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「ははは、いやーいいよねー金田くん。ほんといいなー彼。桧原さんさ、ほんとよかったらでいいからどうして彼と漫画描くようになったか、漫画見せるようになったのか教えてもらえない? 男女ってなるとほんと経験ないから参考程度に聞きたくてさ」
「あ、はい……その……私、七月まではその、学校に行ってなくて……」
「ああ」
「それでその、その時金田が、金田くんがなんか担任の先生から留年取り消すために私のこと学校連れてこいみたいに言われたらしくて」
「留年ってほんとだったんだ」
「はい……それでその、彼が家に来たんですけど、そこでその、漫画の話になって。私も漫画好きでしたし、彼もすごい好きで詳しくて、そこで意気投合したっていいますか……それでその、うちには親のとか含めて漫画いっぱいあったんで、それ金田くんが読みたいって言うから読ませて、それで家に上げて……それから流れで私も漫画描いてるみたいな話になって、読みたいって言われて、私も誰にも見せたことなかったんで純粋に感想欲しい部分とかはあったんで、それで見せて、って感じです……」
「なるほどねー。彼らしいっていうか。そんなまだ彼のことなんか知らないけどさ。いや、脱線したね。それじゃ早速見せてもらいますね」
田中はそう言い、桧原の原稿を読み始める。その速さたるや。桧原もわかってはいたが、目の前でそれをやられるのはたまったものじゃない。ほんとにそれで読んでるの? 読めてるの? もっとちゃんと読んでよ、と抗議も入れたくなる。けれどももちろん自分はそんな立場にはない。ただ黙って受け入れるのみ。第一漫画とはそういうものなのだ。自分も含め、ほとんどの読者なんてそういうふうにしか読まない。だからこれで正しいのだ、と。
田中は高速で一度目を読み終え、その後少しゆっくりとしたペースで二回目を読む。それに桧原は少し安堵する。ちゃんと読んでもらえているというのと、少なくとも二回読むに値するものであったのだと。そうして田中は原稿を机の上に置き、顔を上げた。
「読ませてもらいました。桧原さんさ、これはどれくらいで描いたの?」
「えっと、その、だいたい二ヶ月くらいです……」
「てことは前の賞に出してすぐにこれに取り掛かった感じ?」
「はい……一応ネームというか、プロットはその前から軽くありましたけど、それをもとに始めた感じです」
「そっか。筆が速いのはいいことだよね。高校生で学校とかあるのにこれならかなり速いだろうし。意欲もあって。今は学校行ってるんだよね?」
「はい、毎日行ってます」
「そっか……まずもちろんだけど、絵は合格点だと思います。描けてるよやっぱり。たださっきと同じでまだ画が、画面が多少単調だけどさ。ポーズは描けてるけど構図というか、目に入った瞬間のインパクトがね。表現力。そこはまー色んな漫画家の漫画見て真似して勉強して。けど漫画表現はもちろん悪くないし、ネームはちゃんとしてるし。総じて非常に読みやすい漫画でそこはすごくいいと思う。漫画はやっぱり絵だからさ。目に入る情報で。そこでごちゃごちゃしてるとどうしても読もうって読者も思わないから。だからそういう意味では一番大事な部分はできてると思うよ」
「そうですか……あの、ストーリーの方はどうでしょうか」
「うん……桧原さんはさ、すごく意欲があるっていうか、向上心がある人だと思うからこっちもちゃんと言うけど、読んでる身としてはね、桧原さんはまだ自分の言いたいこととかないんじゃないかな」
「――言いたいこと、ですか……?」
「うん。描きたいことっていうか、表現したいこと。物語。ストーリーの部分で。この話が描きたいうとか、これが言いたいとか。そういうのがさ、正直読んでてもそこまで感じられなくてね」
「そう、ですか……」
「うん。ちゃんとさ、起承転結とか三幕構成とか、そういうプロットの基本みたいなのも勉強してそれに倣って描いてるっていうのはわかるんだよ。ちゃんとそう描けてるし。でもだからこそワンパターンだし、そういう形の方にばっかり引っ張られてて肝心の物語の肝、この物語で何を見せたい語りたいのかとか、キャラクターの部分とかが全然っていうかさ。表面だけで。引き合いに出してというか、比べてほんとに悪いんだけどさ、わかりやすく言うと金田くんのはそこがちゃんとしててね。もちろんあの感じだとそんな真剣に考えてやったわけじゃないとは思うんだけど、でもだからこそっていうかさ。自分の描きたいとか好きとか、そういう欲望に忠実で素直で。ほんとに取り繕うとこも偽るところもなくて。だからまっすぐで、だからちゃんと刺さって。そういう意味ではラブコメっていうのもすごいやりやすい題材ではあると思うんだけどね。ラブコメなんて究極的には『好き』っていう気持ちを描くだけだし。
