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 金田は描いた、一日中描いた。帰ってから、風呂も寝食も忘れ、ただ描き続けた。寒さも気にならなかった。気づいたら朝になっていた。それでも手は止まらなかった。湧き上がってくる膨大なアイデア、むしろ感情。キャラクター。これか、これだ、こうじゃねー、ここは違う。何度も何度もやり直していく。正解を辿っていく。正解はあるはずだ。答えはあるはずだった。それを見つけろ。それを探しだせ。自分で描きすぎるな。自分も大事だがこれはそれがすべてじゃない。これは間違っちゃいけないんだ。これは絶対じゃなくちゃいけないんだ。これは、桧原たった一人に読ませるためだけの漫画だ。桧原のためだけの漫画だ。あいつが読むための、漫画だ。だから自分のものであって自分のものではない。自分ひとりのものではない。共作。作者と、読者。自分と、桧原。その二人で、読む者がいて、初めて完成するもの。


 体が痛む。気づけば約二〇時間ぶっつづけで描いている。その前から考えれば一日半は起き続けている。さすがに睡魔に襲われる。金田はそのまま横になり、アラームをかけ一時間だけ眠る。アラームで飛び起きすぐに続きを描き始める。エナジードリンクを胃に流し込む。飯を咀嚼しながら描き続ける。完璧を、ただひたすらに完璧を求めて。


 それはこれまでの漫画とは違う。明らかに違う。初めて描いた漫画のような、ただ自由に気ままに思ったままに描いたものではない。ただ純粋に子供の遊びとして、欲望のままに描いたものとは違う。そのあとのネームだって。基本は思いついたまま。話を、キャラを、真剣に考えたことなどない。


 けれども今は違う。その細部まで、とにかく神経を巡らせている。これまでにないくらい頭をフルに活動させている。存在のすべてをかけて描いている。自分ひとりじゃない。自分の中に他者を持つ。読者を持つ。桧原伊織を、持つ。


 桧原の声が聞こえる。そこは違う。そこはそうじゃない。なにやってんのあんた。それはすごいいい。そこは流れが悪い。頭の中で桧原が導いてくれる。それは今までと、何も変わらない。これまでだってずっとそうだった。何度となく桧原に導いてもらった。そうしてようやく描けたのだ。ただここにいないだけ。ここにいないけど、ここにいる。


 すげえ、すげえぞ桧原。俺は今漫画を描いてる。多分初めて本当に漫画を描いてる。俺が、漫画を、描いている。これは俺が描いてる漫画だ。俺が自分で、自分の意志で、自分の体で描いてる漫画だ。


 そして絶対、俺にしか描けない漫画だ。



 金田は描いた。描いた。描き続けた。そうしてようやく、文句のないネームを描き終えた。はじめから読み直す。これだ、これならいい。これなら大丈夫だ。


 描きたい。早く描きたい。早くこれを描きたい。完成させたい。気持ちは逸る。けれども、肉体は限界に近づいている。焦るな、この状態ではろくに描けない。この状態では続かない。満足な絵も架けない。ベストのコンディションで。丁度ネームを終えたし、丁度時間も夜だ。


 描くために、休むんだ。完成させるために、完璧なものを作り上げるために、休むんだ。


 金田は飯を食う。風呂に入る。そうして布団に入り眠る。


 夢を見ないほど、純粋な真なる眠りであった。



     *



 朝が来た、新しい朝が。二日連続のズル休み。金田はどうしてもやらなければならないことがあると母親に土下座して頼んだ。友達のためにどうしても今すぐにやらなきゃいけないことがある。一生のお願いだから頼むと、生まれて初めて土下座をした。母親もその異常な熱意にやられズル休みを、仮病を認めた。金田はバカであったが学校を仮病で休むなどということは初めてであった。これまでずっと通い続けてきたのだから、数日くらいは大目に見るかと。


 そうして金田の新たな一日が始まった。


 といっても何も変わらない。描く。描くだけ。描き続ける。ネームを見ながら今度は下絵。もといペン入れをするつもりはない。そんな時間はない。そこまで時間をかける必要はない。この漫画には、ペン入れの有無は関係ない。それがなくたって通用する。それがなくたって。届く。届かせる。そういう絵を、そういう線だけを描けばいいのだ。


 この二ヶ月の絵の練習の成果は、出ることには出ていた。とはいえ圧倒的に練習は足りない。すこしポーズが違えば途端にうまく描けなくなる。そういう時にはふと「桧原ー」と顔を上げそうになる。でも彼女はここにはいない。この部屋にはいない。この部屋には、自分の部屋には自分一人きりだった。桧原に頼らず、桧原の見本なしで描く必要があった。そういう時はデッサン人形を見た。デッサン人形も買っていた。絵の練習、ポーズの練習にはある意味不可欠。それさえあれば、まだそらではポーズが描けない金田でも表面的にはなんとかなった。


 描く。とにかく描く、一人で描く。一日中描く。体のあちこちが痛くなる。ストレッチをする。腹も減る。飯を食う。飯を食うと出るものも出る。エナジードリンクも流し込む。とにかく一日中描き続け、また夜がやってきた。


