98.人によると言われましても
ミュリエルは毎日ドンヨリぐんにゃりしている。何もする気が起きず、ソファーに横たわってグダグダしている。ずーっと船酔い気分で、吐きはしないが、常にムカムカが止まらないのだ。そして、なぜか喉が乾いて咳き込み、咳のしすぎでオエっとなる。
「もうイヤだ」
ミュリエルは思わず弱音を吐く。誰もいないと思ったのに、すぐさまダンが、青ざめたアルフレッドを連れてくる。心配そうにフェリハとダイヴァも来てくれた。
「ミリー、辛いんだね」
アルフレッドのあまりに心配そうな顔を見て、ミュリエルは慌てふためく。
「大丈夫。なんかね、吐けないのにオエってなるのが気持ち悪くって」
詳しく聞いて、フェリハとダイヴァは、思い当たるふしがあったようだ。
「そういえばね、妊娠中は水をいつもよりたくさん飲まなきゃダメなのよ。言うの忘れてた、ごめんね。妊婦用の薬草茶でもいいけど、試してみる?」
ミュリエルはありがたく薬草茶をお願いする。ダイヴァが水と薬草茶を持ってきてくれた。
「ツワリは人によって違いますから。気持ち悪いときは、何もせず横になっていてください」
ダイヴァがそう言いながら薬草茶をくれる。ミュリエルは少し飲んでみて、顔をしかめた。
「だめだ、なんでか分からないけど、飲みたくない感じ……。ごめんね、せっかくいれてくれたのに」
「いえ、気にしないでください。試してみないと、分かりませんもの。私は炭酸水とトマトでしばらく生きてました」
「私もトマト食べてた。トマトとオリーブオイルのパスタとか。あとはオレンジを絞ってもらって、飲んでたわ。それ飲むとスッキリ吐けるのよね」
アルフレッドとダンの顔色がドンドン悪くなっていく。
「妊娠とはそれほど過酷なものなのか」
「そうよー、お母さまに感謝しないと」
「久しぶりに手紙でも書いてみるか」
フェリハに言われ、アルフレッドが神妙な顔をする。
「私もトマト試してみようかな」
食欲が落ちているミュリエルの言葉に、皆がホッとする。
「色々お持ちしますね。リンゴや揚げたジャガイモがよかったという人もいましたので」
料理人が張り切って、色んなものを少しずつ、美しく盛り付けてくれた。
ミュリエルは恐る恐る口に入れ、しかめ面を繰り返す。
「あ、これなら食べられる」
ミュリエルは棒状の揚げたジャガイモに塩を振ったものが気に入ったようだ。カリッとして中はホクホクし、ちょっぴり塩味。ミュリエルは無心で口に運ぶ。久しぶりにそれなりの量を食べられた。アルフレッドが涙ぐみながらミュリエルのお腹に話しかける。
「母上を苦しめてはいけないよ」
「ははは、まだ聞こえないと思うよ。少し寝るね」
ミュリエルはソファーに横になり、アルフレッド以外は出ていった。
それからは、料理人の試行錯誤の日々が始まった。しばらく揚げジャガイモを食べたミュリエルは、パタリと受け付けなくなる。
「ごめん、もうジャガイモは見たくない」
ミュリエルはすまなさそうな顔をする。ダイヴァは全く気にしていない。
「私もそうでしたよ。しばらく食べると、次の食べ物に移行するのです。よくあることです」
セファがオズオズと部屋に入ってくる。
「あの、ミリーお姉さま。領地のお母さんたちに、妊娠中なになら食べられたか聞いてきました。参考になればいいなと思って」
「セファ、あんたってばなんて優しいの」
ミュリエルはセファをギュッと抱きしめる。セファは真っ赤になり、アルフレッドにそっと引きはがされた。
ミュリエルはいそいそと紙に目をやり、のけぞった。
「なんでこんな、報告書みたいな」
「文官志望だから」
「うう、すごすぎて、頭に入ってこない」
アルフレッドはミュリエルの手から紙を取ると、感心しながら読んでいる。
「よくここまでまとめたな。さすがはヒルダ様の推薦を得るだけある」
紙は部屋にいる人たちに次々回され、皆がセファを手放しで褒める。
紙には、皆がよく食べた物の一覧が上から順に十個並んでいる。揚げジャガイモ、トマト、りんご、コッテリした料理、ヨーグルト、クラッカー、オレンジ、酸っぱいもの、冷たいもの、肉。
次に、ひとり目とふたり目のときのツワリの違い。いつ頃、ツワリがどう変化したのか。時期別に気をつけるべきこと。ツワリを紛らわす方法などが、整然とまとめられている。
「セファは、ラグザル王国で働かないか?」
ラウルがすかさず優秀な人材の横取りを企む。フェリハがささっとセファの肩を抱き寄せた。
「うちの子だからね。誰にも渡しません」
ラウルは悔しがり、皆が笑った。
そこにハリソンが駆け込んでくる。
「女医さんが来たよーーー」
領民の期待を一心に受け、見守られながら、女医は動じることなく部屋に入って行く。
「殿下、お久しぶりですね」
赤い髪を無造作にくくった、やや魔女っぽい雰囲気の女性が、かしこまるでもなくアルフレッドに話しかける。
「ナディヤ、来てくれたのか」
「陛下が大騒ぎされていましたから。最高の女医をということで、私が選ばれました」
「ありがたい。助かった。来てくれて感謝する」
終始ピリピリしていたアルフレッドが、明らかに緊張を解いている。
「ミリー、ナディヤだ。僕が産まれたとき、ナディヤが取り上げたんだ。ナディヤなら安心だ」
「はいはい、それでは早速診断しますから。男性は全員外に出て」
ナディヤはテキパキ言うと、上着を脱ぎ、手を丁寧に洗う。更に酒を手にかけてパタパタふって乾かしている。
「力を抜いてくださいね」
ナディヤは慣れた手つきで内診をし、ミュリエルに色々質問をする。
「妊娠三か月といったところでしょう。ツワリもそれほどひどくないですし、心配しなくても大丈夫ですよ」
「本当ですか? よかったあ。あの、ずっと気持ち悪いんです。これっていつまで続くんでしょう?」
「あと二か月ほどで安定期です。安定期に入るとツワリが楽になる人が多いですが。人によっては産む直前までツワリが続きます。こればかりは個人差ですね」
「産む直前まで……」
ミュリエルはげんなりした。
「気持ちが悪いということは、体が安静を求めているという合図です。ゆっくりしてください。毎日診察しますから、心配しなくても大丈夫ですよ。せっかくですから、妊娠を楽しんでください」
「はい」
ミュリエルは少し前向きな気持ちになった。
喜ばしい知らせと共に、大騒ぎしてよし、と許可がおりた。領民は大量の酒を石塚に捧げ、ミュリエルのツワリが軽くなることと、赤ちゃんの健やかな成長を祈る。
その後、ミュリエルの安静を妨げないよう、城塞から離れた城門あたりに集まり、朝まで飲んだ。ヴェルニュスは幸せ色に包まれた。