でもそのさ、気持ちの部分。感情。それが正直見えてこないっていうか、だからそこまで感情移入できないし乗れないし。そこがものすごく、桧原さんの今の課題だと思う。だから正直、はっきり言うけど、これをこのまま続けててもプロの漫画家にはなれないと思う。自分で原作もかく漫画家としては」
「……そうですか……」
「うん。多分だけどさ、桧原さんにも結構焦る気持ちとかはあると思うんだよ。でも今はさ、経験の方も大事かもね。描くのは、ストーリー作るのはいったん休んどいて、インプットっていうか吸収をさ。自分の経験を。話聞いてる限りじゃ漫画とかはたくさん読んでるんだろうけど、でも、これを言うのもキツイと思うし失礼だとは思うけど、不登校だったっていうとやっぱりどうしても他の人と比べれば自分自身の経験っていうのは足りないだろうし。だからこそ生の感情っていうか、自分自身の体験としての感情がなくて、生きてこなくて。全部借り物だから感情も乗ってこなくて。会ったばっかでなんにも知らないのにこういう事言われるのもむかつくだろうけどさ、でもこれまでの漫画を読んでて俺はそういう印象を受けたんだよ」
「……わかりました……」
「うん。まーでもさ、そんな気落ちしないでよ。繰り返すけどまだ君も高校生なんだし。まだまだこれからじゃない。漫画ってさ、多分自分が何を信じてるのかっていうのが出るもんだと俺は思ってるんだよね。俺は漫画なんて描いたことないけどさ、でも仕事でやってて、色んな漫画家に会って色んな漫画読んできて。そうするとどうしてもさ、どれだけ取り繕うとしても、その漫画には個々の漫画家の自分が信じてることがどうしても出るっていうかさ。ほんとに信じてることが。
で、やっぱ何を信じるかなんてさ、経験によってしか担保されない部分あると思うんだよね。自分が実際に経験したこととそうじゃないことなら絶対経験したことのほうが信じられるじゃん。人間ってそういうもんだし。感情とかさ、夢とかそういうのも、同じだと思うんだよね。だからまあ、もちろん色んな作品、漫画だけじゃなくて小説とか映画とかアニメとか見るのもすごく大事だとは思うけど、それだけじゃなくて経験をさ。自分の経験。人と話して、友だちと遊んで、まーバイトとかもそうだし。どこか行って。そうしてるとどうしても色んな経験して、その度自分の中に色んな感情生まれて。そういうのがさ、漫画の、ストーリーんの、キャラの源になるんじゃないかな。まー説教臭くて悪いけど、桧原さんにも伸びしろっていうか技術に能力があるのは間違いないからさ、それに真剣だし、本気だし。だから厳しいこと言うようだけど、君もそれを望んでるだろうし受け入れるだけのものがあると思って言わせてもらったから。だからその、期待してるからこれからもがんばってね」
「……はい。その。お時間いただいて、本当にありがとうございました……」
「うん。金田くんにもよろしく。ほんとさ、会ったばっかだし君たちのこと全然知らないのにこういう事言うのもあれだと思うけど、多分金田くんと一緒なら大丈夫だと思うよ。彼と一緒なら色んな経験できるだろうし、色んな感情も分けてもらえるだろうし。桧原さんもさ、彼と会って、それで不登校から学校行くようになったわけなんでしょ?」
「……はい」
「それはさ、もうものすごい変化でしょ。すごい一歩で。そこから四ヶ月でさ、こうしてうちまで持ち込みにまで来てるんだし。賞も送って。それはすごい変化じゃない。だからこれからも色んな経験できるし、どんどん色々変わると思うよ。何度も言うけどまだ高校生で可能性なんて無限なんだからさ。そうしてれば漫画だって、絶対変わるだろうし」
「……わかりました。本当に、ご親切に、どうもありがとうございました」
「うん。あーそうだごめん。この原稿だけどどうする? こっちで受け取っといて賞に回すとかもできるけどさ」
「……いえ、こちらで持ち帰ります。自分でもう一回、ちゃんと見直しますので」
「それがいいね。それじゃ、気をつけてね」
田中はそう言い、編集部をあとにする桧原を見送るのであった。
「おー桧原ー。終わったかー」
エレベーターまでの途中、机や椅子が置かれたスペースで金田が呑気に手を振る。
「あぁ……いたんだ」
「そりゃいるだろー。お前置いてって勝手に帰ったりしねーって」
