1話 「お前の名前は梓」
長い夢を見ていた。
ある女が何らかの苦悩を抱え、闇の中を彷徨っている。
その女がおそらく私で、右手に持っていた酒瓶は3分の1ほど残っており、私はそれを口にしながら、点滅する外灯がある方へ、足を運んだ。
外灯に近づくと川のせせらぎと虫の知らせが聞こえてきた。点滅していると思っていたが実はそうではなく、小さな白い虫が大量に光を周回して飛んでいるのが分かった。
その光景はまるで寒い雪の中にいるようで、生暖かい風が肌を滑ると違和感さえ覚えるくらいだった。
私は光が届かない限界のところまで近づき、その幻想的な光景に心を奪われていると、一匹の虫がよろめきながら落ちてきて、私の腕にピタッと止まり羽を休めた。透き通った薄い羽に、胸のあたりまで詰まった黄色い卵を抱えている。
生き物に詳しいわけではなかったが、その虫の名前を私は唐突に思い出した。
国語の教科書で登場していた気がする。きっと「カゲロウ」という虫に違いない。
そうして雪のように白い体の中にある黒い一点、闇を映すかのような小さな瞳を覗いていると、だんだんと外灯の光が強くなっているのに気付いた。
本来ならまぶしくて見続けることができないはずなのに、なぜかずっと見ていられる。
カゲロウの影や形が光の中で輪郭線を失い、どんどんぼやけていって、ついにただの点でしかなくなり、その点すら見えなくなってくる。
私の視界がすべて真っ白な光に包まれた時、私は長い眠りから目を覚ました。
静まり返った病室。ぴとっぴとっと水滴が落ちている音。カーテンからこぼれる暖かい光と、ぬるい湿った微風。
体を起こそうとすると点滴が私の左腕につながれていることに気づき、また吸引器が口に当てられていることが分かった。
起きるのが面倒になって再び後頭部を枕にうずめ、ぼーっと天井を眺める。
幾何学的に配置された模様は何の面白みもなく、見続ける価値があるものではなかったが、なにげなく右腕を上げて、一つ一つの小さな模様を摘まむように人差し指と親指でその大きさを計った。
その時、病室の入り口から誰かの足音が勢いを強めて近づいくるのが分かった。
重たい首をその方向へ動かす。
スーツを着た高身長の男が、切なげな顔で私を見ていた。
「起きたのか」
声が震えている。間違いなく私に向けられた言葉だ。
「……はい」
これだけの返事をするだけなのに、喉がひどく痛くてうまく声にならず、吸引器の中を曇らせる程度の返事しかできなかった。
「よかった。よかったよ、ほんとに!」
そう言いながら男は私の左手を両手で握った。指も長く大きな手ですっぽりと私の手が完全に隠れるくらい収まってしまった。彼の左手の薬指には銀の指輪が煌々と光っている。
私はちゃんと声を上げようと何度か咳払いをした。私が体を起こそうとすると、「大丈夫か」と声をかけてくれ、この男が私にとって親しい存在であることをなんとなく感じ取った。
だが不思議だ。
体を起こして、ちゃんと彼の顔を見つめる。
丁寧に整えられた太めの眉に、くっきりと線を引いたかのような二重。女のように長いまつげの下に隠れる黒い大きな瞳は、なぜだか吸い込まれそうな魔力を持っていた。
きっと、私にとってかなり大切な存在だ。
しかし、私は確信が持てなかったし、何よりも思い出せなかった。
吸引器を外して、彼に問う。
「ありがとう。だけど……、あなたは誰ですか?」
そう訊くと、彼は豆鉄砲を喰らったかのようにその美しい大きな目を見開いた。
「冗談だよな?」
「いえ、そうではなく。……ごめんなさい」
「…………」
沈黙が訪れた。
握られた右手の圧力が弱まる中で、ほのかに手汗がにじみ出てきそうな感覚があって、現に一滴の汗が私の背骨をなぞるように一筋の線を引いてこぼれ落ちた。
彼は手をゆっくりと離し、携帯を操作して恐る恐るその画面を見せた。
そこにはどこかで見たことがある女が映っている。ベッドの中で患者衣を着て、青白く疲れた顔をした女が。
その画面はカメラアプリの画面で、おそらく反転させてカメラを起動していた。
つまりそこに映っている女は私なのだ。
「自分の名前、分かる?」
さっきとはまた違った切なげな表情と震えた声で私に問いかけた。
私はその言葉に激しい心臓の鼓動の高まりを感じた。
いや、知らないはずはない。自分のことなのだから。
しかし、言葉が出なかった。きっと喉の痛みが原因ではない。
「分からない」
絞り切った5文字の言葉を発すると、その現実を受け入れたくなくて、思わず目線を外した。
彼も一度目線を落とし、今度は真剣な表情になって私を見つめる。
私の視線が彼の元に戻るのを待っている。
そう感じて、彼の瞳をもう一度覗き込んだ。
彼のぎゅっと横に結ばれた薄い唇が動き出す。
「お前の名前は梓。山岸梓」
その音の羅列はとても聞き心地がよく、すっと私の耳の中に入ってきた。
彼は言葉を続ける。
「そして俺は山岸葵。お前の夫だ」
そう言って彼は私を強く抱き寄せたのであった。