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せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
第2章 「再教育プロジェクト」
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4話 「私のことなんて忘れていいから」

 それから私は「再教育プロジェクト」を実施する上でのあの大原則を披露した。

 おおむね共感を得ることができ、私はその『舐められないこと』という理念のもと、仕事を始めたいと伝えた。

 梅香も最初は葵と同様、無理しなくてもいいんじゃないというスタンスだったが、昨晩の葵の言葉をそっくりそのまま伝えると、むしろそれはやるべきだと手のひらを翻して、私の意見に賛同してくれた。

 履歴書を書くのを手伝ってくれないかと言うと、彼女を快く承諾してくれた。

「ところで、仕事は何するの?」

 梅香の言われた通り、最後まで職歴を書き切ると、そんな質問が飛んできた。

 私は丁寧に書こうというプレッシャーで指に力を入れてペンを握っていたため、一旦疲れた手をプラプラと脱力するように振って、「ふぅ」と息を吐いた。

「車の洗車をしようと思う」

「? 洗車の仕事?」

「そ、洗車だけの仕事」

「そんな仕事があるんだね」

「中古車展示場の車を洗うらしいよ。珍しいよね」

「まさか、珍しさに惹かれてその仕事を選んだわけじゃないよね」

「半分そうかも」

「『半分』って。……外仕事でしょ? これから暑くなるけどどうするの?」

「それがね、夏は水着とサンダルを着て仕事をしていいらしい!」

「いやいやいやいやいや、そういう問題じゃないでしょ」

「そういう問題! 楽しそうじゃない?」

「中学生か! 全くもう」

 呆れた様子で梅香は苦笑いを浮かべた。

 しかし本当のことなのだ。求人情報誌はどれもありふれた仕事ばかりで、際立って面白そうな仕事なんていうのは洗車の仕事くらいしか掲載されていなかったのだ。

「何か話のネタになるかなーって」

「はぁ。なんか、懐かしい感じがするよ」

「そう?」

「うん。昔のあーちゃんは向こう見ずで、何でも新しいことに挑戦する人だった。それに同じ陸上部だったけど、本当に太陽をものともせず外を駆け回るのが好きだった」

「これが素なのかもね」

「確かに」

 そう言って笑ってくれる梅香の目は私の瞳を捉えているはずなのに、もっと奥のどこか遠い所を眺めているような、ぼんやりとした眼差しだった。

 それから30分くらいは高校時代の梓のお転婆なエピソードや、梓と椿がよく父親に連れられて天体観測に出かけていた話など、梓に関する思い出を語り合い、その後は葵に対する今後のアプローチを簡単に話し合った。

 ある程度会話が尽きると、私は梅香にお礼を言って、一緒に店の外に出た。

「あーちゃんのためなら私、何でも相談に乗るし、何でも手伝うからね」

「ありがとう」

「あと私もそのプロジェクトに参加するから、逐一報告してね」

「がんばるよ」

「うん、それ以外は自分のペースでいいから、それだけは守って」

「……梅香は旦那を束縛するタイプでしょ」

「また懐かしいことを言う。いや、椿ちゃんだったかな? だけど、『旦那』は止めてね。翔くんのこと、あーちゃんは『翔馬』って呼び捨てで呼んでたんだから」

「記憶がない今、異性を呼び捨ては厳しくない?」

「それもそうか。じゃあ、葵くんのことはなんて呼んでるの?」

「一応旦那だし、『葵』って呼んでみてる」

「えっ、いいじゃん! 葵くんびっくりしたんじゃない?」

「一回その話をしたけど、ちょっと呼び捨ては慣れない感じだったよ」

「いやぁ、夫婦ならそれが健全だよ。そのくらいが」

「そうだよね。ちょっと変かなって私も思ったんだよ。じゃあさ、」

「何?」

 梅香は前のめりになって私の言葉を待った。

 こうやって立って並んでみると、私が平均的な日本女性の身体だとしたら、彼女は私よりも10㎝以上身長が高くて、手足も長い。長い髪の毛は肩甲骨が隠れるくらい伸びていて、まとまった茶色の毛先が一本一本、前のめりの影響で首を傾けた方に垂れていく様は、溌溂な彼女の内面とは裏腹に、女の私であっても煽情的な色っぽさを感じさせた。

