5話 「ね、椿」
またあの夢かと思った。
涼しい夜に潜み、川のせせらぎと虫の声が聞こえる。
しかし、今夜は真っ暗闇ではなかった。一つだけだったはずの外灯も道沿いに立ち並び、生温い風が木々を揺らすと、その隙間から街の明かりを見下ろすような形で眺めることができた。
「何ぼーっとしてるの?」
突然、後ろから声をかけられた。
そこにはどこか見覚えのある女がいた。黒髪で背は平均くらい。とりわけ特徴のある顔というわけではないが、奥二重の瞳は真珠のような輝きを放っていた。
複雑だ。複雑すぎて言葉にできない。
私はきっと彼女にずっと会いたかった。面と向かって、笑いあって、趣味の合わない二人だけれど、何でもない会話を一番楽しむことができる、そんな彼女にずっと会いたくて仕方がなかった。
「え、えっ、ちょっと何? どうしたの?」
自然と涙が頬を伝う。彼女とまた話せる時が来るなんて思ってもみなかったのだ。
「ごめん。なんか、自分でもわけわかんなくて……」
「大丈夫?」
「うん。……目に虫が入っただけ」
「何だ、そんなことか。びっくりさせないでよー」
私はその瞳の煌めきを知っている。むしろその煌めきしか見たことがなかった。
あなたの体で目覚め、初めて鏡を見た時、輝きを失ったくすんだ瞳に、記憶を失くしたというのになぜか悲しい気持ちでいっぱいになって、あんまり見続けていられなかった。
それが今ならちゃんと分かる。
そうだ。その煌めいた屈託のない笑顔。
私はその笑顔が見たいからあなたの体に入り込んだんだ!
「虫が入ったんだよ。少しは心配してよ」
「あんたは強い子だから平気でしょ。それにしても泣きすぎじゃない?」
そう言って彼女はさらに口角を上げる。
やっと、やっと、思い出した。
私は梓なんかじゃない。
「ほら、手伝って。早く見たいでしょ」
そう、私は、
「ね、椿」
妹だ。梓の妹。私の名前は藤森椿だ。
なんで忘れてしまっていたんだろう。その時の記憶は鮮明に覚えている。
梓は初めて支給された給料を後先考えず質の高い望遠鏡を買うことに費やした。私がそのことを聞いて呆れて小言を言った覚えがあるが、梓はその望遠鏡がどれだけ価値があるかを見せつけるために、一緒に星を見に行こうと言って、その夜出かけたのだ。
二人で三脚を立てたり鏡筒をセットしたりして、梓は望遠鏡を覗き込んだ。
「うわっ、こと座あった! ヘラクレスってどっちだっけ? てゆうか結構街明かりが近いけどくっきり見える。流石、最新鋭!」
懐かしい、そんなこと言ってたね。静まった夜に似つかわしくない、思考が駄々洩れな独り言。
私たちは父の趣味に振り回された幼少期だった。父は天体観測と車が趣味で、私たち2人をよく星を見に連れ出したり、キッズカートに連れて行ってくれたりした。その結果、梓は天体観測が好きになって大人になってもその情熱は失われず、私はもうカートに乗ることはしなくなったが車への関心は高いままだった。
最近の望遠鏡はすごいんだ、としつこく梓に説明された。自動追尾機能だったり、撮影機能がついていたり。ピカピカの鏡筒を何度もさすって、梓は天体観測を満喫していた。
「椿は彼氏できた?」
「全然。もう大学生活も折り返しに入ったのにね」
「フフフ。私なんか高校の時からできてないのに」
「自慢じゃないからね、それ。しかも誰かと星を見るなんて絶対彼氏ができてからがよかったのに」
「うるさいなー。できた時に考えるんだよ。そんなことはね」
そうだ。こんな会話をしたな。
「もしさ」
そしてこんなことも訊いた。
「付き合うならどんな男がいい?」
梓は望遠鏡から目を離した。
「イケメン、高身長、高収入?」
「もう、そう言うんじゃなくてさ」
「えー、うーん」
星空を眺めながら、腕組みをする。
「そうだなあ。しいて言うなら、……一緒にいたらなんでもできるって思える人?」
そうだった。この時はそう答えていたんだった。
『一緒にいたらなんでもできる』
そうだ、そんな男が梓にはふさわしいんだ。
「椿はどうなのよ、人にばっかり訊いて」
「私は……清潔感があって、体作りに妥協がなくて、自分磨きに余念がない人」
「それ、さっき私が言ったのと変わらなくない?」
「気づいた?」
「つまんな」
梓はいつも私の冗談を理解してくれた。姉妹だからか、話す話題がなくても、どうしてか会話が途切れることがなかった。
