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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
最終章 「梓と葵と楓と椿」
18/24

1話 「これからずっと私の記憶が戻らないってなったら」

 全ての記憶を取り戻した私は、自分が梓の体を借りて意識を取り戻したが故の「使命」があると考えるようになっていた。

 記憶を思い出させてくれたあの夢の中で梓が言っていた言葉。

『一緒にいたらなんでもできるって思える人』

 そういう人だと思って梓が葵を信じて愛し続けていたのなら、葵はまるで詐欺師だ。

 人前ではいい面をして、身内には上下関係を築いて支配しようとする。

 そんな人に『なんでもできる』なんて期待が持てるはずがない。

 そう考えていくうちに、柳との会話も思い出される。

 梓は『子供は欲しくないわけではない』と言っていて、もし子供ができたのであれば、父がしてくれたように『天体観測』をしたいと言っていたそうだ。

 私は長いこと彼氏を作らなかった姉が実は結婚願望がないんじゃないかと勘違いしていて、そこまで踏み込んだことを訊いたことがなかったが、「子供にさせたい」ではなく「子供と一緒にしたい」という言い回しでそのことを挙げたのが、実に梓らしく感じて、『天体観測』という活動に私たち姉妹にとって何か重大な意味があるような気がしてならなかった。

 よくよく考えれば記憶を取り戻したと同時に、自分が死んだことを知り、あの姉に彼氏ができて結婚までしているという驚くべき事実が積み重なって、積み重なって、今に至るんだなと考えさせられる。

 記憶を取り戻した今、私には2つの道があった。

 今のこの体の魂は「藤森椿」であって、「山岸梓」ではない。「椿」という立場から考えれば、葵は姉を死に追いやったモラハラクズ野郎であって赤の他人でしかない。つまり1つ目の道は、「梓」としての生きるのではなく、「椿」として生きる道だ。

 まあ、戸籍上は「梓」であることは変えられないし、姉の体に妹の魂が乗り移っているというというのははたから見ればオカルト現象でしかない。公然と「私の体はもう死んだ妹の魂に置き換えられた」と言えば、周りから痛い目で見られるだろう。もしこの道で生きていくのなら、名は「梓」のていで、しかし精神は「椿」として少しずつ違和感のないように今の生活から脱却していかなければならない。

 そしてもう1つの道は、このまま「梓」として演じて生きていく道だ。

 今まで記憶がない中、梅香と協力してなんとか「再教育プロジェクト」を遂行してきた。それは何よりも私が私自身を「梓」であると信じていたから、元の生活に戻るまでに葵のモラハラ気質を矯正しようと思っていたのだ。

 これまでの活動を受け継いで、私は「梓」を演じていく。それは別の意味では「椿」としての記憶だけではなく、これまでの「梓」の記憶までもを忘却の彼方に閉じ込めて、その事実を棺に入るまで隠し通さなければならなくなるということでもあった。

 なぜなら、私は「梓」ではないからだ。私は「椿」であって、「梓」の記憶は持ち合わせていない。あくまで「梓」の記憶があるのは「椿」から見た視点での記憶でしかないのだ。

 もしこの道を選ぶのであればいっそのこと、私は葵に死ぬまで記憶を取り戻すことができないと言い続ける覚悟をしておいた方がいいだろう。

 葵はクソ野郎だが、梓を愛している。時々見せる寂しげな眼差しは今の私に向けられていない。かつての「梓」に向けられたものだ。

 記憶を取り戻す前、葵との関係が親しい友人に話しているような絶妙な距離感になったと感じたのはおそらくそのせいだ。

 葵が愛しているのは自殺を図る前の「梓」。今の私は彼にとって妻を演じてくれる「友達以上、『梓』未満」でしかない。

 だからといって、私が元の内気な姉を演じれば、きっとモラハラ夫に逆戻りだ。

 私には2つの道がある。

 この2つ道はどちらに進んでも正しいか、正しくないかの選択肢ではない。まさに人生の岐路だ。

 これはもう誰かのためではなく、もちろん「梓」のためでもなく、私が、私自身のためを思って決定しなければならない。

 そこで私は思い出すのだ。

 この生き還りにはきっと「使命」がある。

 神か、世界の理か、それともあのカゲロウか。

 私は「使命」を見定めて、その選択肢を吟味しなければならなかった。


 記憶を取り戻しても私はそのことを葵には打ち明けず、梅香と協力しながら「再教育プロジェクト」と洗車の仕事、もちろん家事に関しては葵に隙を見せないように完璧な女であると演じ続けていた。彼が愛した姿ではないが、記憶を失った妻が、夫のことを思いやってそう言う言動に走っていることを彼も薄々と感じてくれているはずだ。だから私の言葉に不満を示すことはあっても、元の梓の方がよかったと言われることはなかった。

