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巨大な赤黒い雲がゆっくりと渦巻いている。まるでトグロを巻いて獲物を睨む毒蛇のよう。
日の光が全く差さない、というよりここには最初から太陽が存在しない。その代わりに、不気味な空の色が明かりになっている。
小中学校の校舎と、校庭と体育館。それらは揃っているが、体育館以外は全て偽物。
ここは暴風リンの創った亜空間だ。体育館ごと生徒たちをここに連れてきた犯人、暴風リンは今、その体育館の屋根の上にいる。
「よし。今のところ全て順調だ」
体育館は、まるで火災に見舞われているかのように見える。暴風リンの足元、体育館の屋根や壁からもくもくと立ち上る黒い煙……のような暗い霧が、空へ吸い上げられている。赤黒い雲の、渦の中心部に向かって。
霧の正体は、生徒たちの恐怖。
雲の渦は、邪神召還の門。
雲を開ける鍵が、霧。
「白の女神め、仮にここを突き止められても、来ることはできまい。追跡ができるほど強力な黒魔術師を捜し、転移ができるほどの人数を揃える頃にはもう、手遅れだ」
石のような肌と尖った耳、短いが鋭い牙の並ぶ大きな口、身に纏うは古びた革の鎧、そして頭の上で渦巻く、手の平サイズの小さな竜巻。
用務員さんの人格を乗っ取り、その肉体から抜け出して、前世での肉体を授かった暴風=デコロス=ゴブリンだ。
「あの女を倒し、陛下をも超えて、この俺が頂点に立つ……フフフフ」
風を司る者、暴風リン(自分)を象った首飾りを弄びながら、暴風リンは己の勝利を確信して笑みを洩らした。
暴風リンが屋根の上で笑っていたその頃。
その足元の屋根の下、体育館の入口脇にある男子トイレの個室に一組の男女がいた。というより、いきなり現れた。
空間の壁を突き抜けて現れた少女と、それにくっついてやってきた少年だ。
「え……と? あれ、何だこれ?」
少女こと女神二号ことア―サ―は、視界が歪んだと思った次の瞬間、狭い個室の中にいた。そして視界一杯に広がっているのは、赤い薔薇の大きな花束。
首を捻ってその花束の向こう側を見てみると、そこにいたのは……
「えっ、オデッ君?」
その声を聞くなり少年ことオデックは、後ろ手に素早くドアを開けて個室を出て、その場に跪いた。
そして、大きな大きな花束を、ア―サ―に向かってずいと突き出す。
「どこで聞いたか気付いたか、このボク様のその呼び名、もうご存知とは光栄だ」
「ぎくっ」
「でもでもキミは女神様、なんでもかんでもお見通し、きっとそういうことなのだろう」
「そ、そうそう。そういうことで」
「ならば当然無論のこと、このボク様のアツい想い、キミはとっくにお見通し……」
その時。場を支配していた甘いム―ド(オデック限定)は、いきなり打ち砕かれた。
絹を裂くような悲鳴、ではなく、大地が割れるような悲鳴で。
「⁉」
ア―サ―が、さすがにオデックも、声のした方を見る。
そちらにあるのは、このトイレの出入り口のドア。そのドアの向こうは体育館で……
「そっか、ここは体育館のトイレだ!」
ア―サ―は慌ててドアに向かった。
オデックもその後を追う。花束はとりあえず(ど―やってか)懐に収納して。
ア―サ―がドアのところまで来て、ノブに手をかける。と、カユカの声が聞こえた。
《来々世。この空間に漂うておる魔力から察するに、おそらく皆は供物にされておる》
「くもつ?」
《神、まあ邪神じゃろうが、ソヤツへの献上の品じゃ。エサと言うても良い。それと引き換えに、神の力を授かろうという魂胆なのじゃろう》
邪神に捧げるエサ。
それはつまり……
「ま、まさか生贄?」
冗談じゃないっ! とア―サ―はドアを開け、体育館に踏み込んだ。
そこに広がっていた光景は、
「っ!」
悶絶し、のた打ち回る七百人。
体育館全体に広がる、大きな大きな、一枚の地獄絵図だった。
「こ、これは……」
剥き出しになった自らの腕の骨を見て、絶叫する少年。
ちぎれた片足を捜して這い回り、見つけたと思ったら足首から先がない、と泣く少女。
食べた覚えのないムカデやゴキブリが、次から次へと口から出てきて呻く先生。
腕が、足が、ムカデがゴキブリが……という悲鳴が、苦悶の叫びが、ア―サ―の耳を抉る。
しかし体育館の床には一滴の血も流れていない。腕も足も転がっておらず、ムカデもゴキブリもいない。ア―サ―の耳には悲鳴や叫びが聞こえているが、ア―サ―の目には血や虫は見えていない。
《解るか、来々世》
カユカの声が淡々と説明する。
《皆、おぞましき幻術の虜となっておる。その内容はソナタが今聞いておる通りじゃ》
「……」
確かに幻術だ。体育館の床に、血は流れていない。だが脂汗と涙と涎、そして胃液はあちこちに溜まっている。
幻の世界の中で、腕を切られたり足をちぎられたりしているからだ。
《此度の敵はこの者たちを生かさず殺さず、純粋に苦痛のみを与え、それによって死への恐怖を搾り取っておる。先に言うた通り、供物とするためにの》
「……ひ、ひどい……っ!」
ア―サ―は、授業で習ったことを思い出した。高度な幻術は目に見せるだけでなく、痛みや熱さなどを感じさせることもできると。
もちろん幻は幻なので、ケガや出血はしない。だが被術者本人の感覚では、実際にそうされているのと全く同様である、と。
《来々世よ。皆を救うには、一刻も早く術者を倒さねばならん。さ、まずはその辺の壁を壊して外に出よ。それから、》
「……待って。その前に」
ア―サ―は、大きく息を吸い込んだ。
こういう場合、応急処置としてできることが一つある。これも授業で習ったことだ。
「みんな、しっかりして! 僕です! 女神二号です!」
思いっきり精一杯、ア―サ―は叫んだ。
「……え、な、何? 今の、もしかして、」
「あの……女神二号、さん?」
肩を押さえながら、あるいは足を引きずりながら、あるいは喉笛を掻き毟りながら、何人かの生徒たちがア―サ―の声に反応した。そして声の出所を探し、きょろきょろし始めた。ア―サ―のすぐ目の前にいる子も。
おそらく誰も、体育館の床や壁は見えていないのだろう。幻術の効果により、ここを地下の拷問室か、あるいは人間屠殺場か、そういう場所だと思っているに違いない。
だが、今その幻の中に、別の幻がぼんやりと浮かんでいるはずだ。天から舞い降りた白い戦装束の少女が、助けにきてくれた幻が。
残念ながらまだ、救出成功というところまではスト―リ―が進んでいないようだが。




