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3話 「僕は柳 翔馬」

 またあの夢を見た。これで何回目だろうか。

 涼しい夜に一人佇み、外灯の周りにカゲロウが雪のように舞う。

 今回も1匹のカゲロウが私の腕にゆらゆらと落ちるようにして止まった。

 カゲロウの目を覗いていると、急にその羽を動かして、今度は力強く光の方へ羽ばたいていった。

 光の中に誰かいる。

 大きな無機物を前に置いて、黒髪の女がそれを私に向けた。

 望遠鏡だ。レンズ越しに私を見ている。

 女は私に気付くと望遠鏡から目を離し、私に手を振った。

 梓だ。梓がそこにいる。梓が笑顔で私を呼んでいる。

 じゃあ、私は何だ?

 私は梓じゃないのか? いや、私も梓で、彼女も梓なのか?

 私は食い入るようにその光景を見続けて、光の方へ足を進めた。

 またしても外灯の光が強くなる。

 まぶしい光に包まれて、私は現実の世界に戻ってきた。


 今日は少し寝汗をかいていた。

 昨日より体を起こすのがしんどい。

 葵はまだ寝ていて、時計を見ると『05:48』となっている。葵が最近重大な企画を抱えているため早く出社するとはいえ、これは流石に早く起きすぎてしまったようだ。

 私はベッドから出てトイレに籠った。少し時間がかかったが、ついでにブラシを使って便器をきれいにした。

 水を流すと寝室からアラームの音がする。葵はいつも6時ちょうどに目覚まし時計を設定していた。

 狭い廊下で彼とすれ違う。

「おはよ」

「おはよう」

 目の下はクマができていて唇は乾燥し、少し血の気が引いているように見えた。

「大丈夫? 顔色悪い気がするけど?」

「ちょっと寝不足。今日のお昼くらいまでには色々と片付くから、今日は早めに帰れるよ」

「そっか。無理は……してほしくないけど、気を付けてね」

「ん。ありがと。シャワー浴びるわ」

 そう言って彼の服がしまってある書斎に入っていった。

 卵や納豆、ギリシャヨーグルトなど栄養がつく朝食を食べさせ、ランチクロスの中に弁当箱と栄養ドリンクを包んで渡した。ゴミ袋も忘れずに持っていってくれたが、調子が悪そうな葵が心配で外廊下を出てエレベーターまでついていった。

「もういいよ大丈夫だから」

「行ってらっしゃい」

「うん。じゃあね」

 私が肘も動かないくらい軽く手を振ると、彼はエレベーターのボタンを押し、私を見て、少し微笑みながら手を振ってくれた。だんだんと素直になってきているような気がする。やっぱり少しずつ距離が近くなってきている気がした。


 今日は初の出勤日。

 業務はただひたすら4時間、車を水洗いし続けるだけ。

 店長は初日だから適度に休んで水分補給は忘れずに、と言ってくれた。事務所のカウンターの横にウォーターサーバーがある。そこをいくらでも使っていいとのことだった。

 私は一応水筒を持ってきたため、それを散水栓ボックスの近くに置き、ホースをつないで水を出し、事務所の裏のガレージの倉庫からバケツとタオルを取って、一番手前の大通りに面した列から洗車を始めていった。

 展示場に並べてある中古車は軽自動車とコンパクトカーが半分、もう半分はミニバンばかりで、走行距離は最低でも5万キロを超えている物が多く、年式も10年以上前のものが多かったため、価格帯としては高くても100万円代の車が多かった。

 私は記憶喪失ではあったが、なんとなく車の知識があった。エンブレムを見なくても大体の車種はどこの会社のものか分かったし、一番目についたのはホイールの形だった。色んな形のホイールがあって、純正っぽいものが多いなと作業しながら思っていたが、そういえば葵は梓がそんなに車に興味があった記憶がないと言っていたのを思い出した。

 私も特別これに乗りたいという車種があるわけではなかったが、こうして車を見る分には面白いと感じるものがあった。

 磨き上げたボディーに太陽が反射するのを見ると、突然、男の面影が脳裏によぎった。

 私の目線は低く、男が嬉しそうにセダン車のルーフをさすっているのを見上げている。そんな光景が私の脳内に流れ込んできたのだ。おそらく亡くなった梓の父親の影だろう。やんちゃな男子高校生のようにエンジン回りまで知識があるわけではなく、ある程度見れば車種が分かる程度の浅い知識だったため、葵の言う通り梓も趣味と言えるほど車が好きというわけではなかったんだろうなと思った。

