90.魔剣の木
「ロバート様、魔剣がなりました!」
いつも落ち着いているヒルダが、バタバタと部屋に駆け込んでくる。
「それは、めでたいっ! 森の娘を全員呼んで木の前に集合だ」
「はいっ」
召使いたちがワラワラと散る。ロバートたちが木の前に行くと、そこには既に白い衣装をまとった女たちが跪いている。
柔らかな緑の葉を茂らせたりんごの木の幹から、若い枝が伸びるように、魔剣が生えている。女たちは喜びの祈りを捧げ、歌のように途切れない。
ロバートの視線を受け、ヒルダが立ち上がった。ヒルダはためらうことなく、魔剣に手を伸ばす。わずかな力で魔剣は木から抜けた。ヒルダは魔剣を両手に掲げ、木に祈りを捧げる。
「木の神よ、アッテルマン帝国にご加護を賜らんことを」
ヒルダは立ち上がると、左腕の袖をまくり、魔剣で腕を切った。ポタポタと血が木の下の地面に落ちる。
「フェリハ」
ヒルダの声で、フワフワ頭のフェリハが立ち上がり腕を出す。
「森の娘、フェリハ。私の血を木の神に捧げます。森の娘の力を与え給え」
ヒルダがフェリハの腕を切り、フェリハは血を捧げる。
背の高いアイリーン、三つ子のアナ、ヤナ、マナが血を捧げる。強い風が吹き、木がブルリと揺れた。ヒルダが上を向き、手を上げる。
フワリ 小さな緑色の綿毛が六つ落ちてきた。ヒルダと森の娘たちの手の平にそっとおさまる。
「水の木の種です。私も見るのは初めてです」
ヒルダは畏れと喜びが入り混じった表情で、緑の綿毛を白い服の胸ポケットに入れる。
「私たちはこれを部族に届けねばなりません」
ヒルダは森の娘とロバートたちに言う。
「どこに向かうべきかは、水の木の種が教えてくれます。さあ、行きましょう。私たちはひとりで旅立たなければなりません」
「大丈夫なのか? 護衛はいらないのか?」
ロバートが心配そうに聞く。ヒルダは静かに微笑んだ。
「大丈夫です。水の木の種を持つ森の娘には、誰も、何も手を出しません。魔獣でさえ、水が無ければ生きられません。私たちの向かう先は、全ての道が開かれ、水と食べ物が用意されるのです」
白い布を頭からかぶり、女たちは馬に乗った。シャルマーク皇帝が部族たちから取り上げた古い魔剣を、ヒルダはひとつずつ森の娘に渡す。女たちは軽々と魔剣を持ち上げると背中にかける。
「父なる太陽、母なる大地、我ら大地の子。水の木の種を持つ森の娘に、ご加護を与え給え」
ロバートの祈りを受けながら、森の娘は旅立った。水も食料も持たず、水の木の種を届けるのだ。王宮は神の気配に包まれる。残された者たちは、食事や酒を木の前に運び、歌い踊りながら森の娘の帰還を待つ。
***
ヒルダはぼんやりしている。疲れは全く感じない。夢を見ながら、これはもうすぐ目覚めるなと、まどろんでいるときのようだ。自分の存在が薄く伸ばされ、透明になりユラユラしている。
神々を近くに感じる。ヒルダはロバートが言っていた意味がようやく分かった。
ヒルダが何も指示しなくても、馬は行き先が分かるようだ。いつの間にか港に着いた。気がつくと港の人々が跪いている。ひとりの少女が器とザクロを持ってきた。ヒルダは水を飲むと、ザクロを食べた。プチプチとした酸味のある実は、ヒルダの喉を潤す。
小舟がたくさん寄ってくる。日に焼けた険しい顔と深く刻まれたシワ。男も女も黙ってヒルダを見つめている。男が手を伸ばし、ヒルダを船に乗せる。
「我ら海の民一同、水の木の種を持つ森の娘を迎えられたこと、神に深く感謝いたします」
男は深い声で言うと、ヒルダを座らせ、小舟を漕ぎ出す。海は湖のように凪いでいる。魚たちが小舟の周りを泳ぎ、鳥たちが先導する。静かな航海であった。
「あの島ですね。ここから先、私はひとりで行かねばなりません」
ヒルダは告げ、海の民は砂浜に小舟を寄せる。ヒルダは小舟を降りた。水がヒルダの熱くなった足を心地よく冷やす。濡れて重くなった裾を軽く絞り、ヒルダは砂浜を進んだ。
少ししおれかけた草を踏み分け、森の中に入る。鳥の声も虫の鳴き声もしない。ヒルダの足音だけが響いた。時おり潮風が森の中を吹き抜ける。ヒルダの乾いた頬と髪を揺らす。潮の匂い、乾いた土、みずみずしさのない草木。ヒルダはひたすら歩いた。
ヒルダの目の前に小さな小さな泉が現れる。ヒルダは膝をついて、手で水をすくって何度も飲んだ。胸ポケットから綿毛が勝手に飛び出してくる。緑の綿毛はふよふよと漂うと、泉のふちに落ち着いた。
「父なる太陽、母なる大地、我ら大地の子。森の娘ヒルダ、木の神に私の血を捧げます。海の民にご加護を賜らんことを」
ヒルダはかさぶたになった傷の隣に、魔剣で新たな傷を入れた。
ポタリ ヒルダの血が綿毛の前に落ちる。綿毛は器用に土の中に入っていった。
ヒルダは残っていたザクロの実を供え、ゆっくりと元の道を戻る。涼しい風がヒルダの服をはためかせ、汗ばんだ体を乾かす。砂浜に着くと、来た時よりも大量の小舟が島を取り囲んでいる。
「さあ、宴をしましょう。あなたたちの話を聞かせてください」
ヒルダは朗らかに笑った。小舟の上から歓声が湧いた。砂浜に次々と魚と酒樽が運ばれ、焚き火が燃え上がる。
魚を焼き、酒を飲み、語り合った。楽しかった昔、屈辱の時代、これからのこと。
「これからも来ていただけるのでしょうか?」
族長が心配そうに聞く。
「来ます。木が私を呼ぶでしょう。そのときはあなた方も分かるはずです。またこうして宴を開きましょう。遠い国の森の息子が仰いました。神々は賑やかなのがお好きだそうです。歌や踊りをすると、近くまでいらっしゃいます」
族長は静かに夜空を見上げた。星がきらめいている。族長は星の光をあびながら何度も頷く。乾いた頬に涙が流れた。
「あなたがいらっしゃるまで、私たちが木の神に祈りを捧げます。毎日魚と酒を捧げます」
ヒルダは杯を高く掲げた。
「木を、水を」
ヒルダは酒を飲み干し、喉を焼く痛みに少し顔を歪めた。海の民はヒルダに続いて杯を開け、晴れやかに笑う。ヒルダも涙を拭きながら、笑った。
きっといい国になる。いい国にしてみせる。神々がヒルダの誓いを確かに聞き届けた。