87.草原の部族
「ヒヒヒヒヒ」
ある日、召使いがヒルダの元に泡を食ってやってきた。執務室で手紙を書いていたヒルダは、ズレかけたメガネを直すとギロリとにらむ。
「落ち着きなさい。何事ですか」
「ヒルダ陛下、そそそ、……草原の部族の代表がやってきました。ま、魔剣を返せと騒いでおります」
召使いはもじもじオドオドしながら、やっと言葉を述べる。
ヒルダはさっと立ち上がると護衛に告げる。
「王宮内には入れてはいけません。外に待たせておきなさい。私は至急ロバート様に話をしてきます」
ヒルダはキビキビと歩きながら、手短に祈りを捧げる。
「父なる太陽、母なる大地、我ら大地の子。我に力を与え給え。国をまとめ、部族の信頼を得る力を我に賜らんことを」
焦っていた気持ちがすうっと凪いでいく。ヒルダは乱れた髪と服を整えた。客室の扉は、既に先触れの手によって開けられている。
部屋の中では、ミュリエルが犬の毛をくしでとき、それをアルフレッドが優しい目で眺めている。ロバートはラウルとハリソンとウィリアムに腕立て伏せをさせている。のんびりとした雰囲気が漂う中、ヒルダはやや緊迫した声音で声をかけた。
「おくつろぎのところを申し訳ありません。至急ご相談したいことがございます」
ヒルダの言葉に、皆が動きを止める。
「草原の部族の代表が、魔剣を求めてやってまいりました。今は外で待たせております。そのまま外で穏便に話をまとめるつもりです。できましたらロバート様にお力添えをお願いしたいのです」
「おう、なんだ」
ロバートがヒルダの方に近寄ってくる。
「頃合いを見て、魔剣を持って出て来ていただけないでしょうか。草原の部族にはもはや森の子どもはおりません。ロバート様のお姿をひと目で見れば、納得すると思うのです。できれば、彼らの信任を得たいと思っております」
「いいけど、頃合いってどうやって見るんだ」
ロバートが困ったように目をグルリと回す。
「そうですね……。例えば私が襲われそうになったり。場が荒れて収拾がつかなくなったときなどです。危機に颯爽と現れていただければ、ロバート様のご威光で場が収まると思うのです」
「……分かった。アル、俺だけでは不安だ。こっそりどこかから見て、俺に合図してくれないか?」
「分かりました。そうですね、ロバート卿とミリーと僕が隠れて見られるような部屋はありますか?」
アルフレッドは快く受け入れると、ヒルダに問いかける。
「はい、見張りの塔がございます。ただ、そこから降りてくるのは時間がかかりますが」
「大丈夫だ、任せろ。派手に登場してやる」
ロバートは自信たっぷりだが、ミュリエルは懐疑的な目でロバートを見ている。アルフレッドが護衛たちに指示を出す。
「護衛の半分はここに残って子どもたちを守れ。半分は僕たちと共に来い」
「犬も一匹連れて行くぞ」
ロバートはミュリエルが毛繕いしていた犬を呼ぶ。犬は跳ねながらロバートに近づき、足にまとわりついている。
ロバートたちが見張りの塔に上がるのを見届けると、ヒルダは頭を高く上げて庭園に向かう。ヒルダの護衛は警戒を強めながら周りを固めた。
鮮やかな衣装をまとった大女が、部族民を従え立っている。鋭い眼光は鷹のようだ。ヒルダは小さな体に精一杯の威厳をまとい、部族民の前に立つ。
「アッテルマン帝国の新女王、砂漠の部族の森の娘ヒルダ。用件を聞きましょう」
「草原の部族の長、アレシア・サビール。シャルマーク皇帝が亡き者となったと聞く。魔剣を返してもらいたい」
アレシアはよく通る声ではっきりと要求を述べた。ヒルダは動じずに聞き返す。
「なぜですか? 森の子どもがいないなら、魔剣を持っても無意味でしょう」
「森の子どもはいずれまた産まれる。それに、草原の砂漠化が進んでいる。魔剣があれば防げるかもしれない」
アレシアはやや焦りのこもった声で続ける。
「シャルマーク皇帝に魔剣を奪われ、森の子どもを殺され、祈ることを禁じられた。歯向かうものは殺された。私は女であるがゆえ見逃された。今は私が草原の部族の長だ」
ヒルダは答えない。じっとアレシアを見て話を聞く。
「我ら草原の民は、馬と共に自由に生きてきた。水場があればしばらく定住し、よい牧草を求めて移動する。それが我らだ。だが、祈ることを禁じられ、水が枯れた。草原の砂漠化が進んでいる。帝国は我らに馬から降り、誇りまで捨てよと言うのか」
アレシアの鋭い目が、凪いだヒルダの目とぶつかる。ヒルダはしばらくアレシアの目を見つめた後、深く息を吐いた。
「誇り高き草原の民よ。祈りを捧げてください。ですが、まだ魔剣は返せません。しかし、森の娘とともに、魔剣を返すと約束します。今は魔剣を返したところで、あなたたちには使えません」
「話にならん。森の娘がここにいるのなら、もらっていこう。魔剣と共にな」
アレシアがヒルダに詰め寄り、遥か上から見下ろす。
***
ロバートとアルフレッドとミュリエルは見張りの塔から下をのぞき見る。目の覚めるような青と赤の衣装をまとった部族民たちが見える。女たちは首にも耳にも金の装飾品をジャラジャラかけている。