 彼と関わり始めて1か月が過ぎた。その週から梅雨に入ったとニュースで報道されていた。ずっと雨もしくは曇りがちで、太陽の光を拝めることが少なくなっていた。ちょうど私の体が重たい時期と重なってしんどい時期ではあったが、洗車という外仕事は雨が降ってしまえば、できる仕事が限定されてしまう。屋根のあるところで行う洗車作業もあるが、1台しか入らないそこに何人も従業員をかけてもかえって効率が悪くなってしまうらしい。店長に調子がすぐれないことを伝えると、「こういう天気だから休んでくれても大丈夫、むしろ自分の体を労わって」と言ってくれた。

 私の体調がよくなくて仕事も休むということを葵に伝えると、「再教育プロジェクト」の成果もあってか、朝ごはんを食べた後、使った皿を水で流して食洗器に並べて起動させ、衣類をドラム式洗濯機に突っ込んで「乾燥」までメニューを選択してから「スタート」ボタンを押すところまでしてくれた。

 気持ち程度のおにぎりを2つと非常食用に置いておいたインスタントの豚汁をいつもの弁当の包みに入れて葵に渡した。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 こんな何気ない挨拶も自然に交わされるようになっていた。

 それから私はほとんどベッドの上にいた。

 一度起きて、昼食代わりに余分に作ったおにぎりを食べて痛み止めの薬を飲んだが、その後横になると流石に寝すぎたのか、体を起こす力は入らないのに目は完全に覚めていた。

 携帯を手にとってもその画面に映る文字を1文字も読む気になれない。

 私は部屋の電気を消し、仰向けになって無理やりに瞼を閉じ続けた。時々眠りに落ちそうなったが、中々寝付けない。冴えた頭の中では自然と考え事をするようになっていた。

 考え事というのは「使命」についてだ。

 私は何を果たさなければいけないのだろう。

 その言葉と向き合う度に私はカゲロウの夢を思い出していた。

 たった一匹私の腕に止まったあのカゲロウ。

 学校で習った通り、カゲロウの体の皮膚は薄く、黄色い卵が胸のところまで押し込めたかのように詰まっているのが透けて見えた。

 あの姿は私に何かを訴えている。

 そう考えると、手足の先からだんだんと温かくなり、布団の中の熱気がこもって寝汗をかきそうになっていた。

 私もカゲロウと同じ「使命」があるのだろうか。

 その「使命」を果たした先は彼らが迎える運命と同じものなのだろうか。

 つまり私は「生」のために「死」に向かっている……――

 ――目が覚めると、寝室は真っ暗で、ドアの隙間から光が漏れていた。

 時計を見ると『21:46』となっていた。

 私は飛び起きてリビングに向かうと、いい匂いがした。

「おはよ。大丈夫?」

 葵がキッチンに立っている。手にはお玉杓子を握っていて何か鍋の中で煮詰めていた。

「ごめんね、起きれなくて」

 私がこうしてやるべきことができなかったのはこれまで過ごしてきて初めてのことだった。

 まずい、隙を見せたかも。

「うどんなら食べられる?」

「えっ?」

 私は思いがけない言葉に放心していた。鍋の中を覗き込むと、うどんのつゆを作っていたのだ。

「食べ……られるけど」

「なら、ちょうどよかった。今から麵を茹でるところだったんだ」

 葵が調理器具を持つ姿は初めて見た。つゆの入った鍋の火を止め、新しく鍋を棚から取り出して水を入れた。

「私のために作ってくれたの?」

「そうかもしれないし、ただ俺が食べるタイミングで起きただけなのかも」

「嬉しい。ありがとう」

「あんまり舐めるなよ。どうせ何一つ料理を作れないと思ってたんだろ?」

「うん。びっくりした」

「やっぱりな。はあ、悲しいよ、俺は」

 そう言う葵の表情は言葉に反して頬が緩んでいた。

 空いたコンロに鍋をおき、火にかける。どこで習ったのか、水を沸騰させるだけなのに、膝を折って真剣に火加減を見ている様子は、明らかに料理を作り慣れていなくて可笑しかったが、何よりも一人暮らしを経験していない葵にこんなことができるなんて思ってもみなくて、感心するように眺めていた。

「ソファーの方に持っていくから、そっちで待ってて」

 聞いたことがない優しさを超えて慈しみを感じる甘い声でそう言った。

「わかった」

「あと、毛布もベッドから持ってきな。冷えるとよくないよ」

 まるで葵じゃないみたいだ。

 私はいつも使う寝具が汚れるのは嫌だったため、タンスから使っていなさそうなタオルケットを取り出して、ソファーまで持っていって、座った。

 しかし、葵が気になる。

 シャクシャクと小さな音がしたので、私はソファーの背もたれとは反対向きに座って、キッチンの様子を窺った。

 すると、葵は包丁を握って何かを刻んでいるらしかった。

 シャク……シャク、シャク……シャク…シャクシャク

 カウンターが邪魔でよく見えなかったが、一瞬切る手を止めた際に、その動作につられて長ネギの緑色の部分が見えた。

 具なしのかけうどんかと思ったが、思ったよりもちゃんとしてる!

