79.船酔いは大変です
ミュリエルとラウルは船酔いに苦しんでいる。馬車や馬では酔ったことなどないのに、船の揺れは今まで経験したことのない気持ち悪さだ。
「おうぇーー……。うう、吐きたいのに吐けない感じ。気持ち悪い……」
ミュリエルは床に寝転がって弱音を吐く。ラウルは真っ青で、言葉も出ない。グワングワン縦に揺れ、突然不規則に横揺れがくる。ミュリエルは目をつぶってひたすら耐えた。
もう寝るしかない。ミュリエルは目をギュッとつぶって無心になる。どこでも寝られるミュリエルは、そのままスッと眠りについた。
ラウルはそんな器用なことはできないので、恨めしげに天井を見ている。もう、どこでもいいから早く陸にあげてくれー。ラウルは祈り続けた。しばらくして、ラウルもようやく眠りに落ちた。
青ざめたふたりを乗せて、船は順調にアッテルマン帝国に向けて進んでいる。
***
「おい、起きろ」
ミュリエルはパチパチと瞬きした。男はミュリエルを無理矢理起こすと、両腕を前でグルグルと縄で縛る。
「立て」
縛られたミュリエルとラウルは大人しく立ち上がる。もう床はそれほど揺れていない。
ヨロヨロと船を降りると、また荷馬車に乗せられる。水とパンが与えられ、ミュリエルとラウルはゆっくりと食べた。船から降りて、少し生き返った気持ちだ。
「なんだか暑いね」
ミュリエルは縛られた腕で額の汗をぬぐう。潮風で肌がベタベタしている。
「アッテルマン帝国は、ローテンハウプト王国より少し気温が高いのだと思います」
ラウルも汗をぬぐいながら言った。
「そっか。あーあ、普通に観光旅行で来たかったよ。海は初めてなのに、ゆっくり見れなかったし」
ミュリエルは気楽な感じで笑いながらラウルを見る。ラウルも弱々しく微笑んだ。
「ミリーお姉さま、怖くはありませんか?」
「そりゃあ怖いけど……。まあ、神様が助けてくれるよきっと。だって私たち、いい人間だもん」
ミュリエルはわざと明るく言った。ラウルは泣きそうになるのをグッとこらえている。
「大丈夫、アルがきっと来てくれる。そんな気がする」
「はい」
ラウルは腕で目をゴシゴシこすった。
「ラウルは王族だもん。そう簡単に殺されないと思うよ。だから気をしっかりもってね。絶対諦めちゃダメ。石はどこにでもあるんだから」
「はい」
ラウルの目に少し力が戻った。
「それにしても、何が目的だろう。ラウルはともかく、私をさらっても何の意味もないと思うんだけど……」
「アッテルマン帝国には、後宮があって世界中から美女を集めていると聞きます。ミリーお姉さまももしかして……」
「いやー、ないわ。ないでしょう、それは絶対ない」
ミュリエルは断言した。ラウルは少し心配そうだ。
「まあ、アル絡みで恨みを買ったのかもしれないかなあ。アルって人気なんでしょう?」
「そうですね……。ラグザル王国の年頃の女性は全員、アルお兄さまに恋焦がれています」
「うわー。アッテルマン帝国でもそうなのかなあ?」
「う、そこまでは分かりません」
「そっか。まあ、なるようになるよ。でたとこ勝負ね。いざとなったら全員ヤルから」
「はい……」
ミュリエルは人を殺す覚悟を決めた。まだ人を殺めたことはないけど、ためらっている場合ではない。生き残るためには皆殺しも辞さない。
ラウルの小さな体をみて、ミュリエルは怒りで震える。絶対許さない。ラウルは助けるし、自分も生き残る。ミュリエルはそのときに備えて体を休めることにした。
半日ほど荷馬車に揺られた後、やっと荷馬車が止まった。ミュリエルは閉じていた目を開ける。
ミュリエルはラウルを見て言った。
「ラウル、これから先、引き離されるかもしれない。必ず助けるから、弱気にならないでね」
「はい」
「ウサギを狩ったときのことを思い出して。狩るのは私たち、殺すのも私たちだ。いい? 人を殺す覚悟を決めるんだよ」
