97.できました
領地に戻って少し落ち着いた頃、ミュリエルはどんよりしている。
「なんかさー、船酔いみたいな感じで気持ち悪いんだよね」
いつも元気なミュリエルが、ぐにゃりと机に突っ伏す。朝食の席にいた全員が目を見開いてミュリエルを凝視した。
「ミリー、大丈夫か?」
アルフレッドは真っ青になってミュリエルの額に手を当てる。
「熱はないが。昨日食べたものが悪かったのだろうか?」
アルフレッドは、昨日ミュリエルが食べたものをツラツラと述べ始めた。ジャックが手帳に書き留める。セファは信じられないと言った様子で、ウィリアムに小声で聞く。
「ねえ、アル様ってミリー様が食べたもの覚えてるの?」
「そうみたいだね、僕も知らなかった」
「能力の無駄遣いじゃない?」
「アル兄さんは、ミリー姉さんが大好きだから。うちの父さんも母さんのこと大好きだよ。え、てことは僕もいつかああなるってこと? うーん想像できない」
セファとウィリアムがヒソヒソ言っている間に、アルフレッドの診断が進む。
「食当たりではなさそうだ。もしミリーがお酒を飲んでいたら、二日酔いと考えるところだが」
アルフレッドが難しい顔をしてミュリエルの背中をさすっている。ゆで卵の殻をむいて、塩を振りかけていたフェリハがあっさり言う。
「妊娠じゃない」
バサッ ジャックが手帳とペンを取り落とす。
アルフレッドはさっとミュリエルを抱き上げると、寝室に連れて行った。フェリハとダイヴァとイローナが顔を見合わせてついていく。
残った男性陣は蒼白になって大騒ぎだ。
「どどどど、どうしましょう」
いつも冷静沈着なジャックが一番取り乱している。
「シャルロッテ様に早馬を出しますか?」
「王都にも知らせないと」
「な、名前の候補を出しますか」
「いや、それは大分早すぎるだろう」
「皆、いったん落ち着け」
じい先生が声を張り上げる。ジャックがじい先生にすがりつく。
「この中で、子どもがいるのはじい先生だけです。さあ、助言をお願いします」
じい先生は厳しい表情で宙をにらみ、目をつぶった。
「ダメだ。あの頃は仕事が忙しくて、妻に任せきりだった。産まれてしばらくして、やっと家に帰った。妻は一年口をきいてくれなかった。いまだに当時の話になると妻は不機嫌になる」
最低だこの人、部屋の全員が思った。
「やはり母体の安全が一番ではないか?」
「護衛を千人増やしますか」
「冬支度が大変だな……」
「乳母の手配を」
「そうだな。家格と思想に問題がない女性を選別しないと」
「侍従と侍女も」
「それは……産まれてからでいいのでは」
皆、腕組みをして考える。ダンがハッとして声を上げる。
「女医がいるのでは」
初めてそれっぽい意見が出た。皆の顔が明るくなる。
「王都から最高の女医を召喚しましょう」
皆の意見が一致したとき、ミュリエルを抱き上げたアルフレッドと女性たちが戻ってきた。
「まだ分かんないけど、妊娠かもー」
ミュリエルが、えへへと笑う。部屋の空気が一気になごんだ。
「女医と乳母と護衛を大至急、王都から召喚します」
「え、女医はともかく、乳母はまだいいんじゃない」
フェリハが眉をひそめる。ミュリエルも頷いている。
「な、名前は?」
ジャックが手帳とペンを用意した。
「それもまだまだ先でいいと思うけど」
フェリハが呆れた顔で答える。
「あのね、産まれるの来年の夏頃だから。だーいぶ時間あるから。まずはミリー様に栄養のあるものを食べてもらって、走ったりさせない。それぐらいよ」
出産経験者の頼もしい言葉に、男性陣は緊張をとき、ヨロヨロと椅子に座り込む。
「我々男性は、こと妊娠、出産となると、かくも無力なのですね」
ジャックが打ちひしがれる。冷静なジャックはどこかに消えてしまったようだ。
「そうねー、まあ、こういうのは私たち女性に任せて。お母さんたちいっぱいいるし、産婆経験ある人も多いらしいし、なんとかなるわよ」
「我々は、男は何をすればいいのでしょう」
ジャックがフェリハに詰め寄る。フェリハはたじろぎながら考える。
「ミリー様に重いものを持たせないこと。ミリー様に激しい運動をさせないこと。栄養のある食べ物を用意すること。今はそれぐらいじゃない」
「我らの全力で、ミリー様をお支えいたします」
ジャックが跪いた。ジャックの忠誠心が暴走している。
「気楽にね。私も産婆経験あるから」
ミュリエルがジャックに声をかける。ジャックは涙ぐんで、ミュリエルのお腹に祈りを捧げている。
「アルも、気楽にね。今からそんなに張り詰めてたら、もたないよ。妊婦はある程度普通に生活する方がいいから。走ったりはしない、約束する。だから降ろして」
アルフレッドは渋々ミュリエルを降ろした。アルフレッドはそっとミュリエルのお腹に手を当てる。皆がニコニコしながら、幸せそうなアルフレッドを見つめる。
「ああー、私も禁煙しなきゃー。今日からもう吸わない。タバコは赤ちゃんによくないからね」
フェリハは巻きタバコの箱を、いさぎよくゴミ箱に捨てた。
「楽しみだね。産まれるまでここにいよーっと」
フェリハは勝手に滞在の延長を決めた。アルフレッドは大歓迎といった風に頷く。出産経験のある女性は大事だ。アルフレッドの世界はミュリエルを中心に回っている。
まだ、確定ではないけれど、という注釈付きで、めでたい知らせがひそやかに領地を駆け巡った。領民は浮足だった。早く、来てくれ、女医。皆の期待が、誰とも知らない女医に集まる。早く大騒ぎしたい。領民はウズウズ、女医を待っている。