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2話 「ごめん」

 「洗濯もの編」から始まった「再教育プロジェクト」は怖いくらい順調だった。毎晩梅香と電話をして進捗と次の対策を話し合っていたが、使い終わった皿を流しに持っていくなどの自分が使ったものの始末や、洗濯ものをすぐ回せるような状態にかごに収めるといった後先のことを考えた行動を取れるようになったため、もうほとんど私は現状に満足できるくらいではあった。

 梅香は今度は家事の手伝いだねと嬉しそうに言う。明日はちょうど可燃ごみを出す日だ。ゴミをまとめるところからするのは次回の楽しみにしておいて、とりあえず私がまとめたごみを出してもらうことにした。

 ゴミ出しを習慣化してもらえたら、私としてはかなり嬉しい。この体の生理は全く動けないというほど重たいものではなさそうだが、それでも一番きつい時期に、ゴミが業者に回収されるまでに朝体を動かさなくてはならないのは苦行だ。体の調子が良かったとしても、今のところ葵のために弁当を用意し続けているため、単純に忙しい朝に余計なストレスがかからないのも嬉しい点だ。

 私は梅香との通話が終わってベランダから部屋に戻ると、葵は風呂に入っていた。明日朝いきなり手伝ってほしいというと彼からの反発が強くなりそうなので、私は寝る前に彼に伝えておくことにした。

 ゴミ袋にまとめてもう先に玄関に置いておこうかな、とも思ったが、キッチンから出たゴミが少し匂うため、ゴミをまとめるのは明日の朝にしようと思った。

 葵が浴室から出て寝間着に着替える。いつも葵はリビングにいる私を無視してそのまま寝室に直行するのだが、5大原則の一つ『無視は万死に値する』ことを昨日の夜から事あるごとに指摘していたためか、ソファーでくつろいでいる私に「もう寝るよ」と声をかけてくれた。

 私はそんな彼に明日のゴミ出しについてお願いしてみた。今まで衝突もなくすんなり私の要求に応えてくれたが、流石に家事の手伝いを担わされるとなると、葵は反抗する意思を少し見せた。

「それはお前の仕事だろ?」

 いつもの常套句が飛んでくる。上から物を言う態度は少し改まったかなと思ったが、今一度ちゃんと言葉にして伝える必要がありそうだ。

「そう、私の仕事だけど、説明した通り少しでも手伝ってくれると助かるの」

「楽したいだけじゃん。俺の仕事は手伝えないのにね」

「そうだよ。葵の仕事は手伝えないし、私は楽をしたいだけ。でも、あなたが働いて私が家事をすることでお家で楽な生活を送れるように、あなたが仕事に向かうついでにゴミを出してくれるようになったら、それが最も効率がいいことになるとは思わない?」

「まあ、それはそうかもしれないけど」

「体の調子が悪いことだってあるだろうし、仕事もさっそく明日から始めることにする。私ももっと家事であなたをサポートしてあげるから、あなたも少しくらいは私を助けてくれると嬉しいな」

「…………」

 葵は無言で私を見つめる。何か言いたげな感じだ。こういう時は彼から出る言葉を待ってあげた方がいい。

「分かった。ゴミ出しくらいはする。ただ、俺だって朝は強いほうじゃないし、忘れることだってある」

「それはみんなそう。葵はよく『仕事』と表現するけど、これくらいのこと忘れたって全然大丈夫」

「仕事と違ってリカバリーができるから?」

「そ。ていうか、それをこういうものだと決めつけてしまうと窮屈な生き方になるよ」

「でも俺は俺の仕事を失敗できない」

「何でもメリハリが大事よね。難しく考えすぎない、だけど頑張るべきところでは頑張らないといけない」

「当たり前だ」

「その頑張る姿勢をお互いに知っていたら、それは『失敗』にならないんじゃないかな」

「? 言ってることがよく分からん」

「お互いがお互いをよく理解していたら、それは『失敗』じゃなくて助け合える『チャンス』だっていうこと」

 葵は少し顎を引いて、目を見開いた。

「そういうポジティブな考え、苦手だわ。それに何が『チャンス』なの? 相手にマウントを取れるみたいな?」

 あんまりな発想に私は思わず口角が上がってしまった。

「卑屈だね」

「俺は昔からこう」

「まあ、それも葵の面白い所なんだと思う。『チャンス』っていうのは、お互いの心を近づけられる『チャンス』ってこと」

「うわー、訊かなきゃよかった。『卑屈』な俺には眩しすぎる」

「めんどくさ」

「お前がな」

 そういう彼の頬はわずかに緩んでいた。

 寝室にはクイーンサイズの大きなベッドがあって、行為こそないが一応今までずっと同じ布団で寝ていたようだった。退院した初日は葵がソファーで寝ようかと言ってくれたが、そのベッドは寝返りを打てるくらい十分な幅があったため、私は葵が問題なければいいよと言って、少し距離を取って同じベッドで寝るようにしていた。