「あのヒルダさんと話してる女の人、大きいねえ。ガッチリしてて、すごく強そう」
ミュリエルが目を細めながらつぶやいた。ロバートも同意する。
「そうだな、ヒルダさんは小さいから、大人と子どもがしゃべってるみたいに見えるな」
「大丈夫かなあ、うちの護衛も連れて行ってもらえばよかったかな」
ミュリエルが心配そうに目を凝らす。アルフレッドがミュリエルの背中に手を置いた。
「いや、それはできない。ヒルダ陛下には自分の力で対応してもらわないと。これぐらいの難局を自分で越えられないなら、国を治めることはできないよ」
「俺が助けるのはいいのか?」
ロバートが眉を上げてアルフレッドに聞く。
「まあ、それぐらいはいいんじゃないですか。ローテンハウプト王国の武力ではなく、前皇帝を殺した森の息子。お義父さんの個人的な助力です」
「お、おう、皇帝をヤッちまったからな。それぐらいは助けてやるよ。……なんかもめてないか? デケー女がヒルダさんに詰め寄ってるぞ」
アルフレッドは軽く頷いた。
「そろそろ行きますか。お義父さん、階段駆け下りるの気をつけてくださいね」
「いやいや、そんな膝に悪そうなことしねえよ。便利なヤツらがいるんだから使うさ。派手でいいだろう?」
ロバートは犬に指示を出して階下に走らせる。おもむろに指笛を吹くと、見張りの塔からあっさり飛び出した。バッサバッサと飛んできたフクロウが、うまくロバートを背中に受け止める。
ヒルダと部族民は大きな羽音につられ、一斉に空を見上げた。
「な、なんだあのデカい鳥は……」
「ひ、人が乗ってるぞ」
「うわあああ、巨大な犬まで来たっ」
「ひいっ、食われる」
「お前ら、落ち着け」
アレシアは一喝し、目を細めて上空を旋回するフクロウを見る。ロバートとアレシアの目が合った。ロバートはフクロウに合図すると、ヒルダの隣に着地する。皆の周りを走り回っていた犬は、静かにロバートの隣に止まる。
「ローテンハウプト王国の森の息子、ロバート・ゴンザーラだ。色々あって前皇帝をヤッちまった。今はヒルダ女王の後ろ盾をやってる。お前ら、ヒルダ女王と仲良くやれ」
ロバートの大声で空気がビリビリ震える。部族民たちはややたじろいだ。
ドサッ 空からヤギが降ってきて、フクロウが飛び去る。
「お前ら、魔剣が欲しいんだって? 魔剣は森の子どもしか使えないって知らないのか?」
ロバートは背中から魔剣を取ると、アレシアに渡す。アレシアは思わず魔剣を取り落としそうになり、必死で持ち堪える。
「お前は森の娘じゃないな。だったら魔剣は使えない。ヤギが切れるかやってみろ」
アレシアは、ちっと舌打ちすると魔剣をヤギに当てる。魔剣を高くは持ち上げられないので、当てるのが精一杯だ。ヤギはへこむが、切れはしない。
「森の子どもの力を見せてやる」
ロバートは魔剣をアレシアからとり上げると、片手で軽々と魔剣を振り下ろす。ヤギの足が切れた。
「ヒルダ女王は森の娘だ。使えるだろう」
ロバートはヒルダに魔剣を渡す。ヒルダはしっかりと魔剣を持つと、
「はあーっ」
高く振り上げ、ザンッと鋭く振り下ろした。ヤギの頭が胴体から離れる。
「これが森の娘の力だ。ヒルダ女王も、ついこの前までは魔剣を持つのがせいぜいだった。この短期間で必死に祈りを捧げ、魔剣を使えるまでになった」
部族民たちが静かにロバートとヒルダを見つめる。
「今、他の森の娘を鍛えているところだ。そいつらが魔剣を使えるようになったら、全土を祈りながら巡回する。そうだよな?」
「はい、その通りです。今新しい魔剣を得るため、庭園の木に祈りを捧げております。森の娘に各地で祈りを捧げさせ、新たな魔剣を得られれば、砂漠化は止められるはずです」
「よし、お前らも来い。ヤギを神に捧げるぞ」
ロバートはヤギを抱えると、悠々と歩いて行く。ヒルダが促し、部族民はためらいがちについて行く。
ロバートは木の下にヤギを置いて跪いた。
「父なる太陽、母なる大地、我ら大地の子。ヒルダ女王にご加護をお与えくださり、感謝いたします。草原の部族にもご加護を賜らんことを」
皆が後に続いて祈った。アレシアの顔から刺々しさが消えた。アレシアは跪いたままロバートとヒルダに告げる。
「森の息子ロバート様、森の娘ヒルダ様。我ら草原の部族、心からの忠誠を誓います」
「おうっ。俺は間もなく国に帰る。ヒルダさんを支えてやってくれ。今は内輪もめしてる場合じゃないだろう」
「はい、その通りです。草原の生き残りをまとめ、祈りを捧げます。草原にて新たな森の娘の訪れをお待ちいたします」
アレシアは清々しい表情で、部族たちを従え去っていった。
「すげえいい馬だな」
ロバートは草原の部族の乗る馬を見て感嘆の声を上げる。
「アッテルマン帝国、最上級の馬をロバート様に献上いたします」
ヒルダがうやうやしく言い、ロバートは破顔する。
「本当か? 走るだけの馬は高いからな、今まで持ってなかったんだ。国に持って帰っていいか?」
「もちろんでございます。船で運べます。アッテルマン帝国の総力をあげて、最高の馬を集めます」
ロバートは念願の馬を手に入れられそうだ。ロバートがシャルロッテとの乗馬を楽しめる日も遠くはない。