92.それぞれの旅
フェリハはずっと歌っている。後宮の外に出たのは十年ぶりぐらいだ。二十歳からの女盛りの年月を、後宮の中で鬱々と過ごしたのだ。
空気がおいしい。風が気持ちいい。太陽の日差しってこんなに心を温めるのか。フェリハは歌う。鳥がやってきてはフェリハをからかい、一緒に飛ぼうと誘ってくる。
「私は飛べないの。飛べたらいいのにねー」
馬が、無茶言うなよお前って感じでチラリとフェリハを振り返る。
「ねえ、もうちょっと速く走らない? 馬に乗るのも久しぶりなの。どう?」
馬は、アッチーのに……仕方ねえなあと言いたげに、ブルルルッと鼻を鳴らすと、少しずつ速く走ってくれる。風で頭にかぶっていた白いベールが外れる。首のところでキツく結んでいたから大丈夫。
フェリハは思いっきり叫び、笑った。
「神さまー、ありがとうございまーす。やっと、外に出られましたー」
フェリハは歌う。神への感謝の歌だ。後宮では静かに歌ったり踊ったり、刺繍をしたり。ただ息を吸って吐いて、ただ生きていただけだった。世界はこんなに美しいというのに。フェリハはメガネ越しに青空を見る。
フェリハの緑の瞳はあまりに鮮やかで、メガネなしではきっと殺されていた。メガネ生活に慣れすぎて、もうメガネなしでは落ち着かない。
小さな木立で突然馬が止まった。馬は小さな水場でゴクゴク飲んでいる。
「ごめんごめん、疲れちゃったね。久しぶりに外に出たもんだから、興奮しちゃったよ。ちょっと一服してもいい?」
フェリハは馬から降りると、火打ち石で手巻きタバコに火をつける。深く吸ってから、ふわーっと吐き出す。後宮では水タバコを吸うことが多い。水タバコでも吸ってないと、一日が長すぎるのだ。女たちは皆、どんよりした目で水タバコのパイプをくわえ、プカプカやっていた。
今朝、手巻きタバコを巻いて箱に詰めておいてよかった。フェリハは鼻と口から大量の煙を吐いて、のびをする。
「もうすぐ砂漠だね。どうしようか。あんたじゃ砂漠は無理だよねえ」
フェリハは遠くに見える砂漠を見ながら、馬に声をかける。
ブルルルッ 心配しなさんな、そんな感じで馬がフェリハを見下ろす。
砂漠からラクダを連れた一行が近づいてくる。若い男女がラクダから降り、皆跪いた。
「砂漠の民、水の木の種を持つ森の娘をお迎えに参りました」
若い女がフェリハに声をかける。
「ありがとう。そろそろ馬じゃ厳しいなと思ってたところだったよ」
フェリハは屈託なく笑う。
「もう少し進むと、集落があります。今夜はそちらでお休みください。馬もそこで待たせておきましょう」
フェリハは渡されたヤギ革の水筒から水を飲む。生き返った気分だ。フェリハはラクダにまたがると、皆で歌いながら歩く。歌声は砂に吸い込まれ、消えて行く。
***
一方、ヒルダの次女アイリーンは途方に暮れている。十五のときからずっと後宮にいたのだ。馬に乗るのも久しぶりだ。優しい馬がなめらかに走ってくれたので、なんとか落ちないでここまで来られた。
「怖い……」
アイリーンはひとりで外に出たことがない。見るもの聞くもの全てが新しい。王宮を出発したときは無我夢中だった。熱に浮かされたように馬を走らせてきたはいいものの、他の皆は大丈夫だろうか。アイリーンは皆の顔を思い浮かべる。
うん、大丈夫だな。一番心配なのは私だ。母さまと姉さまは、強い。アナ、ヤナ、マナは図太い。私が最弱だ。無駄に背が高い、弱虫。アイリーンはため息を吐く。
優しい馬は、少し歩みをゆるめてくれる。
「お腹すいた。喉も乾いた」
アイリーンは心細くて泣きたくなる。