「そっか……」
「おー。けどやっぱおもしれーなー出版社って。色んな人いてよー。多分何人も漫画家通ってんだろうなー。顔知らねーだけで俺たちが読んでる漫画の作者とかさー。けどそういう中で絵ー描いてっとなんか自分も漫画家なった気がしてきてすげーやる気でるよなー!」
「そう……」
「あー。んじゃ腹減ったから飯行こーぜー。桧原なに食いてー?」
「……私あんまり食欲ないし……」
「そっかー? でもなんか食わねーとだろ。少しでいいからよー。んじゃ軽いもんのほうがいいなー。んで俺は俺で結構食えるもん。まーハンバーガーでいいかー? でもなー、せっかく来てハンバーガーもあれだしよー。桧原どっか行きたいとこあるとか言ってなかったっけ」
「……まあ、別にいいけど、神保町はカレーとか喫茶店とか有名だから……」
「カレーかー! いいなーカレー! 俺カレー大好きだしそれならがっつり食えるぜー! 喫茶店ならサンドイッチとか桧原も軽くつまめるもんあるだろうしよー。けどせっかくカレーの有名なとこ来といてカレー食わねーんじゃもったいなくね? ご飯少なくしてもらってカレーにしたら? 残しても俺食うしよー。けどそーいうのもマナーなってねーのか?」
「……なんでもいいんじゃない? 別にカレーでもいいし」
「あーそう……桧原なんか言われた?」
「……なんかって?」
「そりゃなんかだろー。色々」
「そりゃ何かは言われるでしょ。漫画見せたんだし、言ってもらうために見せたんだし」
「そうだけどよー……まーとりあえず飯食おーぜ。飯食わねーと元気も出ねーんだしよー」
金田はそう言い、エレベーターのボタンを押すのであった。
そうしてやってきた神保町のカレーが有名な喫茶店。そこでも終始桧原は口数少なく、盛り上げようとはしゃぐ金田の言動にも今ひとつ反応しない。
「――桧原よー、色々あったのはわかっけど飯食う時くらいは元気だそーぜー。じゃねーと飯もマズくなっちまうじゃねーかー。せっかくのカレーなのにもったいねーしよー」
バカなあんたに何がわかんのよ、と思いつつもさすがにその言葉はぐっと飲み込む。
「まーさー、なんか話したいことあったら遠慮なく話せよ。なんでも聞くぜー? うまく返せっかは別だけどよー」
「……いい。それは私が、自分で考えることだから……」
「そっかー? まーお前がそー言うならしょうがねーけどよー。でもさー、どーするよあの話。俺が原作で桧原が作画で共作でとかいう話さー」
「……今はその話もしたくない」
「そっかー? じゃあいいけどよー。まーでもさー、やっぱ出版社の人間って言ってもすげー大人でちゃんとしてたよなー。なんかよー、漫画とか読んでっと編集者なんてすげー人でなしみたいに描いてあんのばっかだけどよー、すげーふつーにいい人だったし。とりあえず一安心って感じはあるよなー」
「かもね……」
「……まあさー、俺もこういうの得意じゃねーけどよー、ほんとなんか言いたいこととか吐き出したいことあったら言っていいんだぜ? 俺バカだけどよー、でも桧原がヘコんでんのはわかるしなー。力なれっかわかんねーけどよー、俺だって桧原の力になりてーし」
その言葉に、桧原の中では様々な感情が沸き起こる。あんたに何がわかんのよ。誰のせいでこうなってるって。ほとんど漫画家失格みたいなこと言われて。それをあんたみたいなバカが、バカなくせにいきなり賞もらって、あんなに褒められて。何も考えずに、呑気に、全然真剣に漫画なんて描いてないくせに、本気で漫画家になりたいわけでもないのに。そんなあんたに、私の気持ちなんか、わかるわけないくせに……
そんな言葉を、ぎゅっと唇を噛み締め、ズボンを握り、ギュッと押し込む。そんな言葉、そんな酷いこと、金田になんか言えるわけがない。言っていいわけがない。金田は何も悪くない。金田は、ほんとうにただ自分のことを心配して、思ってくれてて。いつも優しくて、こんな私を受け入れてくれて、それにいつも助けられてて、ほんとうに、金田のそういうところに、いつも救われてて、好きで……
それなのに、今はこの呑気なバカが憎たらしい。妬ましい。自分が欲しい物をいとも簡単に、なんの努力もなく手に入れるこの人間が、好きなのに、妬ましい。なんであんたは、なんであんたが、なんであんたばっか……なんで私じゃなくて……
私が悪いの? 不登校だった、学校に行かなかった、うまく友達が作れなくて、人付き合いが苦手で、だからそういうものから逃げてて、そういう私が、全部悪いの? 私のせいなの? そういう嫌なことだって全部私が悪かったの? 私のせいなの?