「私がもし記憶を取り戻して、また葵のことを『葵さん』って呼ぶようになったら、張り倒してよ」

「おー、いいね!」

 艶やかな見た目にそぐわない、ニカッとした満面の笑み。

「そして今の私のことなんて忘れていいから、記憶が復活した梓をできる限りサポートしてほしいな」

「もう、何回言わせるの。今のあーちゃんも過去のあーちゃんも未来のあーちゃんもみんな、同じあーちゃん。忘れるなんてできないよ」

 そんな台詞を恥ずかしげもなくはっきりということができる梅香に、なんだか私も懐かしいような気持ちを抱いてしまった。

「今日はありがと。すぐにでも面接受けに行くね」

「うん。ちゃんと電話するんだよ」

「うん。分かった」

 彼女は後ろ髪を雑にヘアゴムで束ねて、帽子を深くかぶり、腕のストレッチを始めた。

「まだ歩くの?」

「いや、お家まで走ろうかなって」

「そっか。今度私も誘ってよ」

「うん! 分かった。じゃあね」

「またね」

 そう言って小さく手を振って私が踵を返すと、梅香が反対の方へ走っていく地面を蹴る音が聞こえた。

 気持ちのいい人だった。梅香がいてくれたら、私は安心して葵の躾けに集中できる。

 梓と葵、そして二人を取り巻く背景を含めた事実関係について一通り知ることができたし、履歴書も書くことができた。あとは何より、強力な味方を自分の陣営に加えることができたため、私は上機嫌になって鼻歌を歌いながら帰路についた。


 私は家に帰ると早速求人情報誌を開いて、例の洗車の仕事を掲載している会社に電話をかけた。

 電話はすぐにつながり、少し高めの若そうな男の声が聞こえた。バイトの応募の電話にも関わらず、冗談交じりに気さくに私と接してくれる。イントネーションが少し違うなと思ったが、話していくうちにだんだんと関西弁らしき語尾が付いてくるようになった。

 さっそく明日、直接会って面談をすることになった。仕事も見てほしいから、多少濡れても構わない格好で来てほしいと言われた。どうやら人手不足のようで、面談がどうであれ私にやる意思があれば明日にでも仕事を任されそうな勢いだった。

 通話が終わり、私は出かける前に回しておいた洗濯機から衣類を取り出し、ベランダに向かった。

 今日の天気は快晴で、空には春らしい薄雲の中に小さな綿雲がぽつぽつと浮かんでいる。

 私は意外とこの洗濯物を干すという作業が好きだ。服を裏返してハンガーに通し、しわを伸ばして物干し竿にかける。これを一枚一枚やることを考えると、洗濯機に備えられていた乾燥機能を使った方が当然楽だし、昨日洗濯物を畳んだ感じだと外干しとたいして乾き具合に違いがあるということはでなさそうだったので、はたから見れば無駄に疲れることをしているようにしか見えないのかもしれない。

 しかし、なぜだかこういう考える必要のない単純作業は心を無心にできるので、少しホッとした気持ちになれる。

 これももしかしたら梓の元々の性格がそうだったのだろうか。我慢強く、こういった家事を義務のように捉えず、むしろ自分をリラックスさせる場として利用する。

 梅香から聞いた梓の高校時代のお転婆なエピソードを思い出すと、少し矛盾があるようにも感じるが、大人になって、結婚して、考え方が変わっていったのかもしれない。

 私はますます心の在り方が梓に近づいているような気がして嬉しい反面、「再教育プロジェクト」を絶対に成功させなければならないという気持ちになって、ほんの少し武者震いをした。

 洗濯物を干す作業が終わって、何気なく携帯の画面を立ち上げてみると、また梅香からメッセージが届いていた。

 さっきの別れ際もあれだけ心配してくれたのに、なんていい人なのだろう。

『今日はいつもクリームソーダを頼んで甘いやつばかり食べる子供舌の梓が急に大人びて見えたからびっくりしたよ!』

『些細なことでもすぐ電話していいからね♡』

 私は驚いて腰を抜かし、その場に座り込んだ。

 そのメッセージを見て、これまでぬくぬくと温まっていた朗らかな心持ちが一気に崩れ、血の気が引いたような感覚になったのだ。

 私はてっきり梓の自我の記憶が私の思考に表れ出しているのかと思っていた。しかしこの書き方だと、むしろ今までとは全くの別人になっていたと指摘されているのではないだろうか。

 いや、食べ物の一つくらいで、性格を判断することはできないだろう。梓も毎回甘いものを頼んでいたわけじゃないと思うし、もしかしたらこの部分だけ梅香の梓に対する認知が間違っていたのかもしれない。

「そう深く考えることじゃないか」

 私は誰もいない広いリビングで、自分に言い聞かせるように小さい声で呟いた。


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