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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
最終章 「梓と葵と楓と椿」
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2話 「ただいま」

 私は「梓」として生きる道を選んだ。

 この地に再び生み落とされた「使命」が何かを掴みかけていたからだ。

 葵が私に初めて料理を振舞ってくれたあの日、葵は今度連れていきたいところがあると言った。

 私が「デート?」と茶化すと、葵は「そうだよ」と今度は照れ笑いをすることなく真面目に返答した。

 どうもその日は私の体調がすぐれないのもあってか、会話の主導権が葵に握られっぱなしな感じがして、先にベッドに入っても心が落ち着かず、寝付くのに時間がかかってしまった。

 あの梓との思い出を元に、私の記憶を取り戻させてくれたカゲロウの夢は、あれからほとんど見ることがなかった。

 そもそも夢を見ることがなく、意識が途切れると、朝が来る。

 そんな日々が続いていた。

 デートの日は次の週の土曜日になった。私はその前日に、梅香と会う約束をした。場所はもちろん、あのクロワッサンがおいしいレストランだ。

 梅香とは梓の友達だったこともあって、よくしてもらった記憶がある。

 向こう見ずで一直線にひた走る梓とは違って、高校時代から大人の余裕がある面倒見のいいお姉さんだと認識していた。

 付き合いの長さもあるが、おそらく葵よりも梓のことをよく知っている。この間あった時のことも振り返れば、梓としての私の異変にすぐ気づいていた。確か口調と食べている物などで違和感を持たせてしまっていた。たとえ梓の親友であっても記憶が戻っていることは伝えていないため、無理に梓を演じる必要はないが、椿としての記憶がうっかり漏れ出てしまわないよう細心の注意を払わなければならなかった。

「今日はチョコにしたんだ」

「ココアもつけてね。最近調子悪かったから甘いものが恋しくて」

「こんな暑い時期にホットココアを飲むのはあーちゃんくらいだよ」

 本格的に梅雨が始まり昨日まで雨がちな天気だったが、この辺りの天気は今日から2,3日ほど晴れの日が続くようだった。

 そういうわけで、今日は夏らしい蒸し暑さだったため、確かにこんな時期にホットココアを飲むのは変だったのかもしれない。ただ私は梓ほど甘いものが好きというわけではなかったため、飲むことができる甘いものは限られていた。

「葵とデートすることになった」

「今更? 夫婦でしょ?」

「それもそうか」

 こうやって梓として彼女と接していると、やはり同世代の人同士でしか見せない表情があるなと思った。私の知っている梅香ではない。あくまで梓として私と話している。

 うまく誤魔化せているのはいいが、そう考えると私のことを本当の意味で理解してくれる人はこの世にいないということでもあった。

 ただこれは「使命」のため。孤独の戦いではなくて、私はバトンを受け取っただけに過ぎない。

 梅香とは毎日のようにメッセージアプリや電話でやり取りはしていたが、細かい部分は伝えられていなかったし、何よりも昨日の葵の看病について話しておきたかった。

「それってさ、葵くん、今のあーちゃんに惚れ直したんじゃない?」

「そうかも」

 梅香は続けて何かを言おうとしたが、口をつぐんだ。

 私が「どうしたの」と訊くと、梅香は私の機嫌を窺うようにどこかで聞いた言葉を口にした。

「葵くんのこと少しは好きになれそう?」

 昨日の葵とした会話を一言一句そのまま伝えたため、私の心情にも変化があったと思ったのかもしれない。

 しかし、実際その通りだ。私も葵との向き合い方を変える決心をした。

 「再教育プロジェクト」は私からのアプローチも含めて完結する。私はその思いを話すことにした。

「葵のことを心の底から好きになれるかは分からない。でも、最近は葵のいいところばかり目に付くようになってきた。昨日も葵のくせにちょっとドキッとさせられたし、それに……」

