99.訪問者
「さあ、ご所望の医学書ですよ。王都からかき集めてきました。貴重な本ですから、くれぐれも大切に扱ってください」
ナディヤがドサドサッと医学書を勉強部屋の机に積み上げる。
「ありがとうございます。我々男には、知識が圧倒的に足りません。これで勉強しましょう」
ジャックが一人ひとりに本を渡す。
「そうですね、一週間で一冊読みましょうか。一週間後に、それぞれ本の内容を説明し合いましょう」
「はいっ」
ラウルとセファは非常にいい返事をした。大人たちはやや引き気味、ハリソンとウィリアムはそーっと部屋から抜け出ようとする。
「ミリー様の弟のおふたりが、まさか逃げるなんてことはないですよねえ?」
ジャックの声でふたりはピキーンと固まった。
「僕、本読むと眠くなっちゃうんだけど」
「では寝る前に一時間読めば、よく眠れますね」
ジャックは全くゆるがない。弟ふたりは観念した。
「女でよかった」
ボソッとフェリハがこぼし、ハリソンとウィリアムが恨めしそうにじっとり見る。
「まあ、ハリーもウィリーもそのうち結婚するんでしょう? 知っておいて損はないよ。妊娠中に夫がした無神経な行動をね、妻は一生覚えててネチネチ言うからね」
部屋の男たちがヒッと身をすくめる。
「妊娠中から子どもが三歳になるぐらいまでの夫の行動がね、その後の結婚生活を左右するのよ。妻がフラフラで子育てしてるのに、夫が酒飲んでソファーで寝落ちしてたら、数年後には離縁よ。平民の話だけどね」
フェリハは真面目な顔で男たちを追い込む。皆の視線がじい先生に集中する。
「申し訳ございませんでした」
じい先生が謝った。
「いや、それはぜひ奥様に言ってください」
フェリハが苦笑いする。
「乳母が雇えるなら大分マシよ。後宮ではみんなで子育てしたしね。何をすれば妻のためになるか、それを日々考えてれば大丈夫じゃない」
「最善を尽くす」
アルフレッドは真摯に答えた。フェリハは目をパチパチする。
「はい、それはミリー様に言ってください」
ソファーでウダウダしているミュリエルは、ダルそうに手を上げる。アルフレッドはすかさずミュリエルのそばに行き、背中をさする。
フェリハは机の医学書を手に取って、パラパラとめくり始めた。ダイヴァが部屋に入ってきて、声をかける。
「フェリハさん、お客さまがいらしてます」
「私に?」
「はい、セルハンと言えば分かると仰いました」
バサッ フェリハの手から本が滑り落ちた。フェリハが震えながら聞く。
「どんな人?」
「背の高い、細身の男性です。黒髪で黒い目で、目の下にホクロがありました」
フェリハがフラーっと後ろに倒れる。ダンが慌てて支えた。
「どうしたの?」
ミュリエルが起き上がって、フェリハに聞く。
「夫かもしれない」
「えええーー」
部屋が騒然となる。
「どどどど、どうしよう」
ミュリエルが慌てふためく。
「ふたりきりは危険ですので、護衛をつけましょう。今は応接間?」
ダンの問いにダイヴァが何度も頷く。ミュリエルが心配そうにフェリハに聞く。
「歩いて行ける?」
「私が支えていきますので」
ダンはゆっくりとフェリハを抱き起こし、腕と腰を支えながらゆっくり歩く。護衛が三人ついて行った。
ミュリエルたちがソワソワして待っていると、魂が抜けたようなフェリハが戻ってくる。フェリハの隣には背の高い男性。フェリハは部屋を見回すと、一点を見つめ、一歩一歩近づく。
フェリハは部屋の隅っこに立っているセファの前に膝をついた。フェリハは震えながらセファの顔を両手で包む。
「ファリダなの?」
セファは目をキョロキョロ動かして答えない。
「セファ」
背の高い男性がセファに声をかける。セファはしばらくためらって、小さな声で言った。
「そう」
フェリハは目の前の小さな体をかき抱いた。