色んな言葉が浮かぶ。自分ひとりでは耐えられない。抱えきれない。だからといってそれを金田には言いたくない。金田には、言えなかった。見せられなかった。見せたくなかった。自分の嫌な部分、ダメな部分。あまりにも幼稚で、ガキで、自分勝手で、ワガママで。そういう嫌な自分。
迷惑している。金田だってこんな女は嫌なはずだ。面倒くさくて、幼稚で、自分のことしか考えてなくて、重くて。愛想を尽かされる。嫌われる。でもそんなのは嫌だ。金田なら、そんなことは言わないだろう。そんなこと微塵も出さないだろう。ほんとにこいつはただのいいやつで、ほんとにいつも呑気にへらへら笑ってて。でもだからといって、それに全部よりかかってはいられない。全部背負ってもらってはいられない。
泣きそうになる。でも涙は見せられない。彼の前で、泣きたくなんかない。意地。強情。それもあるが、嫌われたくない。見放されたくない。金田にまで見放されたら、自分にはもう誰もいなくて、何もなくて……
でも、何よりも。彼のことが好きだから。だから桧原は、そんな自分は嫌で、許せなくて……
「――ごめん金田」
「あー? 何がー?」
「……こんな、一人で喋んなくなって、塞ぎ込んで、機嫌悪くなって……そういうのほんと感じ悪いし、ガキだし、金田にだってすごく嫌な思いさせてるだろうし……」
桧原はそこまで言って、言いよどむ。言葉がうまくでてこない。喉の奥が熱い。溢れ出しそうなものを必死に堪える。それを、気持ちを、相手への気遣いを、言葉に出せただけで桧原にとっては大きな一歩だった。けれども彼女にとってはそんなことはどうでもよかった、考えもしなかった。ただ一心に、許されたくて。見放されたくなくて。そんな自分が、心底嫌でたまらなくて。けれども、そんな自分すら受け入れられたい、金田なら受け入れてくれるという甘えと欲。
「別にー? 俺はんな気にしてねーよ。ガキとか言うけどよー、誰だってなんか色々言われたらそうだろー? 何言われたかなんて知らねーけどよー、でも自分が一番好きなもんで、自分の一番大事なもんで色々言われたらさー、そりゃ色々思うし傷つくし落ち込むしよー、そうなったら一人でそうなんのもふつーじゃねーかー。俺みたいなのがおかしいだけでよー、ふつーそうだしこっちだってわかるしなー。逆にそういう時に俺みてーなうぜーのと一緒じゃ疲れるだろーしよー。だからなー……ほんと俺バカだからよくわかんねえしうまくいえねーけどよー、でもまー、いいんじゃね? 別にいーだろそういう時があっても。人間なんだしよー。どうしても一人になりたいなら一人になればいいしなー。俺は待つし待つなっつうなら待たねーし。桧原がしたいようにすればいーだろー。俺はそれに合わせるだけだかんなー。でもまー、何があってもどういう時でもよー、友達だし一緒だし力なっからなー。別に一緒じゃなくても一緒だしよー。何言ってんだって感じだけどまーそういう気持ちだしさー俺は」
「……ありがとう……ほんとに、ありがとね……」
「気にすんなってー。友達ってそういうもんだろー? まーどういたしましてだなー」
「……カレー、食べる。ちゃんと。もったいないし、せっかく作ってもらってるのに失礼だから」
「おーそうだなー。そうしろそうしろ。まーじでうめーからさーこれ。びっくりするぜー。やっぱいつだってカレーだよなー。カレーは最強の食いもんだよやっぱー」
金田はそう言いいつものようにへらへらと笑うのであった。