望遠鏡を片付けて、車のトランクに乗せた。梓が運転席に、私は助手席に乗った。
エンジンをかける前に梓は手提げ鞄から水筒を取り出した。
その水筒の中にはホットコーヒーが入っていて、別に持ってきた紙コップに注いで、二人で乾杯した。
その後は一人暮らしをしている梓の家に泊まった。一緒に映画を3本見て、あーでもない、こーでもないと語り合うと、すでに時計は深夜の3時を回っていた。
梓のベッドの横に布団を敷いて、潜り込む。私たちは遊び疲れていたため、気を失うようにすぐに眠りについた。
そして次の朝だ。
その次の朝が、梓との最期だった。
私はその時大学3年生で、親元から通学していた。梓はその日仕事が休みだったため、私を実家まで送ってくれると言っていた。
梓に体を揺すられて、目が覚める。時計は10時を指していた。
「おはよう」
「おはよ」
「ねぇ、電話来てない?」
「電話?」
「私も今起きたんだけどさ、10分前にお母さんから2回不在着信があったみたい。携帯見てみて」
「うん」
重たい瞼をこすって携帯の画面を立ち上げる。
私はこの先どうなるのか知っていたが、まるでシアターで映画を見ているように、心の声は聞こえても行動に移すことはできない。辛い過去を変えることができない歯がゆさを噛みしめながら、着信履歴を確認した。
携帯の画面には母からの着信が10回以上残っていた。
この着信をもし1度でも取ることができたら、少しは結果が変わったのだろうか。夜更かしなんかせずいつも通りの時間に起きていれば。そもそも梓の休みに甘えて外泊することなんてしなければ。
どれだけ母に電話をかけてもつながらなかった。
私たちは不審に思って、すぐさま車に乗り込み、実家へ向かった。
サイレンの音が聞こえる。実家に近づくにつれ、車が渋滞していた。
空を見上げると清々しい青のキャンバスに、くすんだ汚れが蠢いている。
「ねぇ、あれってもしかして」
「もうあそこの駐車場に停めよう。足で行った方が早い」
ドラッグストアの広い駐車場に車を停めて、ドアを開けた。
その瞬間匂いがする。あの汚れの正体だ。
燻ぶった空気が肺を焼く。実家は白いペンキが塗られた、周りからは目立つマンションだったが、その姿はその汚れにまみれて見えなくなっていた。
火事だ。家が燃えている。
すでに消防車が到着して、放水が始まっていた。3階建てのマンションは2階から上の階が煙で覆われていて、実家の部屋がある3階はどうなっているか分からなかった。
野次馬を押しのけて玄関へ向かう。そこにはエントランスの前にうずくまっている人が何人もいた。
「梓ちゃん」
女性の声が聞こえた。声がする方に目をやると、隣に住む熟年の夫婦の姿があった。
「お母さんは逃げられたけど、外に出てから気を失ってしまって。さっき病院に搬送されたよ」
「ありがとうございます! それで、父は見ましたか?」
「多分、まだ取り残されてる」
「えっ」
そう言って梓は燃えるマンションを見上げて呆然としている。指が震えて、立ち竦んでいる。
これだけ建物に近づいているのに、3階がどうなっているのか分からなかった。
私の足が動く。
梓はその衝動に気付いて両手で私を制止しようとした。
しかし、私は止まらなかった。いや、止まる考えがなかった。
遮る梓の手を振り払い、正面玄関へ走り出す。
「椿! 行くな! 椿!」
私は少し首を回して背後に目を向けると、後ろで梓が倒れていた。両目にたくさんの涙を纏って、私を見上げている。
「待ってて」
そう言って、私は暗い煙の中に飛び込んでいった。
それから先はあの真っ暗闇が私の視界を覆っていた。
暗闇の中をただひたすら走って、ふと、その光景に立ち会う。
涼しい夜に一人佇み、外灯の周りにカゲロウが雪のように舞う。
1匹のカゲロウが私の腕にゆらゆらと落ちるようにして止まった。
カゲロウをじっと見つめていると、女の声がした。
「ごめんね、椿」
その声は外灯の方から聞こえた。
梓だ。梓が私を呼んでいる。
私は確か、彼女を待たせていた。
何のためだろう。なぜ私はこんな暗い闇の底まで走り続けていたんだろう。
意識が遠くなっていく。私は彼女の声に応えなければいけなかった。
「今から行くよ」
外灯の光が強くなる。
まぶしい光に包まれて、私は現実の世界に戻ってきた。




