表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
せっかく記憶喪失になったから、モラハラ夫を躾けてみた  作者: Libra
第2章 「再教育プロジェクト」
10/24

3話 「そんなわけないよね」

 梅香は最初に梓との関係を教えてくれた。

 彼女と彼女の旦那は高校時代からの付き合いで、梓と梅香は同じ陸上部で知り合ったそうだ。

 彼女の旦那の柳 翔馬という男とは高校時代に1か月だけ交際していたこともあったが、大学に進学して別々の道に進み大人になってからも、3人は定期的に集まって他愛ない話をする仲であったらしい。

 だから私が自殺未遂をする2か月前くらいに、梓から二人に家庭がうまくいっていないという相談をしたことがあったようなのだ。

 梅香は事前にその相談があったことから、梓が自殺未遂をしたということに驚きはしたが一定の理解を示していた。

 どうやら梓と翔馬が二人で話したところを葵の両親に見られたことがまずかったらしく、そこからいろんな嫌がらせを受けたために頻繁に梅香に電話をしていたそうだ。

 そうしてとうとう梓は自分を責めるようになっていった。

 しかし元々、高校時代の梓はそうではなく、むしろ周りから口うるさいと言われるほど明るい性格だったという。

 気になることは何でも口に出して、色んなことに挑戦しようとするアグレッシブな性格だったようだ。

 そんな彼女が大学を出て大人になり、葵と合コンで出会う前に、彼女の性格を真逆に変えてしまうほどの出来事があった。

 それは梓が社会人になってすぐ、二つ年が離れた妹の椿と、彼女の父、茂が自宅の火事によって亡くなったのだ。

 梅香はそのことについて詳しいことは知らないそうだが、そのショックで梓は仕事に手がつかなくなり、無気力で内向的な性格になってしまったそうだ。

 しばらくして心配した梅香が気晴らしに、友達伝いで合コンに梓を参加させてみたところ、そこで葵と出会い、付き合い始めてから3か月もしないうちに結婚にたどり着き、少しは好転したと思われたが、いつも話をすると妹のことを思い出して涙を浮かべる梓の姿は変わらなかったのだそうだ。

 梓が涙を見せ始めると決まってある言葉を口にしたという。

『私だけが幸せになっていいのか』

 梅香は椿の分まで幸せにならないと、と励ましたが、妹の死はいつまで経っても受け入れることができないものだったのだろう。

 葵のモラハラや、彼の両親のプレッシャー、仕事が続かなかった自分の情けなさ、妹との死に別れ、この4点が梓が自殺へ走ってしまった原因じゃないかと、最後にまとめて梅香は話してくれた。

