4話 「『天体観測』?」
『柳 翔馬』と名乗る男は暇をもらって、私と伝えたいことがあると言った。
先に彼に教えてもらって長靴を購入すると、2階フロアの自動販売機で缶コーヒーを私の分も買ってくれて、2人でその近くのベンチに腰を下ろし、お互いにコーヒーを口にした。
彼はまず私が安心できるように、自分と梓がどんな関係なのかを説明した。
梅香から聞いていた話とおおむね合致していため、徐々に彼を梓の友人であることを脳が認識し始め、話していくうちに緊張がほぐれていった。
梅香の話通り、柳と梅香と梓の3人は高校時代からの付き合いで、梓が自殺を試みる前に柳と二人きりで会ってしまったことが原因で、梓が苦しい立場になってしまったことも理解していたようだ。そこまでのいきさつを語ると、柳は急にベンチから立ち上がって私に頭を下げた。
「ごめん! 全面的に僕が悪い。僕が後先をちゃんと考えて迂闊なことをしなければ、梓はこんな思いをしなくて済んだのに」
柳は下げた頭をなかなか上げない。
「ちょっ、ちょっと、やめてよ。友達なんでしょ? そんな深々と」
「いや、僕は間接的に君を殺そうとしたのも同然だ」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない! だから僕はアイツに怒った! 僕たちは取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだと」
そう言いながらようやく彼は顔を上げた。
「アイツって葵のこと?」
「そうだ。アイツは自覚が足りない。自分が殺人未遂を犯してしまったということに」
そう言い切る彼の鋭い目つきには、鬼気迫るものがあった。
しかし変だ。梅香の話だと相談に乗るという善意の行動が裏目に出てしまった印象を受けていた。だから葵や彼の両親には責任があると思っても、柳には全く関係ないことだと思っていたのだ。
「葵が悪いのは分かるよ。彼のお義父さんもお義母さんも、かなり私に嫌がらせをしてきたんだと思う。着信履歴を遡るとすごいことになってたもん」
「そうだね」
「でもあなたはただ私の相談を乗ってくれただけなんでしょ? 別にそんな咎めるようなことじゃ」
「そうかもしれないけど、それでも僕は君に謝りたいんだ」
彼の瞳は私の目を捉えて離さない。彼は『僕』口調のわりに、内に秘めたパッションが強いタイプだと感じた。
「とりあえず座ってよ。……変に注目されちゃう」
私がそう言って周りを見渡すと、小学生くらいの男子とその母親らしき女がとっさに視線をそらしたことに気付いた。
そりゃそうだ。この人、優しい口調に反して声と動作が大きい。注目の的になるのは仕方ない。
「あ、ごめん。昔から周りが見えなくなるタイプで」
柳は慌ててベンチに座った。両手の手のひらで顔を覆い、それを引きずって指先が顎から外れると、彼は大きく息を吐いて股を少し開き、背伸びをして背もたれに背中を預けた。
宙を見つめて、力が抜けた表情になる。
「実は君と葵を結びつけたのは僕だったんだよ」
特に隠す必要もなさそうなことだが、梓は知っていたのだろうか。
「私は梅香の紹介でいった合コンで葵と初めて会ったと聞いたけど」
「その合コンに葵を送ったのは僕なんだ」
「なるほど」
柳は自分が葵を送り出した責任を感じて、これだけ事を大きく捉えてしまっているのだろう。
「『怒った』って言ったよね。それはいつ?」
「昨日の夜だ。葵は8時くらいに帰ってきたよね? その2時間前くらいから直接会って話をしたんだ」
「葵は何か変わった?」
「その質問をするということは察せるでしょ? 自分のしでかしたことにアイツはまだピンと来てない」
「そのさっきの『殺人』みたいな言い方を葵にもしたの?」
「もちろん。君と同じく『それは大げさ』と鼻で笑うから、久々にきつく叱ってやったよ」
「それでも変わらない?」
「どうだろう。最後は拗ねて『梓が待ってる』とか言って逃げたから。まだアイツは何も分かってないと思う」
「そっか」
でも少し納得がいった。
葵が昨日「ごめん」だとか「ありがとう」といった言葉を素直に言ってくれたのは、間違いなく柳の説教があったからだ。何も響かなかったと柳は感じているのかもしれないが、今日のあの睡眠不足な様子は、葵なりに色んな葛藤が頭の中を巡ってしまった結果なのかもしれない。
「でも安心して。葵は変わり始めてるところなの」
「梅香から聞いたよ。面白い企てをしてるって」
「そ。『再教育プロジェクト』。今日はゴミ出しができるようになった」
「逆に今まではゴミ出しさえ手伝えなかったのか」
「そうなんじゃない? まあ、でも大きな一歩だよ」
「…………」
それから私は「再教育プロジェクト」の具体的な進捗と葵の態度の変化を柳に伝えた。
彼は、私が葵にこれまでしてこなかった反発的な態度を取ることでよりモラハラ被害が加速していないかと心配していたらしく、私の説明に始終懐疑的だった。
昨晩あのプライドの高い葵が「ごめん」という言葉を口にしたエピソードを話すとようやく納得してくれたようで、梅香と同じく柳も困ったことがあったら何でも話してくれと言ってくれた。