「それに?」

 言葉にするのが怖い。自分が自分でなくなっていくような気がする。

 とはいえ私は梓なのだ。

 これはきっと課された使命。梓の願いを叶えられるのは私しかいないのだ。

「子供が欲しいと思うようになってきた」

 梅香は目を丸くして言葉を失った。見るからに狼狽えて、次の言葉を頭の中で探している。

「どうしたの、急に?」

「可笑しいかもしれないけど、今しかないと思った。今が一番葵との距離が近い。このタイミングを逃すと今後一生子供を授かることができない気がして」

 もちろんこれは建前だ。よくもまあ、心にないことを口にできる。私は使命を果たすために、この選択をしたのだ。

「それ、明日言うの?」

「うん」

「でも、きついんじゃない?」

「何が?」

「まだ『好き』とは言い切れないんでしょ? 精神的にどうかなって」

「大丈夫。私は意外と強いから」

 そう言うと梅香は突然血相を変えて、テーブルを両手で叩いた。

「本当に強いなら、自殺を考えたりしない! あーちゃんはなんでそう極端なの?」

 初めて梅香が怒っている姿を見た。ただ、私を責めているのではない。心配してくれているからこそ、怒ってくれるのだ。

「ごめんね。もう決めたの。記憶障害は残ったけど、本当はこの体は死んでいても可笑しくなかったと医者に言われた。だからもう命を軽んじたりしない」

「…………」

「今度は私が命をつなぐ番だ」

 梅香の表情がゆがむ。

 なんて優しいんだ。今にも泣きそうだ。

「ありがとう、心配してくれて。梅香を泣かせるようなことはしないと誓うよ」

 あくまで「梓」としてね。

 梅香はその言葉を聞くと、目頭を押さえながら少し笑ってくれた。

「今なら葵くんが惚れ直したのも分かるかも。今のあーちゃんはイケメン過ぎる」

「私が男だったら付き合ってくれた?」

「もちろん。翔くんなんて目じゃない」

「ふふ、かわいそ」

「ホントにね」

 和やかな空気に戻った。

 私たちはその後もデートの対策をしながら、子供を欲しがらない葵をどう攻略していくか話し合った。

 姉の友達と恋愛話をするのは少し変な感じがしたが、甘いチョコとホットココアの組み合わせが私たちの会話をより弾ませてくれた。


 お茶会が終わり、私は梅香の車に乗せてもらってあるところへ向かった。

 母の家だ。実家は無くなってしまったため、今母が住んでいる場所は親戚の使わなくなった古い戸建ての家を借りているらしい。

 梅香と話し合った結果、日中葵とのデートが終わった後、天体観測をするという流れがいいという結論になった。

 梓が子供のころから好きだったことを葵と共通したことはないだろうし、何より周りを気にせず二人だけのロマンチックな空間を演出できる点もデートの締めには最適だと思ったのだ。

 そのため私は母の家に置いてある望遠鏡を取りに来た。梅香の話だと、いつも庭の倉庫に仕舞っていて使えていないとかつての梓は愚痴をこぼしていたらしい。幸い、一度梓の望遠鏡は使ったことがあるため、扱いに関しては自信があった。私の星座の知識は四季ごとの大三角や四辺形を知っているくらいでしかないが、まあ、それだけ覚えていれば十分だろう。そういえば、今は6月の中旬に差し掛かるころ。夜空に見えるのは春の大三角なのか、それとも夏の大三角なのか、私はその答えを知らなかった。

 母の家に着くと、門の先に白い軽自動車が泊まっていた。

 帰りはバスと電車を乗り継いで帰れそうだったため、梅香とはここで別れた。

 インターホンを鳴らす。

「はい。どちら様ですか?」

 懐かしい。母の声だ。私が死んでからそう経っていないはずなのに、その声には少し年を取った印象を持った。

「梓だよ。望遠鏡を取りに来た」

「まあ! 少し待っていて!」

 実の母に姉だと嘘をつくのは心が痛い。

 2階建ての縦長な家はかなり年季が入っていて、見るからに木造の作りだった。玄関から門まで5メートルくらいしか離れていなかったが、家の中から床をドタドタと走る足音が聞こえた。

 玄関の戸が開く。

「おかえり」

「ただいま」

 母の姿があった。少し白髪が増えただろうか。目じりのしわも濃くなっているように感じる。

 母は門の鍵を開けてくれたが、どうやら合鍵を私は持っていたらしい。私がそのことを知らなかったため、まだ記憶喪失だということを言わずとも分かってくれている様子だった。

 母は家に上がっていったため、私は初めてその家に足を踏み入れた。もしかしたら戦後、いやそれ以上前の時代まで遡るのだろうか、趣のある漆塗りの柱に支えられていて、床は場所によっては軋むところがあるくらい年数の経っている家だった。