かすかにドドドドッという音が聞こえる。風が吹き、アイリーンの長い金髪を持ち上げる。アイリーンは目の上に手を置いて、遠くを眺める。ものすごい速さで馬の群れが近づいてくる。
「うわっ、なにあれ……。どうしよう……」
アイリーンが心を決められないうちに、あっという間に馬の群れがアイリーンの周りをグルグルと走る。鮮やかな衣装を風に揺らす馬上の人。鋭い目の女が拳を高く上げて叫ぶ。
「止まれー」
馬が速度をゆるめ、静かに止まる。馬上から一斉に皆が飛び降りた。馬の手綱を握ったまま、ガッシリした女がよく通る声で言う。
「草原の部族の長、アレシア・サビール。森の娘の早速の訪れ、心から感謝する。森の娘ヒルダ様の次女、アイリーン様とお見受けする。我らの集落にご案内いたします」
アイリーンは少しためらったが、ヨロヨロと馬から降りる。アレシアと向かい合うと、巨大に見えた彼女は、自分より背が低いことに気がついた。アレシアはニヤリと笑う。
「私より大きい女性には初めて会う。アイリーン様、心から歓迎します」
アレシアはアイリーンの手を力強く握った。アイリーンはその手の強さに、少し心のつかえが取れた。
***
アナ、ヤナ、マナはたくましい。三つ子の森の娘という希少価値の高さから、五歳で後宮に連れて来られた。一瞬でシャルマーク皇帝は興味を失い、三人は後宮でひっそりと育てられた。
暇を持て余している後宮の女たちの愛情をたっぷりと受け、三人はぬくぬくと育った。三つ子というのは実に都合がいい。駆けっこも、かくれんぼも、カード遊びだって、三人なら楽しくできる。
三つ子は読み書きもきっちり学んだ。後宮には本がたんまりとある。三人のお気に入りは、白馬の王子様が囚われの姫を助け出す物語だ。少しずつ違った、似たようなお話が山ほどある。三人は夢中で読んだ。
「はあー、いつか私たちを白馬の王子様が迎えに来るんだわ」
三人はいつか来るその時を夢見て、心待ちにし生きてきたのだ。そして、十二歳の今、願いはついに叶えられた。本物の王子と、犬に乗った少年がふたり。誰がどれにするのか。連日、白熱の話し合いがもたれている。まだ結論は出ていない。
妙齢のお姉さま方には、圧倒的にアルフレッド殿下が人気だ。姿絵はアッテルマン帝国でも売れている。もちろん後宮の女たちも持っている。
ひと目でもアルフレッド殿下が見られないか、お姉さまたちは毎日窓にへばりついている。
「なんて美しい殿方でしょう。抜けるような白肌に、金髪碧眼だなんて……」
お姉さまたちはヒソヒソと熱く語り合う。アッテルマン帝国は浅黒い男が多い。砂糖のように白いローテンハウプト王国の男性は、よく目立つ。
一部の年かさのお姉さまたちにはロバート様が人気だ。
「あの目、しびれるわあー」
「たくましい腕。やっぱり男は強くなくては」
トロンとした目でクネクネしている。
「アルフレッド殿下とロバート様に、決して色目を使わないこと。背いた者は王宮から追い出します」
愛妻家のふたりの機嫌を損ねては大変と、ヒルダ様は厳しく言った。それ以来、お姉さまたちは、言葉に出さずにそっと見てクネクネするだけで我慢している。
「ちゃっちゃと片付けて、王宮に帰らないと」
離れていても三人はお互いのことがなんとなく分かる。早く帰って、他のふたりがいない間に、誰かを落とそうと思っているに違いない。出し抜かれるなんて、絶対イヤ。
よって三人は休憩もそこそこに馬を走らせる。
アナは森の民に、ヤナは奇岩石の民に、マナは温泉の民に、それぞれ巡り合った。
「さあ、行きましょう!」
挨拶もそこそこに、三人はしかるべき場所、水の木の種が望む土を求めて動く。
遥か遠くの王宮で、三人の少年がブルリと震えた。