食後。カレーを食べ多少は元気を取り戻したとはいえ、桧原にとっては根本的な解決にはなっていない。そう簡単に気丈に明るくふるまうということもできない。そういう経験もなかったし、自分の感情を自分でうまくコントロールできない。自分の機嫌を自分でとれないのは子供だという言説はみたことがあったが、今の自分がまさにそうだと一層落ち込む。けれどもそういう時にどうすればいいのかわからない。感情。経験。自分にはそれが絶対的にないのだと嫌というほど痛感する。
「桧原よー、お前この後時間あるよなー」
「え、まあ、あるけど……」
「じゃあさー、カラオケでも行かねー?」
「カラオケ?」
「あー。やっぱさー、なんかあったときはカラオケとか行って歌って発散すんのが一番だからよー。ちゃんと吐き出すもん吐き出さねーと気持ちわりーだろ。何あったか知らねーけどさー、でも俺もー、俺はバカだけどバカなりに嫌なこととかはあるし、でもそういう時どうすりゃいいかわかんねーし考えんのもめんどくせーからさー、そういう時はカラオケでバーって発散すんだよ。人間ってさ、やっぱなんでもいいから吐き出すときもちーんだなーってよくわかるっつうかさー。あれじゃん。うんことかしょんべんも我慢すればしただけ出した時気持ちいいし」
「食事どこでそういうの言わないでよ」
「あーわりーわりー。けどとにかくさ、まー桧原はそれについては言いたくねえんだろ? でもやっぱよー、なんかしら吐き出したほうがスッキリすると思うしなー。別の形だろうとっつうかさ、話したくねーならなおさら別の方法で出さねーとじゃん。溜めてるだけじゃ体にわりーしよー」
「そうね……まあ別に……うん、ありがとう。私は、行ってみたい」
「そっかー!? ならよかったわー! まー歌えば元気出るしなー! そうと決まりゃ早速行こうぜー! いやー俺もカラオケ久しぶりだぜー!」
「あーうん。でも神保町って本の街だしカラオケなんてあるのかな」
「あー……サラリーマンのための店があんじゃねー?」
そういうわけで、喫茶店をあとにしカラオケ店に向かう二人。桧原は、どこかいたたまれない気持ちでいた。
カラオケに行ったことがない。初めてだ。金田にその話をされた時、初めに頭によぎったのはそれだった。別にそこに恐怖や緊張などはあり得なかったが、その事実を口にするのはなんとなくはばかられた。
「経験」。つい数時間前に言われたそれ。自分には、圧倒的に経験が足りていない。そんなことは自分でもよくわかっている。不登校だったのだ。それ以前から友人は少なかった。インドア派だった。外にはあまり出なかった。どこかに行ったり何かをすることも少なかった。漫画にアニメにゲームの方が好きだったし、なにより知っていることのほうが安心できた。知らないことは不安だった。逃げ、というほど大げさなものではない。人間なんて誰しもそうだろう。自分の好きなことを好み、苦手なこと嫌いなことは避ける。自分はそれがたまたまインドアという方向に向かっていただけ。しかしそれが積み重なっての今。
カラオケなんて、とも思った。今はそんな気分ではない。そういう騒がしいところ派手なところは好きではない。第一行ったことなどない。でも、だからこそ。経験がない。経験しなければ。経験したことのないことを、経験しないと。カラオケ。そんな誰もがしているささやかなことすら経験がない。行ったことも歌ったこともない。そもそも歌。自分は今まで歌を歌ったことなんてあるのだろうか? 最後に歌ったのなんていつ? 中学の合唱コンクール? そういうの以外で、自分で、自分ひとりで好きな曲を。そういうのは、最後はいつ? そもそもある? 鼻歌以外で、大声で、ちゃんと歌うなんて。そもそも大きな声なんて、最後に出したのはいつ?