 一日では終わらなかった。当たり前だ。何ページもある漫画を、まだ漫画を描き始めて四ヶ月程度の金田が一日で完成させられるわけがない。下絵だけとはいえ、鉛筆だけとはいえ、綿密に描き込んでいるのだ。それは一日で終わるような作業ではない。絵が下手だから、一発で簡単にさらさらと完璧な絵を描けるわけではないから、どうしても時間がかかる。わかっていたが、それでももどかしかった。もっと絵がうまかったら、もっと速く描けたらと思う。こうしている間も桧原は一人部屋の中で丸まってるのかもしれない。一人で辛い思いをしているのかもしれない。そこから、少しでも早く助け出したかった。


 けれども、ふと疑問に思う。本当にこれでいいのか? こんなことをしている場合なのか? こんな漫画を描いて、自分は何か間違ってるんじゃないのか? これが本当に正しいのか? 最良で最善で唯一の選択肢なのか? こんなことをしても無駄じゃないのか? 漫画なんか描いて、こんなもので、本当に桧原を助けられるのか? あいつの気持ちを、少しでもマシな方に変えられるのか?


 俺がやってることなんて、俺なんて、全部無駄なんじゃないのか?


 わからない。答えなどない。悩むだけ無意味だ。考えるだけ時間の無駄だ。


 だって俺はバカじゃねーか。なんもわからねーじゃねーか。でも、それでも信じて、これしかないって、これがやりてーって、これなら、漫画なら桧原と繋がれるって、何かを変えられるって、そう思ったんじゃねーか。


 信じろよ。信じろよ。信じんだよ。俺にできることなんてそれしかねーじゃねーか。信じる以外に、信じて描く以外に、できることなんてねーじゃねーか。


 信じろ、信じるんだ。自分自身を。漫画を。自分が描く漫画を。この漫画を。


 信じろ、信じるんだ。漫画は人の心を変えられるって。漫画で世界を変えられるって。


 俺の漫画は、あいつに助けになるって、信じろよ。俺が信じねーで、誰がそれを信じられるっつうんだよ!


 金田は描く。描き続ける。バカはいい。バカでよかった。バカは単純で、素直で、だからバカみてーなことも信じられる。バカみてーな夢も理想も目標も、信じられる。


 バカの夢見る理想だけが、ほんとに世界を動かせるのだと。



 夜が来る。眠る。また朝が来る。描く。描いて、描いて、描きまくる。


 日が沈む頃、ようやく最後のコマを、描き終えた。



 ――終わった……終わったぜちくしょう! 描いた、描ききった、完成した! たった三日だ! 三日もかかったけどたった三日だ! 俺にしては上出来すぎるだろ!


 そうして描き終えたばかりの漫画を読みなおす。自然、笑みがこぼれてくる。それはおかしいから笑うのではない。もっと狂喜に近い、歓喜に近い、漠然と大きなものに遭遇した時に思わず溢れるような、そういう笑み。


 すげえ……すげえじゃんか……なんだよこの漫画は……これなら……


 いや、違う。同じだ。これなら、という話ではない。そんなことはどうでもいい。


 ただ桧原に見せたかった。桧原にも読んでもらいたかった。この漫画を、桧原と共有したかった。思いなど、ただそれだけだった。


 金田は立ち上がった。途端一日中座ってたせいで脚が痛み腰が痛み思わず転びそうになる。関節は硬い。たった三日でひどく足腰が衰えてしまったように感じられた。けれども、そんなことは関係ない。今すぐに、すぐにでも、これを桧原に読ませなければ。読んでもらいたい。


 そして、あいつのあの笑顔を、見たい。


 金田は駆け出した。原稿をファイルに入れカバンに詰め込み、部屋着そのままに上着だけ羽織って飛び出した。


 金田は走った。また走った。三日ぶりの激走。なんか俺走ってばっかじゃん、と自分でも思う。足は痛い。膝が痛い。ずっと座ってたせいで固まっている。うまく動かない。ずっこけそうになる。それでも走る。走るしかない。走る必要などある意味ではなかったのだが、そんなこと関係なく金田は走った。走る以外にやり方を知らなかった。気持ちの行き場などなかった。


 走れ。急げ。少しでも早く。ただあいつのもとに行くために。


 ――ハハッ、なんだよ俺、めっちゃ青春してんじゃん!


 金田は笑う。笑みがこぼれてくる。最高じゃんか。これが俺の青春だろ。これが俺の人生だろ。漫画描いて、漫画描いて、走って。


 そんで、一番好きな友達のところに急いでいる。ただ漫画を見せるためだけに。一緒に読むためだけに。


 ただその笑顔を、見るためだけに。


「うおおおおおおおおおお!」


 金田は吠えた。最高の気分だった。だって俺は高校生じゃねーか! これが青春じゃねーか! だったら叫んだっていーじゃねーか! 今叫ばねーでいつ叫ぶんだよ!


 これも全部漫画のおかげだ。いや、この漫画のおかげだ。この漫画が俺の背中を強く押してんだ。押し続けてくれてんだ。俺の心臓を動かして、叩いて、足を前に前に運ばせてんだ。呼吸をさせてんだ。生かしてんだ。


 俺に命を、使わせてんだ。


 走ること。漫画を描くこと。友に会うこと。友と笑うこと。一緒に、生きること。


 それ以外に、それ以上の命の使い方なんて、他にあるだろうか。




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