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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
最終章 「梓と葵と楓と椿」
20/24

3話 「私があなたを『夫』にしている」

 デートの日が来た。

 私は昨晩葵が風呂に入っている隙に家を出て、駐車場に行き、葵の車のトランクを開け、トランク下の収納に望遠鏡とプレゼント用に買っておいた香水を隠した。

 今日も早めに起きて、駐車場に向かう。せっかく車移動でデートするなら、その車がきれいじゃないと格好がつかない。

 葵が乗っている白いSUVは汚いというほどでもなかったが、多少煤を被って水垢もできていたため、中性洗剤などと使って念入りに汚れを落とした。

 今日は予報通り快晴で、薄い雲も少なく、細切れの密度がありそうな小さな雲がぽつぽつと浮かんでいた。いよいよ夏が近いようだ。

 30分ほどかけて念入りに汚れを落とし、ルーフから水で流してボディーに浮かんだ水滴を布巾で拭きとると、その青空がそのまま映されていた。

 ボディーがきれいになると、今度はタイヤホイールが気になる。

 デザインが細かいホイールだったため、小さなブラシが必要だった。

 私は部屋に戻って洗面台下の棚を開き、古くなって毛先がダメになってしまった歯ブラシを手にした。

 ちょうどその時、葵が脱衣所の扉を開けた。

「おはよう」

「おはよ」

 髪の毛が鶏のとさかのような寝癖になっている。

「朝から元気だね。何してるの?」

「洗車してる。今日車使うでしょ?」

「えー、ごめん。汚かっただろ? 1か月くらい洗車してなかったからな」

「うんうん。思ったよりきれいだった。あとちょっとタイヤを磨くだけ」

「手伝えることある?」

 最近、葵は家事以外でもこうやって私がすることを手伝ってくれようとする。

 洗濯ネットごときでうだうだ文句を並べていたあの頃の彼の姿はもう見る影もなくなっていた。

「うーん、大丈夫だけど、洗剤使って洗ったから、どっか行く前にガソスタに寄ってワックスをかけた方がいいかも」

「わかった。ありがとう」

 私は再び駐車場に行って洗車を完璧に仕上げ、部屋に戻って使った洗剤などを片付けた。

 支度を済ませ、10時前に家を出る。

 葵はピカピカになった自分の車を見て感謝を述べた後、「流石、プロだね」と言った。

 私ができる洗車なんて普通の人からすれば多少面倒なくらいで誰でも同じようにできるものではあったが、そう言われると悪い気はしなかった。

 駐車場を出て大通りに入ってすぐの有人のガソリンスタンドで給油をし、ワックス洗車を頼んだ。

 支払いを終えて、葵がエンジンをかける。

「ありがとうございました! お気をつけて!」

 気持ちのいいスタッフの声が聞こえる。

 ガソリンスタンドの屋根がコンクリートの地面に落とした影は、その境界線がぼんやり滲んでいたが、白いSUVがそこをくぐる時はくっきりとした線を見せて、私たちを街の方へ送り出してくれた。


 葵が連れていきたいと言った場所は、かねてより彼が仕事で建て替え事業に協力していた美術館だった。

 住宅街の中の丘陵とも呼べない小高い場所に、木々で囲まれてまるで隠れ家のように佇んでいた。

 どうやら裏口から入ってきたようで、正面には円形の小さな池や、色彩豊かな花壇があった。

 レンガ造りの古風な建物で、装飾は少なく、木製の屋根はカントリーハウスのようなノスタルジックを感じさせた。

 葵の会社が提供した部分はどこだろうと目で探したが、外観からは特別目立つほど大きなガラス窓はなく、切子のような細工がされているものは見当たらなかった。

 葵にそのことに尋ねるとどうやら建物の中に中庭があるようで、その中庭を囲う窓に一部細工がされていたり、建物内の照明のランプシェードを加工していたりしているようだった。また美術館とは別で建物内にレストランがあるようで、その食器用にも彼の会社から提供された物が使われているそうだ。

 元々陶器などの展示物が多かった美術館らしく、今回はさらに企画展としてガラス細工の美術品が展示されることになっていた。そのコレクションは彼が色んな所へ声をかけて借用を手伝ったものが多いそうで、彼がこの美術館で一番見せたかったのはこの企画展の方だという。

 建物の中に入るとエントランスホールになっていて、大理石の白い床に反射して大きなシャンデリアが見えた。見上げると、複雑に光を屈折しているシャンデリアがあって、そのランプシェードは赤や青、緑や黄色など、様々な色がうっすら光の色に溶けていた。

 ロビーから伸びる廊下の壁には等間隔で照明が設置されていて、それも同じようにカラフルな色彩を纏っており、少し進むと大きなガラス越しに日本庭園らしい中庭が見えた。建物前の景色とはずいぶん違うが、どうやらこの美術館のコンセプトは「新しい時代の和洋折衷」らしい。確かに昔ながらのコケや松などを植えられたわびさびを感じる庭園というよりは、砂の代わりに黒い御影石が扱われていて、すっきりと洗練された感じになっていた。室内の白い床と黒い中庭とのコントラストは素晴らしく、それをところどころカラフルに彩る色被せガラスの照明たちが美術館としての品格を支えていた。わざわざ海外の有名な建築家が手掛けただけはある。日本人にはない「和」の使い方だ。