「何?」

 葵が私の視線に気づいた。

「包丁を握ってる姿、カッコいいじゃんと思って」

「だからあんま舐めんなって。もうすぐできる。じっと待ってろ」

「はーい」

 彼の照れ臭そうに微笑む顔をもっと見たかったが、私は座り直して、彼の料理を待つことにした。

 一分くらいして、彼はまず麦茶とコップを持ってきた。いつものごとく江戸切子のグラスだったが、ソファーの前に置かれたテーブルはガラス製の天板で、ペンダントライトの光がグラス越しに万華鏡のような美しい影を落としていた。

 葵はお盆を持ってきて、2つのどんぶりを並べる。

 ネギを切っただけじゃなかった。かき玉うどんになっていた。

「すごいじゃん!」

「だろ?」

 そう言って私の隣に座る。こうやって2人横並びに座って食事をするのは初めてのような気がする。

「これ、結婚する前に教えてくれたんだぜ」

「私が」

「そ。ま、いいから食べよ」

 最近、葵の言い回しに主語が抜けていることが多くなった。

 今までは『お前』と上から目線で言っていたが、最近はそう言わないせいで、逆に聞き返すことが多い。

 別に私は『お前』という表現をそこまで気にはしていないし、それだけ親しい中だからできる表現の一つではあるのかなと理解していたため、そう呼んでくれても構わなかったが、もしかしたら葵の無意識の中で変革が起きているのかもしれない。私はその変化に気付いていたが、あえて指摘せず、絶対言わないといけなくなった状況で今度はどんな二人称を私に向けてくるのか、期待して待つことにした。

「「いただきます」」

 先につゆを飲むと、とろみがついていることに気付いた。

「これ片栗粉もいれたの?」

「流石、いつも料理している人にはバレるね。隠し味のつもりだったのに」

「とろみをつけるのは隠し味じゃないでしょ。でも、びっくりした。おいしいよ、これ」

「そう」

 私はそんなに食欲があったわけではなかったが、とろみがついた分、食べやすくて、黙々と箸が進んだ。

 ただ、早食いの葵にとってはこのうどんはもはや飲み物に近いのだろう。私がいつもより早いペースで半分まで食べていたというのに、葵はもう食べきって、麦茶を飲んでいた。

 私も箸をおいて、麦茶を飲む。

 葵に訊いておきたいことがあったんだった。

「もしさ」

「?」

「これからずっと私の記憶が戻らないってなったら、どうする?」

 葵はおかわりをしようとしていたコップを一旦テーブルに戻して、上体を私に向け、私の目の中を覗き込んだ。

「覚悟はできてる」

「『覚悟』?」

「もう1か月以上経つんだ。これからずっとこのままなのかもしれないという覚悟はできてる」

「そうじゃなくてさ……、このままでいいと思う?」

「『このまま』っていうのは?」

「私の記憶が戻らないってことはあなたが将来を誓った相手とは別人であり続けるってことでしょ? ずっと別人のまま一緒に暮らしていけるのかなって……」

 私はまだ、人生の岐路を前に突っ立っていた。

 私の意志で道は決める。だけれども、彼の考えも訊いておきたかった。

 葵はまたグラスに手をかけ、お茶を注いだ。それを一気に飲み干す。

 しばらく彼は天井を見つめて無言を貫いた。

 ようやく目線が戻ってくる。

「やっぱり俺じゃダメか?」

 妙な質問だ。何か誤解をさせてしまっただろうか。

「ダメ男ではあるけど、最近はいい人かもと思ってきてるよ?」

 そう言うと、葵はソファーの背もたれに肘をついて私との距離を縮めた。

 じっと私を見つめる。彼は一心に私の目の中を覗き込んで、こんなことを口にした。

「俺はずっと梓がいいと思ってる」

 私の体の中の熱が一気に回った。こんな言葉、人生で一度も聞いたことがない。

「記憶がなくても?」

「そうだ」

「毎日口酸っぱく小言を言われても?」

「それは俺がダメなだけ」

「もう昔の私に会えなくても?」

「記憶が無くなったことで、むしろ本当の君に会えているような気持ちになっている」

 その言葉は私の胸に深く響いた。

 そうなんだ。葵はまだ私を「梓」だと認識してくれていたんだ。

 いよいよ覚悟を決めなければならない。

 私は「椿」でいるのか。「梓」を演じ続けるのか。

「待って。先に君の質問に応えさせて」

「う、うん」

 こういう時、『君』って呼んでくれるんだ、葵は。

「俺はこのまま記憶が戻らなくてもいい。梓がよければ、ずっと一緒に暮らしたい」

 葵は腹を決めてそう言ってくれた。

 私も言葉にしなくてはいけない。

 本当のところは迷ってなんかいないんだ。答えは決めてある。

 私は心の底から、その道を信じて歩き出したいんだ。

「私は『梓』として、あなたといたい」

 葵は私を抱きしめた。

 彼の熱を布越しに感じる。私はおそるおそる彼の背中へ、手を回した。

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