「はい」
ラウルはミュリエルをまっすぐ見て頷いた。
「石があったら拾って持ってること。武器になりそうな物があったら、隠し持つこと。できる限りでいいからね」
「はい」
ミュリエルは笑った。さあ、狩りの時間だ。魔牛より強い人間なんているもんか。
***
ロバートを乗せたクロは、港で突然止まった。しばらくフンフンと地面をかぐと、管理事務所にロバートを運ぶ。ロバートがクロから降りると、扉が開いて男が出てきた。
「あのー、何かお探しで?」
「アッテルマン帝国に行ったらしい娘を探している。背の高い、茶色の髪で緑の目の娘だ。ミリーもしくはミュリエルという名だ」
「ああ、はい。こちらをお読みください」
男はすぐさま紙をロバートに渡す。ロバートはざっと読むと、紙を男に返す。
「アッテルマン帝国にはどうやって行けばいい?」
「ええっと、アルフレッド王弟殿下は軍港に向かわれました」
ロバートは自分の服装を見てうなる。
「うーん、俺が行ったところで相手にされるかどうか……。なあ、速い船を貸してくれないか。金なら払う」
ロバートは金貨の入った袋を男に渡す。男は袋を開けて、中の金貨を見て目を丸くする。
「船と船長を手配します。しばらくお待ち下さい」
男は慌てて駆け出し、しばらくすると険しい顔をした巨大な男たちを連れてきた。
「アッテルマン帝国だな。あんただけかい?」
「この犬もだ」
「……犬っていう大きさじゃねえけど。まあいい、すぐ出る。ついてきな」
管理事務所の男がロバートに金貨の袋を押しつけてくる。
「あの、お金は後で結構です。戻られたら払ってください。何かと必要でしょうから」
「おお、ありがとう。必ず返す。えーっと、こういうときは一筆書く方がいいよな?」
ロバートは男が渡してきた紙に、『戻ったら金を払う。ロバート・ゴンザーラ』と書いた。
「こんなんでいいか?」
「は、はい。どうぞご無事で」
「おう、行ってくるわ」
ロバートは犬と一緒に船に乗り込んだ。
「娘さんがアッテルマン帝国に行ったのかい?」
「多分。詳しくはよく分からないんだ」
「あそこでは、女は奴隷みたいに扱われるらしいぜ。早く行って連れ戻さねえとな」
「ああ、必ず連れ戻す」
船はものすごい速さで進む。ザバンザバンと揺れ、ロバートは床の上でゴロゴロと転がる。
「おうぇぇぇー」
「おいおい、旦那。大丈夫かい? まだまだかかるぜ」
「大丈夫……ではないけど、大丈夫……。おうぇぇ」
床の上で力なくうずくまるロバートを、男たちは苦笑いしながら見ている。
「おいっ、ありゃあなんだ?」
「なんだよ」
「ほら、あそこ。バカでかいなんかがこっちに向かってくる」
「げえっ、なんだあのデケー鳥」
ロバートは吐きそうになりながら、顔を起こした。
「おお、あれは娘のフクロウだ。迎えに来てくれたのかもしれない」
フクロウはバッサバッサとしばらく船の上を羽ばたくと、スッとロバートのそばに降り立った。
「迎えに来てくれたのか。ありがとう」
ロバートはヨロヨロしながらフクロウに乗る。
「キュウーン」
クロがロバートを見て鳴く。
「この犬を港まで連れ帰ってくれないか? 金は戻ったら必ず払うから。こいつはクロっていう名前だ。自分で狩りもできる。しばらく港で預かっておいてくれ」
「おお、いいぜ。しっかり娘さんを連れ帰ってくるんだぜ」
「ああ、行ってくる。クロ、いい子で待ってるんだぞ。後で迎えに行くから」
クロはヒンヒン言いながらロバートの足にすり寄る。フクロウはおもむろに羽ばたくと、空高く舞い上がった。
「すっげー」
「あんなデカいフクロウ、初めて見た」
「かっけーなー、おい」
「しかし、デカい犬にデカいフクロウ。あの旦那、ただ者じゃねえな」
「みんなに自慢できるな」
男たちはご機嫌で船を旋回させ、港に戻って行った。