そう言って話をしていく中で、葵と柳の関係も知ることができた。彼らは大学時代からの親しい仲のようで、葵はああ見えて伝統を重んじる家系に生まれているせいか、人前では礼儀正しく、家事以外の作法はしっかり身につけていたため、葵の目には良識のある大人びた人間に映っていたそうだ。しかし葵は子供のころから親の手伝いやガラス細工の修行に明け暮れ、漫画やゲームといった娯楽も制限されていたため、友人と呼べる人間が少なく、ましてや異性との交際経験もなかったようだ。だから彼の人と関わる色んな経験の足りなさが、パートナーに偏屈な理想を押し付けてしまう原因になったのかもしれないと柳は考察していた。
そうしてある話題になった。葵と葵の両親、そして梓の子供を持つことに対する考え方の違いだ。
実は葵が反出生主義の可能性があるかもしれないと以前の梓の口から柳は聞いたそうなのだ。
今はセックスレスで子供は欲しくない考えを葵が持っていることは梅香と話した時点で知っていた。
しかしそれが主義となると、今後一生、葵と二人きりで生きていかなくてはならなくなる可能性が浮かび上がってくる。
梅香は嫌がらせという言葉で濁していたが、葵の親はむしろ孫を見たいがために、梓を説得しようと何度も電話をかけていたようだった。
記憶喪失になってしまった私でも、その板挟みな状況は息ができないほど苦しい状況であったことは想像に難くない。
梅香は記憶を失くして自分の生活すら余裕がない私に配慮してあえてその部分を濁してくれたのかもしれないが、私は梓の自殺の謎が解明されたような気がして、頭の中がすっきりした気分になった。
しかし、よくよく考えると注目すべき点が一つある。
葵やその親がどう考えていたかではなく、梓自身が子供に対してどう考えていたかである。
「梓自身はどうだったのかな?」
柳は私の顔を見た。
「記憶喪失だから仕方ないのかもしれないけど、君が『梓』と他者目線でいうのは、なんだか寂しいな」
そういう彼の表情は少し切なげだった。
「そうだよね、梅香からもさんざん言われた。今の私も前の私も変わらないって」
「僕もそう思ってるよ。だからこうやって話してる」
彼の情に厚い素直な物言いはスッと私の心の中に入ってきた。梓もきっとこんなに親身にしてくれる柳や梅香にもっと頼りたかったに違いない。
「相談してくれた時はね、僕も同じ疑問を持ってそのことを訊いてみたんだよ」
「どう答えてた?」
「断言をするような言い方ではなかったけど、君は子供は欲しくないわけではないと言っていた」
「でも、多分それが本音だろうね」
「だろうね。僕もそんな気がして続けて質問をしてみたんだ。『もし子供ができたら何をさせたい』って」
「そしたら?」
「なんて答えたと思う?」
そう言って柳はベンチに置いた缶コーヒーを手に取って飲みきった。
なんだろう。梓なら何て答えるんだろう。
その時ふと目線をショッピングモールの外に向けた。2車線の幹線道路には車がびっしりと詰まっていて、その中にヘッドランプを付けているセダン車が一台いた。目線を上げると陽が落ち始めていて、マンション群から伸びる影が今にも私たちを飲み込もうとしていた。
その奥の赤みを増した空に一つ光る星があった。こんなに早く見えるということは宵の明星か、と思ったが今はもう4月だ。見える季節は終わっているはず。
そう考え直すと、わずかに動いているのが分かった。薄雲がかかっているせい分かりにくかったが、その動いた跡にはかすかに線のようなものが見える。
あれは飛行機だ。それに金星はあの方角には見えない。
そんな会話とは一切関係ない情報が自然と私の中で沸き起こると、懐かしい感じと共に、ある光景が脳裏によぎった。
峠を越えた山道の先に、街を一望できる展望台がある。そこにまたあの梓の父親だと思われる男が望遠鏡をセッティングしていて、私がそれを眺めているとふいに後ろから肩を叩かれる。振り返るとそこには小さな少女がいた。私も彼女と同じくらいの目線でコンクリートのベンチに並んで座っている。
「あれはね、一番星じゃないよ」
そう言って少女が指さす先には夕焼けの空に光る1点があった。
「よく見て、動いてるでしょ? 多分あれは太陽を反射してるだけの飛行機だよ」
私は突然、ひどい頭痛がして現実に戻ってきた。夜が近づいて空気が冷えてきたのを感じる。
私はその幻影が柳の質問によって蘇ったに違いないという謎の確信があった。
どうしてかやけに喉が渇く。コーヒーを私も一気に飲み干して、彼の問いに答えを出した。
「『天体観測』?」
柳は私の言葉に目を丸くした。
「それは覚えてるの?」
「覚えてない。けど、そんなことがあった気がする」
「……そうだよ。梓は子供にさせたいというよりもあの子のお父さんのように一緒に『天体観測』をしたいと言ったんだ」
「そうだったんだ」
柳は何も言わず私の手から空き缶を奪った。自動販売機の隣にゴミ箱がある。そこに彼は2つの空き缶を捨てた後、そのゴミ箱の裏が気になったのか首を伸ばして覗いていた。
「うわっ」
彼の驚いた声に私も気になってその隙間を覗くと、無数の虫が塵のように溜まって死んでいた。
「この建物の裏に川があるから、羽化した羽虫たちがこの自販機に寄ってきちゃったんだな」
「へー、それでこんなに」
その死骸には小さなアリに羽を付けたような虫が多く、カメムシなども混ざっていた。
しかし私の目に留まったのは大量の羽虫の死骸の中に1匹取り残されたように死んでいる、他と比べて一回り大きい白い蛾のような虫だった。
私はこの虫を知っている。
いつも夢の中で見るのと同じだ。
私は今日もまたあの夢を見せられるのではないだろうか、と不安に駆られていた。




