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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
第2章 「再教育プロジェクト」
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5話 「……馬鹿にするな」

 夜になって、葵が帰ってくると、相も変わらず機嫌が悪い様子だった。

 彼の仕事について訊いてみると、葵は江戸切子のガラス細工を一般向けに販売している会社の創設者のようで、元々世間にあった伝統芸能としての職人による工芸品というイメージを取り払って、普段使いできる代物として新しいマーケットを築き上げることができた敏腕のビジネスマンのようだ。現在はパリの有名な建築家がデザインを任されている老朽化した美術館の建て替え事業に一部のガラス素材を提供する企画が立ち上がっているらしく、新たな実績作りのチャンスと神経をとがらせているそうだ。

 だからそんなカリカリしていたのか、とわずかに共感できたが、彼は無言で今朝渡した弁当箱を流しに持っていかずダイニングテーブルの上に置いた。そんな自分勝手な態度を改めないのは別問題だ。

 そのまま脱衣所に行った葵をひそかに追っかけてみると、相変わらず脱いだ服は大切なシャツだろうと分けずに洗濯かごに投げ捨てるため、私は注意することにした。

 まだ仕事は始まっていないが、さっそく「再教育プロジェクト」の始動だ。

 記念すべき第1回目は「洗濯もの編」。

 さあ、気張っていこう! 

「疲れてるのは分かるけどさ、黒い靴下と白いシャツ、一緒に回せるわけないないよね?」

 私がそう声をかけると、葵は振り返って溜息をつく。

「知らねーよ。いつもお前が洗濯してたんだから」

「そこに洗濯ネットがあるでしょ」

 そう言って私はドラム式洗濯機の上にある棚を指さした。そこには洗濯ネットや洗剤、トイレの洗浄剤や入浴剤など、水回りに関する日用品がまとめて置かれていた。

「あー、これお前の下着用じゃなかったの?」

「いっぱいあるでしょ? それにシャツだけは別に入れて」

 葵はぎっと横目で私を睨む。

「これぐらいお前がしろよ。めんどくさいな」

 そう言いながら洗濯かごからシャツを、棚から洗濯ネットを一つ手に取って私の前に突き出した。

「他人に自分の服を洗濯してもらうんだから、そのくらいのことはしなさい」

 私がそう言うと、葵は厳しい表情で私に顔を近づけてすごむ。

「さっきも言ったが俺は今大事な時期で疲れてるんだ。分かるだろ?」

「分かんないね、自分で自分のケツを拭けないやつの気持ちは」

「女が『ケツ』とか言うな。それにこんなの何の苦にもならない一瞬のことだろ?」

「『一瞬』なら、疲れていても問題ないでしょ? それにね、これはあなたの言葉を借りるとすれば、人に譲れない『こだわり』なの。『これを機に覚えて』」

「……俺らは家族だ。寛容な心を持たないと」

「でもそのシャツはあなたの服で、洗濯をするのは私でしょ?」

「だから俺らは家族で」

「事実は変わらない。それとも何? 私が知らずにそのまま洗濯機を回して、靴下の毛がびっしりついたしわくちゃのシャツになってもいいわけ?」

「…………」

「洗濯はする。私の仕事だから。だけど、他人に自分の身の回りのことをしてもらっている意識は持って」

「…………チッ、分かったよ」

 そう言って葵は不貞腐れながらも自分のシャツを洗濯ネットに入れた。ジムにでも通っているのだろうか、タイトなインナー姿の彼は思ったより筋肉質で、そんな大男が不慣れに小さな洗濯ネットのジッパーを閉じ、洗濯かごに戻す様子は少しギャップがあって面白かった。

「ありがとう」

 私は梅香のアドバイスを思い出していた。梅香は今朝、葵のような神経質なタイプは余計なことを言わないで、何か手伝ってくれるようになったら素直に感謝すればいいと言っていた。

「…………」

 葵は口を尖らせて私を見つめる。

 そういえば梅香はそういう目で見てもらえるようにスキンシップをしたり、色仕掛けをしてみたりしたら、と彼に好意を持っていないと言っているにも関わらずふざけたことを抜かしていたが、心の距離を近づける意味では悪くないのかもしれない。

 私はなんとなくそんな気がしたため、3歩彼に近づいて手を伸ばし、彼の頭を撫でてみた。

「疲れてるのにえらいね。ありがとう」

 もっと何か気の利いた言葉をかけてあげるべきだと思ったが、確かに梅香の言う通り、今の私なら何を言っても嫌味っぽいセリフを発してしまいそうなので、それ以上は言わず、ただ微笑んでおいたほうがいいかな、と思った。

 葵は撫でられるのを嫌がって頭を揺らして私の手を振り払うと、少し俯いて私から目線を外した。

「……馬鹿にするな」

 わずかに聞こえるほどの小さな声。

「馬鹿にしてないよ。私は葵が自分のことをしてくれたから嬉しいだけで」

「それを馬鹿にしてるって言うんだ」

 葵はそう言ってインナーを脱ぎ始めた。一連の動作で彼の表情はよく見えなかったが、かすかに耳が赤くなっているようにも見えた。

「風呂に入る」

「背中流してあげようか?」

 私は弱弱しくなった葵が可笑しくて、つい冗談を言った。

「自分が言ったことを忘れたのか? さっさと出てってくれ」

「恥ずかしいの?」

 私はきっと挑発するような憎たらしい笑みを浮かべていたのだろう。

 葵はわずかに顔をしかめたが、目線を外して私に背中を向けた。

「『他人』なんだろ?」

 弱っただけではなく、少し寂しそうな声に聞こえた。

「……そうかもしれないし、今の私は記憶を失くす前と同じ感情をあなたに向けられるわけじゃないかもしれない。けど『好き』になった関係であるのは事実だと思う。ごめんね、冗談言って。なんか葵が可笑しくて、つい」

「やっぱり馬鹿にしてるじゃないか。……もう寒いから、風呂に入らせてくれ」

「うん、またね」

 そう言って私は脱衣所を出て扉を閉めた。

 思い返せば言い慣れない冗談を言ってしまった気がする。

 「再教育プロジェクト」の第一歩として、やっと彼を言い負かすことにできたのに、似合わない冗談を言ったせいで心が晴れるどころかなんだかソワソワして落ち着かない気持ちに私はなってしまっていた。


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