 寝付くまではお互いに背を向け合って横向きになる。葵は寝相がよく、私が夜中に目が覚めても1ミリも動かず同じ体勢で寝ていた。最初は流石に緊張したが、葵があんまりにもその気を見せずにすぐにうっすらと寝息を立てて寝付くため、だんだんと私も慣れるようになってきた。

 葵はすでにベットの左側に寄って横になっていた。もう瞼も閉じている。

「おやすみ」

「…………」

 返事が返ってこない。もう寝たのかもしれない。

 私もベッドに入っていつもの体勢になり、瞼を閉じた。

「一つ訊きたいんだけどさ」

 葵の声がする。まだ寝ていなかったみたいだ。

「起きてたんだ。無視はしないでって言ったでしょう」

「ごめん」

 驚いた。自然に出た彼の言葉に私は内心動揺した。

 葵の口から『ごめん』なんて言葉を聞いたことがなかったからだ。

「どしたの?」

 私は寝返りを打って仰向けになり、彼の方を見た。葵はまだ後頭部を見せたまま、こちらを向く素振りもない。

「ずっと思ってたんだけどさ」

「うん」

「梓って、本当に梓なの?」

 本当は訊いてみたかったが、聞きたくはない言葉だった。

 そんなの私自身が一番気にしてるに決まっているじゃないか。

「分からない」

 私はそう言うしかない。

「思い出せそうな兆しはある?」

「無意識に自然と趣味嗜好が表れる瞬間があって、それは梓の記憶がにじみ出てきているんじゃないかな、と思うことはある」

「例えば?」

「外に出たい気持ちが強かったり、単純作業がわりと好きだったり」

「……そうだったかな」

「違うの?」

「いや……、そうだったかも」

 葵の声はどこか寂しい感じがした。元の梓に会いたい気持ちが強くなっているのだろうか。

「元の私は甘いのが好きだった?」

「そんなイメージはあるな。クレープを与えておけばとりあえず元気になってくれる」

「『与える』とかペットみたいに言わないで。夫婦横並び、上下とかないんだから」

「ごめん」

 まただ。またあの葵がその3文字を言うことができた。成長なのか、寂しい思いからなのか。

「車は好き?」

「どうかな。不吉な感じがして梓の車は売りに出したけど、そんな手入れしてたかは知らん」

「えっ、梓の車があったの? あの1台だけかと思ってた」

「元々は妹が選んでくれた車だとか言っていた気がするけど、……あったら使ったよな?」

「いや、今のところは大丈夫かな。すぐ近くのバス停から行けるし、なんなら徒歩で行っても30分かからないくらい」

「俺の実家に全然使ってない自転車がある。明日は無理だけど明後日くらいにはもらってくるよ」

「ありがとう」

 ずっと変わらない彼の背中を見て、どうしてか少し距離が遠くなってしまったような感覚があった。

 彼の落ち着いた声はパートナーに向けたというよりは、親しい友人に話しているような絶妙な距離感になったような気がした。

「おやすみ」

「おやすみ」

 まあでも、気のせいか。いつになく優しさを見せるから錯覚してしまったのかもしれない。

 葵はきっと人のことを思いやれるし、よく人のことを見ることができる人間だ。

 少し歪んでしまっただけで、会話を重ねていけば今日みたいな一面を見せてくれることもある。

 「再教育プロジェクト」なんて、それこそ私が上から目線で葵を矯正しようなんて考えがあったのかもしれない。

『1つ、夫婦は上下ではなく横並びであること』

 そして、

『1つ、躾けは必ず『愛』の発露であること』。

 葵にばかり期待せず、私も変わっていかなければいけないな。

 そう考えていると、いつものかすかな寝息が私の耳の中に入ってきた。

 私も葵と反対の方向に横向きになり、それ以上はあまり考えることはせず、寝ることにだけ意識を持っていった。

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