けて配置されている。時間帯によってはカップルだけで乗ることもできるみたいだが、私たちは他の乗客と一緒に並んで椅子に座った。

 中はただ座るために移動するだけのスペースしかなく、葵と並んで腰を下ろすとすぐに入り口の扉が閉められた。

 ゆっくり回りながら上昇していく。手前の木々から水族館、釣り堀、イルカショーをしている建物とだんだんと視界が広くなっていき、街並みや水平線を見ることができた。

 葵と街を眺めながらあそこがどうだと話していると、私の隣の席の5歳くらいの少年がスマホを両手で持ってゲームをし始めた。ただゲームをする分には気にもしなかったが、少年はイヤホンをせず音を出してパズルゲームを楽しんでいる。これだけ幼い子なら隣に親がいるだろうと、少年の隣を見たが、そこにいるのは年老いた女が二人並んで座っており、その二人は井戸端会議に夢中でゲームの音を気にしていないようだった。少年の隣の女は背を向けて話し込んでいるし、親子のようには見えない雰囲気があった。

 となると、この少年は一人でこのタワーに乗ってしまったのだろうか。

 スタッフもこんな幼子を一人で乗せてしまうなんて気が緩んでいたのかどうなのか、と私は溜め息をついたが、少年は一向にゲームを止める気配がない。

「ねぇ、僕。ここで音を出したらダメだよ?」

 少年は画面から目を話して無垢な表情で私を見つめた。

「なんで? みんなお喋りしてるよ?」

「ゲームの音は気になる人もいるの。電車やバスでゲームをする時はどうしてる?」

「イヤホンしてる」

「じゃあそれと同じだね。周りの人のことも気にしないと」

「えー。でもこれつまんない」

 やはりそうか。この乗り物が面白いと見込んで乗ったはいいものの、途中で飽きてしまったんだなと推察した。

 しかしこの様子だとまだゲームを続けそうだ。

 私は少年とその景観についてお喋りをすることにした。

 葵から教えてもらった知識を借りて、一緒に指を指しながら語り合った。知っている建物はあるかとか、どこからどうやって来たのとか、海を一直線に進むフェリーはどこに向かっていると思うか、など。

 少年は手を止めて私と一緒にお喋りと楽しんでくれた。その間葵のことはそっちのけになってしまったが、愛らしい反応をする少年の反応がつい面白くて、地上に降りてくるまでつい話し込んでしまった。

「お母さんのいる場所、分かる?」

「うん! ありがとう! お姉さん、バイバイ!」

 外に出ると少年は携帯をズボンのポケットにしまって、走ってどこかに行ってしまった。

 私は見えなくなるまで微笑ましい気持ちで少年に手を振っていたが、ふと我に返った。

 振り返ると葵がむすっとした表情で私を見ていた。

「あ、ごめん。一人でつまんなそうにしてたから」

「いや、別に怒ってないよ。ただ……」

「『ただ』?」

「梓はやっぱり子供が好きなんだなと思って」

 あー、そういう見方で私を見ていたのか。

 梓もそうだが椿としての私も子供のことは嫌いじゃなかった。電車の中で赤ん坊がわんわん泣いていても「いっぱい泣いて大きくなれ」と思うたちで、自分の見える世界を無我夢中で生きているんだと心の底から応援したくなるタイプだった。

 しかしさっき子供のことで険悪になりかけたばかりだ。私も多少は言葉を選ぶ必要がある。

「ああいう子、私ほっとけない人間なの。もしかして子ども相手に嫉妬した?」

「馬鹿言え。ほら、次行こ」

 そう言って葵は手を差し伸べた。あまりに自然に手を出したので、考える間もなくその手を握った。

「大体もう回り終わったんじゃない?」

「お土産とか買わなくていいの?」

「あー、じゃあお母さんに買って帰ろうかな。笑われそうだけど、一応梅香にも」

「じゃあ、そうしよ」

 そう言って葵は私の手を引いて歩いた。美術館では短い間だけ手を繋いだが、そこから売店まで少し歩くし、周りの目も多く感じたため、私は少し緊張していた。

 さっき腕を組んだだけであんなに初心な反応をしたのに、手を繋ぐことには抵抗がないのかな、と思ったが、安心した。葵の手が冷えて少し汗ばんできた。彼も多少意識しているのなら、私に対する思いは初デートの時からそんなに変わっていないようだった。

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