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1話 「そんな気はしてた」

 またあの夢を見た。これで3度目になる。

 涼しい夜に一人佇み、外灯の周りにカゲロウが雪のように舞う。

 今回も1匹のカゲロウが私の腕にゆらゆらと落ちるようにして止まった。

 どうだったかは知らないが、私は虫がそんなに得意じゃない気がする。いつもならすぐに振り払うはずなのだが、どうしてか、この夢ではじっとカゲロウを見つめることができた。

 またしても外灯の光が強くなる。

 まぶしい光に包まれて、私は現実の世界に戻ってきた。


 翌朝、前日と同じように葵の鞄の中に弁当を無理やり押し込んで、元気よく彼を送り出した。

 昨日から始まった「再教育プロジェクト」のせいか、自分の皿を片付けたり、お風呂上りや洗顔などで水が飛び散るのを気にするようになったり、意外にも早く成果が見られるようになった。

 葵のことを少し訊いてみると、彼は一人暮らしの経験がなく、結婚してすぐに同居生活をして梓に頼りっぱなしだったようで、生活力が皆無なのはそういった親に甘えさせられて育った弊害があったからのようだ。

 となると気になるのは親だ。なぜ、こんなにも生活面が壊滅的な息子を生み出してしまったのか。

 実は元々葵の父方の山岸という家系は江戸時代から続く切子職人の家系のようで、葵は一日のほとんどをガラス細工を作る時間にばかり当てて過ごしたらしく、自分たちの伝統を受け継いでくれる息子を有難がって彼のわがままを聞いてあげてしまうことが多かったようなのだ。だから今の彼はあんな振る舞いになってしまったのだが、江戸切子に対する情熱は本物らしく、食器棚に切子細工のグラスやら器やらが多かったり、今の葵が切子細工を売り捌く会社を立ち上げたりすることができたのも、ある意味幼いころから修行してきた経験を生かすことができた結果なのだと頷ける。

 そういった事実を知ると、彼が常識外れなのも納得できるし、変な表現だが、幼子が頑張ろうと努力している教育番組に携わっているような気持ちにさせられて、彼の子供っぽさに愛しい感じさえした。

 これは決して『好き』という感情ではない。母性が芽生えたと言い換えても差し支えない気持ちだ。

 「再教育プロジェクト」は詰め込みすぎもよくないため少しずつ意識改革を目指そうと思っていたが、ここまで順調だと、もしかしたら私が舐められないようにと働く意味はなかったのかもしれない。

 まあ、それでも体を動かしておきたいから働きに出るのだが。

 私は肩透かしを食らった気分になりながらも、今日は面接を控えていたため支度をしようと寝間着を脱いで浴室に入った。

 浴室から出て体を拭き、下着を着てキャミソールに腕を通した時、温度差で冷えたのか、にわかに悪寒がした。ぎゅうと下腹部の奥に何か重たい感覚が起きる。

 そっか。私は女とかいう生き物だった。梓の意志とは関係ない。女という生き物はどういうわけか本能が体を勝手に支配して子孫を残したいとしゃしゃり出てくるのだ。どれだけそれに抗おうとしても血を見せてまで私たちの意識の中に刷り込もうとしてくるのだ。

 私は思い出したかのようにその苦しみと再会してしまったため、体調とは関係なく若干暗い気持ちになってしまっていた。


 速乾性のあるタイツを下にジャージパンツを履いて、長袖のTシャツの上からランニング用の薄手のパーカーを羽織った。こんな格好で仕事の面接に行ってしまっていいのか、と余計な緊張もありつつ、求人情報誌の住所を頼りに会社に向かった。

 そこは大通りに面していたロードサイド店舗で、展示車の数が数えなくても100は優に超えているであろうことを感じさせる規模の大きい中古車ディーラーだった。広い売り場の端に横に長いコンテナハウスがポツンとあり、その奥には何台も入る整備用のガレージがあり、つなぎを着た人たちが4、5人ほど忙しそうに歩き回っていた。

 どこに行けば分からずしばらくうろうろしたが、そのコンテナハウスの周りに『セール中』と書かれた旗がたくさん掲げられていたため、きっとこれが事務所なのだろうと思い、敷地内に足を踏み入れた。

 扉を開けると、手前に小さな円卓とソファーのセットが三つほどあって、その奥にカウンターがあり、そこにいた痩せた黒縁の眼鏡の男が私に気づいて近寄ってきた。飄々とした佇まいのその男が店長のようで、私が昨日電話をかけた時に聞こえた声の印象よりも渋い顔をしていた。