 葵にシャンデリアや照明、中庭を囲う窓ガラスの上下の端にわずかにデザインされた装飾について尋ねると、やはりそれらは葵の会社の工房で手掛けたものらしく、鼻を高くして発注までに至る苦労話を聞かされた。

 中庭の一周するように廊下を歩いて、葵の解説を聞くと、エントランスホールに戻って、階段を上り、2階の企画展のルームに足を運んだ。

 企画展は『奇跡のガラス展 ―光と歴史が交差する奇跡の世界へ―』と銘打ってポスターが掲げられていた。どうやらガラスに関わる国内外の伝統工芸や芸術作品を集め、ガラスがもたらした美の歴史を辿ることがコンセプトのようだ。

 このコンセプトを提案したのは実は葵かららしく、てっきり江戸切子しか目がないのかと思っていたが、彼は「ガラス」という素材そのものに魅力を感じているようで、学生時代は世界を飛び回って、色んなガラスの工芸品を見て回ったらしい。

「砂と火によってこんな美しい芸術品が生まれるんだ。感慨深くないか?」

 企画展の最初のコーナーは「古代の奇跡」というテーマだった。ローマングラスやイスラムガラス、ヴェネツィアングラスなど、ガラス細工の起源とも言える作品の数々に、葵は目を輝かせながらそう言った。

「葵も作ろうと思えば作れるの?」

「レプリカならね。ちなみに言っておくと、いつも家で使ってるあのグラスも厳密にはレプリカみたいなもんだから」

「そうなの?」

「そうに決まってるだろ? ガラスに傷をつけてデザインを施すんだ。刃が通るくらい脆い素材じゃなきゃこういったものはできない」

「食洗器で洗っちゃってるけどあれヤバい?」

「あれはウチの工房で作った鉛を抜いたソーダガラスを素材にしているやつだから問題ない」

「へぇー。でも葵が作ってるのって機械だけじゃなく職人さんが手で彫ってるところもあるんでしょ? 自社の製品をレプリカとまで卑下してるように聞こえるけど」

「実際周りからよく言われるし、俺もその指摘はあながち間違ってないと思ってる」

「えー。でもあんなにきれいなのに」

 そう私が言うと、葵は私の左手を握って引っ張った。

「なら、本物の切子を見せてあげる。見たら違いが分かるって」

 そう言われて手を引っ張られるまま「伝統と革新」という次のテーマの部屋に進んだ。

 そこは主に日本のガラス細工を取り扱っていた。江戸切子に薩摩切子、琉球切子といったものまである。

 私は一目見て驚いた。

 そこに並べられた本物の切子たちは、家で普段使いしていたものとは比べ物にならないくらい、全面的に細かく削られていたのだ。

 特に江戸切子は色が淡い気がする。照明のせいなのか、その細かいデザインのせいなのか、より透明感が強い作品が多い感じがした。

「日本で有名なのはこの江戸切子と薩摩切子。違いが分かる?」

 そう言って葵は私を二つのグラスが並べられたショーケースの前に立たせた。どちらも菊繋ぎでシャープにデザインされたもので、同じ青の色被せガラスであるため一見同じように見えたが、雰囲気は確かに違った。

「うーん、江戸切子の方が発色がクリアな感じがする。薩摩切子は重厚な感じ」

「そう。よくカットされたところを見て」

 そう言われて私はケースに顔を近づけた。

「あ、江戸切子は表面にだけ色がついてるけど、薩摩切子は断面がグラデーションになってる!」

「おー、いい着眼点。ほぼその通り」

 それから葵は生き生きとこの二つの切子の歴史を語ってくれた。

 実際にこれらの切子は家で使っている物よりもデザインが細かかったり、発色の質が違ったりと質的な面ではるかに凌駕する品々ではあったが、葵の言い方だと自社の製品と比べる考えは一切なく、純粋にこの職人芸にリスペクトを持って語っているようだった。

 すると少し疑問が残る。

 こんなにガラスが好きなのに、なぜ自分の手で作らず、機械に頼ってしまっているのか。

 私はこのことについて遠回しに訊いた。

 葵は目線を外して、その瞳に切子の光を映した。

「俺は中学の修学旅行で鹿児島に行った時に、この薩摩切子と出会った。薩摩切子っていうのはロストテクノロジーと言われることがあって、西南戦争をきっかけに伝承が途絶えてしまったんだ。今現存するものはわずかしかなく、高いものだとグラス一つで100万は優に超える」