 畳の客間に案内された。家の中央を通る廊下とは別に畳のと縁側のあいだにも廊下が分かれていて、その奥の部屋は日本画風に椿の花がデザインされた暖簾で隠されていた。家の中で飾る暖簾にしては珍しく、丈が床まで届いていて、完全に部屋の中を外から見えなくしている状態だった。

 母がお茶を入れにキッチンに行った隙に、私はその部屋が気になって吸い込まれるように入っていった。

 その部屋は縦長で3畳ほどしかなく、入り口付近は座布団や段ボールなどが置かれていて物置として使われているようだった。電気は付けなくても大きな窓がありレースカーテン越しに光が入ってきているため、暗くはなかった。物が多い入り口の反対側には、仏壇だけが一つ立っており、その前に座布団が一つある以外は何も物が置かれていなかった。

 その中心にかつての私、椿と父の茂の写真がある。私は線香立ての横に置かれていたライターを手に取って、線香に火をつけ、座布団に座り手を合わせた。

 私は心の中で父に謝った。

 梓の忠告を無視してあなたを助けようとし、結局死んでしまったこと。今、梓の肉体を借りていながら魂は椿であることを周りに隠していること。そして死ぬにしても、あなたの居場所まで到達することができなかったこと。

 私は目を開けて父の顔写真を見た。笑顔の父がそこにはいる。

「今度こそ待ってて。私は使命を果たすから」

 私がそう呟くと、後ろで床が軋む音がした。

 振り返ると暖簾から母が顔を出していた。

「……二人を覚えているの?」

「……ごめんなさい」

 この嘘は今までついてきた嘘の中でも最も心が痛かった。

「あなたの妹とお父さん。火事で亡くなったの」

「友達から聞いたよ。だから線香を上げた」

「ありがとう」

 そう言うと母は目線を私から写真の方に移した。

「よかったね、お父さん、椿。梓が帰ってきてくれたよ」

 そうか。よくよく考えると、梓がもし自殺で本当に命を落としていたら、この一家では母だけが一人生き残ってしまっていた可能性があったのか。

 私が梓の肉体に奇跡的に入り込んで目覚めることができるまで、母はどんな思いで梓の帰りを待っていたのだろうか。

 ごめんね、お母さん。お父さんだけじゃなく、お母さんにも私は謝らないといけない。

 言葉にはできないし、その代わりになるかどうかは分からないけど、絶対、孫の顔を見せてあげるから。

「お茶にしましょ?」

「うん」

 それから私は客間に戻って母と談笑をした。

 母はあと6年で還暦を迎える歳のせいもあって、近頃は関節痛に悩まされているようだった。私のイメージでは母は昔から明るく元気な人で、風邪になったところを見たことがないくらい頑丈な人だったため、そんな悩みを聞かされると、少し悲しい気持ちになった。

 庭に案内され、倉庫の中から例の望遠鏡を取り出してくれた。

 私はそれを受け取って手提げかばんに入れた。

「今度は一人で使わないでね」

「うん。明日、葵と一緒に星を見る」

「よかった。うまくいってるみたいね」

「安心して。今の葵、私にベタ惚れだから」

「うふふ。それはいいこと」

 母はしばし頬を緩ませると、私の両肩を両手で掴んで、じっと私の顔を見つめた。

「今日は久しぶりに椿と話してる気がしたよ」

「えっ」

 まさかの言葉に私は息が詰まった。

「姉妹だから、きっと二人の素の部分は似てるんだろうね」

「そう……かもしれないね」

 親というものは末恐ろしい。子供のこととなると世界の誰よりもよく知っている。入院していた時以来の再会だというのに、私の人格まで言い当てた人はこれまで誰もいなかった。

 その家のすぐ目の前の道路にバス停があるため、私はそれで帰ろうとしたところ、母が私に声をかけてくれて、家まで車で送ってくれることになった。

 改めて感じるのは、梓の周りにはとにかく優しい人が多い。たとえ葵がどれだけ傍若無人な態度で梓を苦しめたとしても、もし彼女がもっと周りに頼ることができたら、こんな事態にはならなかっただろうに。

 その元凶の葵も変わってくれたし、今度は私から彼に歩み寄らなければならない。

 私は家の前に降ろしてもらって母と別れると、一旦荷物を家の中に片付け、再び外に出て、自転車にまたがり、近くのショッピングモールに向けて漕ぎだした。

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