 1時間に1回、休憩を挟んで取り組んだが、あっという間に時間が過ぎていった。私が担当した列は20台くらい並んでいたが、4時間の間に全てを洗うことができず、店長にそのことを伝えると、

「最初はみんなこんなもんや。初めから適当に早く済ませるより全然いい。これからもこのペースで頑張って」

と言ってくれた。

 11時から作業を始めて30分のお昼休憩を挟み、3時半に終わった。

 同じく洗車作業をしていた主婦らしき従業員にちゃんとケアしないと筋肉痛になるよ、とアドバイスをもらった。確かに想像していた通り、相当な体力を使う仕事で、タイムカードを打刻して事務所の扉を出た後にどっと眠気が襲ってきた。


 敷地を出て、バス停に向かう。バス停向かいには大きなホームセンターがあった。

 そういえば昨日、長靴を帰りに買うのを忘れてしまって、今日は昨日と同じサンダルで作業をしたのを思い出した。汚れるだけでなく、砂利が足の裏に入り込んでくるのがわりと煩わしく感じたため、私は大通りを挟んだ目の前のホームセンターに長靴を買いに行くことにした。

 そのホームセンターは100円ショップや自転車売り場など、様々な店が入っている複合商業施設だった。1階がホームセンターと自転車屋で、2階にレストランやショッピングなど、その他のテナントが入っているようだ。

 私は長靴以外に買いたいものがなかったため、ホームセンターに直行した。びっしりと並べられた商品棚が建物の奥まで見えないほど立ち並んでいたため、これは探すのが大変そうだなと感じた。

 ホームセンターの売り場を半周くらい流し目で探したが、埒が明かないなと思い、店員に訊いてみることにした。

 私の目の前に若い女の従業員に何やら商品の陳列について説明している男が立っていた。ここの従業員は皆黄色いエプロンか作業着を上に羽織っていたため、一人黒い半袖のシャツ姿で名札を首にかけているその男は、このお店の中でもかなり立場がある人間に見受けられた。

 ちょうど説明が終わったようで、若い女の従業員はその場所を離れた。男はタブレットを見ながら、確認作業を進めている。これだけ広いお店でもこの人なら、商品の場所をパッと教えてくれるだろうと思い、私はその男に声をかけることにした。

 彼は背を向けていて、私がいることに気付いていない。

「すみません」

「はい! どうされました?」

 接客業らしい作ったような明るい声でまだ私を目で捉えていないのに、反射的に返事が返ってくる。

 男は肌が少し焼けていて垂れ目ではあるが勇ましい骨格をしていた。

「あの、長靴を探していまして」

「えっ」

「ん?」

 男はおかしなことに私の顔を見るなり驚いて、気が抜けた素の声を漏らして口をあんぐりと開けた。

「梓?」

 梓の知り合いみたいだ。

「あっ、えっと。……どうも」

 予期せぬ事態に私はなんて返事をすればいいのか分からなかった。

「いや……、そういえば、そうだった。俺のこと覚えていないんだっけ?」

 ますますおかしなことを言う。私が記憶喪失だということを知っているのだろうか。

「ごめんなさい。ちょっとうまく説明できなくて」

 私が目線を外すと、男は1歩前に前進した。

「梅香から話は聞いてる。安心して、僕は柳 翔馬。君とは高校時代からの友人だ」

「あー、あなたが柳さん」

 梅香の旦那だ。あの子の話だと、確かこの人は梓と友達でもあり、交際関係でもあったことがある間柄だったはずだ。

「その反応だと、本当に記憶喪失になっちゃんたんだね」

「はい。……いや、うん? ごめんなさい。ほんとになんて言えばいいか分からない」

 自分で名乗っているし、私のことに気付いてもいたから、彼が『柳 翔馬』なのは間違いないだろう。

 しかし、だから、どう接すればいいのか。

 喉が渇く。指先が冷たくなってきた。

 私は記憶がない恐怖を久しぶりに思い出した。


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