気は向かない。けれども、行くしかない。行ってみるしかない。なんでも経験してみるしかない。それで漫画が良くなるなど、今はまだとうてい思えない。けれども複雑な感情でどうしようもないのも事実だ。それが歌で多少マシになるならもうけもの。ためしにやってみるのも悪くない。とはいえ、なんとなくその事実を、カラオケにすら行ったことのない事実を金田に伝えるのははばかられた。今までであればそんなことも普通に言えたはずだ。何も気にせずただの事実として。だってそれが自分なのだから。そして金田も、「やっぱー?」などといって特に気にもせず、いじりもせずいつものようにヘラっと笑って受け流すだけだろう。それはわかっている。わかっているが、問題は金田ではなく自分にあった。
経験。経験の差。それが、自分と金田との違いなのだろうか。漫画の、その面白さの違いなのだろうか。金田は色々経験しているから、友達がたくさんいて、色んな遊びを知っていて、色んなところに行っていて、バイトもしている。勉強は全然していないけれど、かわりに他の何かを色々学んで知っている。その経験が、あの作品を、感情を生んでいるということなのだろうか。
とはいえ、感情。感情というが、金田にそんな「豊か」な感情などというものがあるのだろうか。そうは思えない。というより、あまりに一方向に触れすぎている。喜怒哀楽で言えば、喜と楽だけ。怒るや悲しむなどはない。というより、基本見たことがない。けれどもそういう「負」の感情も、金田にもあるのかもしれない。決して表には見せないだけで。うちにはそういう感情があっても、表では全部いつも通りにへらへら笑って流しているだけで。そうして秘めているものが、普段表現していないものが、創作として表現されることも、あるのかもしれない。
ともかく、経験の差、もとい作品の差がある以上、それを露呈させたくはなかった。言葉にしてしまえばはっきり形になってしまう。なにより金田に「カラオケも行ったことない女」と思われるのが嫌だった。そんなんだから面白い漫画を描けないと思われるのが嫌だった。そんなことはこれまで考えもしなかったが、そういうささいなことの一つ一つを、避けたかった。
行ける。自分だってカラオケぐらい行ける。行ったことがあると言えるようにできる。自分だって同じ経験をすれば、同じように漫画だって描ける。桧原はそういう思いで、ある種天上に赴くかのようにカラオケ店へと入るのであった。
初めてのカラオケは、なんとなく知ってはいたし見たことはあるけど、詳しいシステムは知らない、という世界であった。半分はわかるがもう半分はわからない。そのような場所。
料金、システム。時間にお金に部屋。そういうのは初めてでも経験や常識と照らし合わせてなんとなくわかる。初めて入ったカラオケの個室は、アニメなどでよく見る通りのものであった。暗めの照明。ディスプレイ。なるほど、こういうところで二人きりで袖が触れるほどの距離にいたら、「そういう」ことになるのもあるのか、などと。とはいえ密室も二人きりも今まで散々経験している。あの部屋で何時間二人で過ごしたと思ってるんだ。それでも何一つなかったのに。というかあれは自室だからなのか、いや普通は自室だからこそなのか。でもあんなオタク部屋、というかあれだけ必死に漫画描いてたらそんなのありえないし。そもそも金田だし、私だし……などと関係ないところからやってくる言葉を頭から追い出そうととりあえず奥のソファに座る。
「俺もなんだかんだカラオケは結構久しぶりだなー。前はよく行ってたけどよー、漫画中心の生活になったかんなー」
「そう……」
悪かったわね、という言葉が出そうになったが、そういうとこだぞ、と思いとどまる。
「でもよー、俺もずっと桧原とカラオケ行きたかったからマジよかったわー」
「そうなの? え、なんで?」
「だってよー、あいつらと一緒だとアニソンとかぜってー歌えねーもん」
「ああ……そういう……」
「大事だぞーマジで! 俺だってそういうのではバカにされたくねーしよー、そもそも好きなもんバカにされたくねーし。けどやっぱそういうオタクみてーなのも歌いてーからさー、そういうのはたまーに一人で行ってって感じでなー」
「へぇ……あんたも色々、大変なのね」