「これ、そんなにするんだ」

「そんな高級品がね、お土産屋に売られてたんだ」

「え? 観光地とかによくある?」

「そ。普通のお菓子とかが売ってあるお土産屋に」

「それこそレプリカなんじゃないの?」

「うん、間違いなくそうだった。というか薩摩切子ですらなかった。薩摩切子といえば江戸切子にはないこの独特な色の滲み。それが一切無いんだ。どちらかと言えば、江戸切子のレプリカとして売ってくれた方が納得できる」

「うわー、それはひどいね」

「しかもそれをベタベタと直に手に取って見比べてから買い物かごに入れる客が何人もいたんだ。俺はその光景がショックで仕方なかった。それまで未熟ながらも江戸切子に人生を捧げているつもりではあった。だけど、どれだけ凝った作品を作ろうが、彼ら彼女らが求めるのは『きれいなコップ』なんだ。本質が分かっていなくても見た目がきれいならなんでもいい。その瞬間俺はナイフを持つのが馬鹿々々しく感じてしまった」

 しばらく葵が今に至るまでの話になった。

 葵は実は幼いころからラジオを聞くことが趣味で、放送作家になりたいという夢があったそうだ。しかし親の手伝いをしていくうちに、一人っ子である彼は江戸切子の伝統を受け継ぐ立場を期待をされるようになってしまっていた。葵は手先が不器用で、中々技巧的なカッティング技術を身に付けることができず、何度も何度も父に説教をされたらしい。作業中はずっとラジオをかけて、就寝前に手書きで何通もお便りを書くのが日課であったが、父からは「切手代にそんなにお金をかける奴はどうかしてる」と何度も改心を迫られ、ついには作業中にラジオを聞くことすら禁止される事態にまでなってしまった。それからは父に見つからないようにこっそりラジオを聞くようになり、葵は切手を買っても別のものを買ったと嘘をつく日々を送っていた。

 そうした厳しい修行の結果、中学生になった葵はついに放送作家になる夢を諦めて、切子職人として生きていく覚悟を決めた。そのころになるとある程度デザインから仕上げまで一通り一人でできるようになったが、そんな中で、葵は修学旅行先で偽の薩摩切子を嬉々として購入している光景を目の当たりにしたのだ。

 そのショックは計り知れないものだっただろう。

 葵はこれまでの人生を全て否定されたような気がして、いつしかあの粗悪品を売ったメーカーのように金儲けをするため手段としてこれまでの人生を活かしたいなと思うようになってしまった。

 分かりやすく言うと、グレてしまったのだ。

 高校生になってノートパソコンを買ってもらうと、早速それをうまく活用する道を選んだ。SNSを通じて世界中から江戸切子を製造することに興味がある人間を呼びかけ、学生を中心にそういった人たちを多く日本に集めて、山岸一族が使わなくなった屋敷に住まわせ、新しいブランドとして今の会社を起業した。葵が学生時代、頻繁に海外へ旅に出たのも、半分はその国のガラスを扱った文化に触れその技術を参考にしたい考えと、もう半分は江戸切子に興味を示す若い人間がいないかと探す思惑があったからなのだ。

 その中で絵をかくことが好きな芸術肌のネパール人の若い女がいた。センスと情熱があると見込んで葵が毎日付きっきりで手解きをしたため、たった1か月足らずでこれまで葵が作った作品よりも高品質の切子細工を作れるようになった。

 葵はやはり自分には才能がなかったのだと確信するようになり、江戸切子を「作る」側から「プロデュースする」側へ立ち回りを変えることにし、その売り出し方が着々とシェアを広げて、業界屈指のブランド会社にまで成長させることができたのだ。

「親父や親父の考え方に近い連中からはいつも憎まれ口を聞かされる。親父に関しては今や俺を『葵』で呼ぶより『親不孝者』と呼ぶことの方が多いくらいだ」

「後悔してるの?」

「まさか」

 肩をすくめてそう言う彼の表情は憑き物が落ちたかのようにすっきりしてた。

「俺は自分自身で新しい活路を見出したことで、父と俺だけしかいなかった狭い視野から、色んな人と出会い色んなことを学ぶことができるようになった。そしていつラジオを聞いても怒られることがない強い『男』になった。ビジネスが俺を『男』にしたんだ」

「そして私があなたを『夫』にしている」

「そうだね。まあ、ラジオはもう随分聞かなくなってしまったが、今は切手を買わなくても反応してくれる相手がいるから、それで十分だ」

「それは褒めてるの?」

「褒めてる。友達がいなかった小学生の俺にとって、ラジオは恋人よりも尊い存在だったんだから」

 そんな会話をしながら、展示案内の順路通り企画展を鑑賞していった。

 常設展示も一通り見終わって、その建物内に併設されたレストランで昼食を取ることにした。

 席について注文した日替わりのランチプレートを待つ。

 今なら私はあのことについて訊けるチャンスだと感じた。

 葵がなぜ子供を欲しがらないのか、頭の中で整理がついてきたからだ。

 食べるものが不味くならないように、私はランチプレートを食べきるまでその話題を振ることを我慢した。

 最後の一口を頬張って、アイスティーを口にする。

 私はいよいよ、あのことについて葵に訊くことにした。

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