 彼女が死に際の梓の気持ちを代弁してくれる中、声が震え、その瞳から一筋の光がこぼれ落ちたのを私は見た。

 いまだ大粒の光を下瞼に抱えながら、梅香は私の顔を見る。

「よかった。……でも、生きててよかった」

 そう言って彼女はぐすっと鼻で息を吸って、右手の親指の腹で落ちそうな涙を拭った。

 私はその話を聞いて、不謹慎にも記憶喪失になってよかったんじゃないか、と思ってしまった。

 それだけ辛い状況のまま、目を覚ましてしまったとしても、より気持ちは暗い方へ暗い方へ沈んでいき、また同じ末路を辿るだけなんじゃないかと思わずにはいられない。

 実際問題、これだけ正確な梓の情報を聞いても、私はどうしてか他人事のように感じてしまっていた。

 それならいっそ、記憶を無くして一からこの『梓』という人間の人生を立て直していった方がいいのではないかと考えてしまったのだ。

 そう考えてしまうと、余計葵には腹が立って仕方ない。

 もしかしたら記憶を明日にでも取り戻してしまって、私の今の人格がなかったものになってしまうかもしれない。

 今すぐにでも、梓が目覚めてくれる未来のことを考えて、私は行動しなければならないと悟った。

「ありがとう。『梓』のことを心配してくれて」

 私がそう言うと、梅香は

「何それ」

と、大きく息を吐いてはっきりと言った。

「記憶を無くしていても、あーちゃんはあーちゃん。他人事のように言わないで」

「ごめんね。……ありがとう」

 彼女のひたむきな視線に私は返す言葉が見つからなかった。

「はぁ、あーちゃんが泣かせるから、せっかく温めてもらったクロワッサンもお茶も冷めてしまったじゃん!」

 梅香は調子を取り戻して、チョコ味のクロワッサンに口を大きく開けて噛り付いた。

 小指と親指を限界まで伸ばしても超えてしまうくらいの大きなクロワッサンだったが、彼女の一口はその半分まで達していた。

 私もクロワッサンを一口サイズにちぎって食べる。

 全てを話し切ったような達成感があったが、そもそもの本題があったことを思い出した。

「ところでさ、私、もう自殺なんて考えないように生き方を一新しようと思うの」

「んーんっん?」

 口にまだ残っている梅香は言葉にならない返事をする。イントネーション的には「どうやって?」と言っているように聞こえた。

「諸悪の根源であるモラハラ野郎を一から躾ける『再教育プロジェクト』を立ち上げようと思う」

「んー!!」

 梅香は私の言葉に目を輝かせて、必死に口の中にあるものを飲み込み、テーブルに肘をついて前のめりになり、自分の顎をさすって怪しい笑みを浮かべた。

「いいね。くわしく」

 彼女の笑みに私もつい興が乗る。

「プロジェクトの目的は、葵が私を一人の人間として思いやるようになり、記憶を取り戻してももうモラハラに怯えない生活を送れるようにすること!」

「そして!」

「『そして』?」

 思いもよらぬ接続詞の相槌に、私は勢いにブレーキがかかって首を傾げてしまった。

「いや、その後のことだよ」

「『後』って何?」

「夫婦仲良くよりを戻したら、することは一つでしょうよ」

「?」

 いまだに答えが見つからない私の表情に、ニヤニヤと悪い笑みを濃くして、彼女は立ち上がり、私の左耳に口を近づけた。

「セックスだよ。セックス」

 いきなり耳を蝕んだ卑猥な言葉に、私は思わずのけぞって、左耳をゴシゴシと手のひらでこすった。

「なんでそんな話になるの!」

 梅香は私の狼狽える姿に声を出して笑う。

「だって大事でしょ? あんたら結婚してまだ一年もしてないのに半年以上前からセックスレスなんだから」

「もう、声に出すな!」

「顔真っ赤。ウケる」

 そう言いながら腹を抱えて笑い、椅子に座り直した。

 私の頬の熱は限界に達していたが、彼女があんまりにも笑うものだから、耳の方まで熱くなっているのを感じた。

「その……、そんなにしてなかったんだ」

「そうだよ。モラハラよりそっちの方を心配してたんだから」

 梅香の悪い冗談に私はしかめっ面をして、表情で訴えかけた。

 梅香は「はー」と大きく息を吐いて、笑いを落ち着かせる。

「でもホントに大事だと思うんだよ」

「それはそうだと思うけど。確かに昨日1週間ぶりに帰ったのに、そんな素振り一つ見せなかったな」

「あーちゃん結構前から気にしてたからね」

「……もしかして浮気とか?」

「それはないんじゃないかな。葵くんああ見えてかなり一途だし」

「じゃあ、なんでだろう」

 そう私が不思議がると、梅香はほんの少し暗い表情になった。

「葵くん、子供が欲しくないんだって」

「あー……、そういうこと」

 気まずい空気が流れる。

 葵が一生懸命働いて家計を支えていることは、記憶喪失の私でも理解していた。その姿勢に梓に向けられた愛情があることも感じていた。しかし、そういった思想的な部分に関しては、『再教育プロジェクト』の課題として取り入れるべきか、慎重に検討しなければならないと、考えさせられたのだ。

「まあ、子供がどうであれ、やることはやったほうがいいよ」

「……そうだね」

「私なんか翔くんと毎晩してるから」

「そうなんだ」

 乾いた笑いが出る。

 梅香もすぐにそのことに気づいた。

「そっか、記憶がないんだった。気づかなくてごめん」

「いいよ。気にしなくて」

「でも、……そうだよね。一応、訊いてみてもいい?」

「何を?」

「今のあーちゃんの葵くんへの気持ち」

「うん」

「葵くんのこと、好きになれる?」

 私は大きく溜息をついた。

 建前で済むことをわざわざ口に出さなくてはいけないのが、こんなにもストレスに感じるとは知らなかった。

「そんなわけないよね」

 私は梓だけど、今の私の心は梓ではない。

 葵を更生させたい想いは、あくまで今後の梓のため。

 そこに彼に対する『好き』の気持ちなんて、生まれるはずがなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