「ファリダ、会いたかった」
「うん」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの」
「母さまのことほとんど覚えてなかったから。いつ言おうかずっと迷ってて……。ヒルダ様には事情を話してたんだ」
「そうなの」
「すまない、実は僕もヒルダ様から聞いていた」
アルフレッドがフェリハに謝る。ミュリエルは目を丸くする。
「ええっ」
「ごめん、ミリーに言うとすぐ顔に出ると思って、内緒にしていた」
「ああ」
そうだろうな、口には出さないが、皆が思った。
「とりあえず、座って話さないか? ミリーおいで」
アルフレッドはミュリエルの手を引くと、ソファーに座らせる。
「ファリダ、座ろう」
フェリハが声をかける。
「セファって呼んでほしい。僕はもうずっと男として生きてきたから」
「フェリハ、私が説明する。皆さん初めまして。フェリハの夫で、セファの父親のセルハンです」
セルハンはセファを隣に座らせた。すかさずフェリハがセファの隣にピッタリ座る。セルハンは一瞬考え、すぐ口を開いた。
「端的に言いますと、シャルマーク皇帝は十年ほど前から……。森の娘の生き血を飲むと、太陽神になれるという考えに取り憑かれました」
「ぶっ殺す」
ミュリエル、ハリソン、ウィリアムの声が揃った。
「いや、もうお義父さんがヤッたから」
アルフレッドが三人をなだめる。
「誠にありがとうございます」
セルハンが深々と頭を下げた。
「ヒルダ様が、不穏な空気を感じとられて、後宮の女たちは髪色を変えました。セファも森の娘です」
「あれ、でも目が黒いよね」
ミュリエルが不思議そうに首をかしげる。
「はい、これは特殊な目薬を使っています。後宮に隠れていたときは、セファもメガネをかけていたのです。でもまだ幼かったこの子はイヤがってよく外してしまって。五年前、庭で遊んでいるときに、メガネを外してしまい。親衛隊にみつかり、皇帝のところに連れて行かれました」
フェリハがセファの肩を抱く。
「皇帝はセファを孫娘とは思わず、生き血を飲もうとしました。私は隙を見てセファを連れて逃げたのです。フェリハに伝える猶予はありませんでした」
「そうだったの。あの腐れ外道が」
フェリハはセファを抱く手に力をこめる。
「ふたりとも、生きていてくれてよかった」
「森の娘とバレないように、セファの髪をすぐ短く切った。それから転々として、海の民に助けてもらったんだ。隠れるにも逃げるにも、海が一番だと思ってね。海の民に読み書きを教えるかたわらで、色々研究して目薬を開発したんだ」
セファはちょっと目元を気にして、瞬きを繰り返す。
「そうこうするうちに、シャルマーク皇帝の死を知って、そのあとすぐ人材募集がかかった。悩んだが、セファを受けさせることにしたのだ。そうすればきっと、ヒルダ様の目に止まると思って」
「普通に王宮に来ればよかったのに」
「森の娘を狙う者がもういないとは限らないから。試験を利用させてもらったんだ」
「あの小論文はセルハンさんが?」
ラウルがややセファを気にしながら聞く。
「助けはしたけど、あれはセファが自分で書きましたよ」
セファが胸を張って誇らしげに言う。
「父さまにずっと教えてもらっていたから」
フェリハが嬉しそうにセファの頭をなでる。セファは少し赤くなった。
セルハンがミュリエルとアルフレッドを見て真剣な顔をする。
「今まで色々調べてきました。なぜ突然シャルマーク皇帝が変質したのか。どういう経緯で太陽神を目指すようになったのか」
「森の娘を狙う狂信者集団がどこかにいます。ミュリエル様、お気をつけください」
「ぶっ潰す」
ミュリエルとアルフレッドの声が揃った。いずこかに潜んでいる狂信者集団の殲滅が決まった。