「大変ってほどでもねーけどなー。なんっつーのこういうの? 処世術? こうさー、正面から当たったってめんどくせーことばっかだからよー、うまーくひらひら避けるの身についちまってる感じかもなー」
処世術。それもまた「経験」がなければ絶対に叶わぬこと。そのようなものは、自分にはない。いちいちすべてを真に受けて、正面から受けて、うまく流せず咀嚼できず一人で機嫌を悪くしている。もちろんあの編集者の「アドバイス」は真に受けて然るべきものなのであったが、そういうものではない。
考えすぎか。いちいち反応し過ぎか。しかし何もかもが、自分のことを指摘しているかのように感じられてしまう。
「どうするよ桧原―。先歌うー?」
「いや、そっち先歌ってよ。私じゃ盛り上がんないし」
「盛り上げかー。まー二人しかいねーけどなー。桧原ん時も俺が散々盛り上げっから心配すんなよー。んじゃまーお言葉に甘えて」
金田はそう言い慣れた様子で端末を操作していく。そういうのも、なんとなくは知っている。見たことがある。レストランでのタッチパネルの注文と同じようなもの。あれを操作して検索すればいい。桧原はそう思い端末を手にするが、そこではたと気づく。自分が歌える歌ってなんだろう。そんなのあるだろうか。歌ったことのある歌などない。少なくとも最近のものはほぼゼロ。歌いたい歌も、あるのかないのか。ともかく知ってる歌しか歌えない。音楽は聴くには聴く。基本的に作業時は無音を好むが、見たアニメの曲などは聴くことは聴く。逆にいえばそれ以外に音楽を聴くことはほとんどない。これもまた「経験」の差なのか。経験が足りないということなのか。何を考えても何を見ても、何と遭遇しても何度もそこに舞い戻ってしまう。
いけない、こんな気分では歌えない。こんな気分でここにいてはいけない。それを表に出して、それに支配されて金田と一緒にいてはいけない。
曲が始まる。金田はいつもの呑気な顔で、心底楽しそうに、大口を開けてアニソンを歌う。カラオケの経験などなく素人の歌を聞く機会などほとんどない桧原であったが、それがお世辞にもうまいと言えないことはわかる。しかし声が出ている。はっきり声を出している。そして何より、気持ちよさそうだ。こいつは、ほんとに、いつだって、何をしててもこいつのままで……
軽快で、思い悩むことなんかなくて、いつも余裕があって、ヘラヘラしていて、笑っている。考えてみると、自分とは大違い。正反対。だからこそ、面白い漫画を、あれだけ愛嬌のある、温かみがあって熱量があって感情豊かな物語やキャラを描けるのかもしれない。自分にはないもの。自分には、やっぱり……
「おー、歌ったー! やーっぱ久々だと気持ちーなー! 桧原なに歌うの?」
「まだ決めてない。というかいざとなると決められないっていうか選べないっていうか、思いつかないし。金田先歌っていいよ」
「いやー俺も連続はきちーからなー。桧原歌うならどんなの? やっぱアニソン?」
「私もそんな曲知ってるわけじゃないし……悩む」
「桧原が好きなのとかよく聴くのってなによ」
「まあ、好きなアニメのとか……あとはお母さんがよく聴いてたのとか、子供の頃はよく聴いてたから自然と覚えてるし」
「そういうほうが歌いやすいかもなー。最近のアニソンもなかなかむずいからよー
」
「そうね……普通のJ―POPのほうが歌いやすいかもしれないし」
桧原は思いついた曲を、なんとなく入れる。
「言っとくけど私もそんな歌ったこととかないから下手だからね?」
「別にいーだろ下手でも。俺だって人のこと言えねーしよー」
「……じゃあ」
曲が始まる。桧原は自分も金田同様立ち上がるか迷ったが、結局座ったまま歌う。そういう際の礼儀なのか作法もよくわからない。どっちが声が出るのか。でも曲が始まってしまった以上、歌うしかない。曲が始まったのだ。ならば、歌うしかないのだ。
歌い終えた桧原は一息つく。喉が痛い。たった一曲で疲れた。歌うのもこんなに大変だなんて。
「いやー……俺が言うのもなんだけどうまくはねーな」
「だから言ったじゃん」
「いやまーでもよ。しょうがねーけどまだまだ声出てねーよな。やっぱさー、カラオケは声出してなんぼだろー」
「知らないしそんなの。歌うのも声出すのも慣れてないんだから」
「そっかー。まー自分が気持ちよくなんのが一番だしなー。歌ってりゃそのうち声も出てくんだろ。んじゃ次俺行くぜー」
そうして二人は暫くの間歌い続けるのであった