 入り口から離れたテーブルで業務内容の詳細を聞く。面接といっても想像通り堅苦しいものではなく、私に関するちょっとした事情を訊かれるくらいでほとんどは仕事や職場に関する説明だった。関西弁を少しのぞかせながら標準語で話すさまは温かみがあって人懐こく、浮かない気分の私を晴れやかにしてくれるオーラがあった。

 20分くらいで面接が終わると、外に出て作業工程の確認をした。

 業務内容はいたってシンプルで、敷地の隅の4つの散水栓の近くにホースが準備されており、それをつなげて並べられた車を水洗いし、水滴をなるべく残さないように拭き上げるのが基本だった。入庫したり納車したりする時は事務所の横の屋根があるスペースで別に洗車をするらしく、その場合は薬剤やワックスを使ったり、車内清掃をしたりと、より綺麗に仕上げてしていくそうだ。

 その他の業務は特にないらしく、本当に洗車だけを専門とする仕事のようだった。ただ展示されている車が多いとはいえ、洗車をするだけのスタッフなんて必要なのかと思わなくはなかったが、どうやらお店が大通りに面している都合上、煤や砂埃を大量に被るそうだ。一日放置するだけでも指で触ると真っ黒に汚れてしまうくらいであるため、こういった従業員の需要があるようだった。

 実際に1台だけ展示車を洗車させてもらったが、意外と屈んだり立ったりの連続で、結構体力を使いそうな印象があった。その日は汚れていいサンダルで行ったが、思ったより足が汚れるため、完全に日常使いしない長靴を新しく買った方がいいなと分かった。

 日焼け対策もしっかり考えなければならないだろうし、女性人気はない仕事かなと思ったが、訊いてみると意外にも主婦業の傍らで働く人が多いらしい。仕事内容がシンプルなのも理由の一つだが、こういった仕事の関係上、いつ職場に来ても業務があるという事情があるらしく、隙間時間をうまく活用したい主婦層から人気があるようなのだ。

 実際に展示場を歩いている中で女性スタッフに会った。私が洗車を体験している間、そのスタッフが店長に声をかけていたが、店長の人柄もあってか和気あいあいとした雰囲気だった。職場環境は悪くなさそうだ。

 もろもろの説明を受けると1時間以上経っていた。私からこの仕事をさせてほしいと言う前に、店長の方から来てくれないかなという言葉をもらった。頭を使うよりは体を動かす方が好きだし、単純な作業は心が落ち着くタイプであるため、その言葉を快く受け入れて、シフトの調整を行った。

 私はとりあえず様子見で1日4時間の週3日、働いてみることにした。外仕事ということもあってか給料は相場よりも高いため、いくらお金の必要がなくても嬉しいポイントだった。


 そうして私は家に帰宅し、夜まで葵の帰りを待つ。

 ガチャリと玄関の鍵が開いた。

 葵は家に入るなりすぐに鞄の中から弁当箱を取り出して流し持っていくようになってくれた。

 昼食はいらないとまで最初は言っていたが、弁当の中身が残された状態で帰ってくることはなかった。

 心の余裕がないとはいえ、あとはちょっとくらい感想でも言ってくれたら、私の自己肯定感が上がるんだけどなぁ。

「汁気はなるべく取ったつもりだったけど。大丈夫だった?」

 私からつい声をかけてしまった。

「大丈夫だったよ」

 疲れているとはいえそんな一言で返事を終わらせてしまうとは、まだまだプロジェクトの最終段階「気遣い編」までは遠いなとつくづく思った。

 そのまま夕食を取ることになって、私は葵に仕事を始めることを伝えた。呆れた様子ではあったが怒っている感じではなかった。

「やっぱりな。そんな気はしてた」

「気づいてたの?」

「そりゃあ、昨日の朝言ってたし、食器棚のところに求人雑誌も置かれてた」

 そう。私は食器棚の端に潜んでいた料理本コーナーに求人情報誌を隠していた。そこにコップ類があるため、彼の視界に入らないこともないわけではなかったが、注意深く見ないと気づかない程度だと思っていた。

 だから私は彼がそれを知っていたことに少し驚いたくらいだった。こういった日常のちょっとした違いに気づきやすいタイプなのだろうか。

「怒らないんだね」

「お前が勝手にするんだろ? 職場に電話がかかるような事態にならなければ問題ない」

「ありがとう」

 私がそう言うと、葵は箸を止め、キョトンとした表情で私の顔を見た。

「なんで感謝するんだよ。お前が決めたことだろ?」

 確かにそうだ。許可を求めるわけじゃないと宣言したのは私なのに。

「なんか、……嬉しかったんだよ」

「ふーん。変なの」

 そう言って彼はそのことを特に言及せず、静かに味噌汁をすすった。

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