62.愛には愛を
カラカラカラカラ
「ミリー、何をしてるの?」
「ん? アルを見てる」
ミュリエルは執務室で、書類仕事をしているアルフレッドを眺めている。仕事をしているときのアルフレッドは、キリッとしてとてもカッコイイのだ。
「うん、それは分かるけど。その音はなに?」
アルフレッドは手を止めてミュリエルの右手を見る。
「ああ、ごめん。気が散った? 昨日拾ったクルミだよ。暇だから右手鍛えようと思って。ほら、父さんは片手でクルミ割れるからさ。ふたつのクルミを重ね合わせれば簡単らしいんだけど」
アルフレッドは苦笑する。
「……まだ強くなるつもりなのか」
「え、ダメ?」
「いや、僕にもクルミくれない? 僕も鍛えないと。もっとミリーに頼ってもらえるようにがんばるよ」
「ええっ、すごい頼ってるよ。書類仕事ほとんどアルがやってくれてるじゃない」
「僕にはそれぐらいしかできないから」
ミュリエルが目を丸くする。
「あらー、あららららら」
「どうした?」
「昨日ウィリーに言われたんだ。無理しすぎ、周りをもっと頼れって。私もそうだけど、アルもそうだね。人のことがすごく優秀に見えちゃって、自分はまだまだだって焦っちゃう。私からすると、アルは完璧な領主なのに」
「領主はミリーだよ。そして、ミリーはヴェルニュスにとってかけがえのない領主だ。完璧である必要なんてないんだ。ミリー、もっと僕を頼って。僕ではまだ不甲斐ないかもしれないけど」
「分かった、もっとアルを頼るね。アルもひとりで抱え込まないでね。アルが倒れると私もみんなも困るよ」
ミュリエルはアルの膝の上に座って、アルの頭を抱き寄せて、優しく撫でる。
「よしっ、右手を鍛えつつ、皆を労ってくるね。まずはアルだね。アル、いつもありがとう。頼りにしてる」
「ミリー」
甘い空気に護衛が息苦しくなってきたとき、やっとミュリエルがアルフレッドの膝から降りた。ミュリエルは元気よく執務室を出て行き、護衛は密かに息を吐く。ジャックが苦笑しながら窓を開けて空気を入れ替える。
「昨日ダンが言った通り、ミリー様は焦っていらっしゃるようですね。もっとご夫婦で褒め合う時間をお取りになってはいかがです?」
「ああ、そうだな、そうする。……その、ジャックも皆も、いつもありがとう。無茶ぶりについて来てくれて感謝している」
「もったいないお言葉でございます」
執務室に優しい空気が満ちた。
***
カラカラカラカラ
ミュリエルは出会う人全員にお礼を伝えながら散歩する。そういえば、まだちゃんと話してない人たちがいたな。
ミュリエルは地下に降りて行く。地下には巨大な貯蔵庫と、百人は余裕で働ける特大の台所があるのだ。そうっとのぞくと十人の男たちと、領民の女性たちが忙しく料理の仕込みをしている。
「あら、ミリー様。どうなさいました?」
ひとりの女性が目ざとくミュリエルを見つける。男たちは料理の手を止めて、ザッと直立不動になった。
「ああ、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったの。焦げちゃうから、続けてください」
皆、ぎこちなく料理を再開する。
「えーっとね、わざわざ王都からヴェルニュスまで来てくれてありがとうって言いに来たの。ごはんもケーキもおいしいです」
料理人たちは真っ赤になった。皆顔を見合わせ、しばらくためらったあと、ひとりが思い切ったように口を開く。
「あの……私たちこそ、ミリー様にお礼を申し上げたいです。ミリー様が考案された、『犬用ごはん箱』素晴らしいです」
「ん? 犬用ごはん箱ってなんだろう?」
ミュリエルは首をかしげる。
「レストランで食べ切れなかった料理を、お客様が家に持ち帰るための箱です。犬用とすることで、体裁を気にされるご貴族様も堂々とお持ち帰りできるようになりました」
「そうなの!? それはよかったねえ。きっとイローナが開発したんだよね。捨てるのもったいないもん」
ミュリエルは嬉しくて少し飛び跳ねた。料理人は頷きながら、眉を下げる。
「おっしゃる通りでございます。心をこめて作った料理をゴミ箱に入れる作業。あれほど虚しい時間はありません」
「信じられないよね、その捨てる分でヴェルニュスの民がどれだけ飢えをしのげたかって。王都に貧しい人もいっぱいいるのに」
「はい、私も平民ですので、何度持って帰ろうと思ったことか。ですが、それは店の品格を下げるので許されておりませんでした」
「そっかー、そんなことがあるんだね」
品格……ミュリエルにはあまり馴染みのない言葉だ。食べ物を捨てることの方がよほど品格を下げると、ミュリエルは思う。
「ですが、最近は貧しい人に下げ渡すことが、推奨されるようになりました。ミリー様のおかげです」
「ホントー? わー、今日はよく褒められる日だ」
「ミリー様に感謝している料理人は多いです。ヴェルニュスでの料理人募集が出たときも、すぐ枠が埋まったんですよ」
「そうなの! そっかー、よかった。困ってることあったら、なんでも言ってね」
ミュリエルはホッとした。もしかしたらイヤイヤ来ているのではと心配していたのだ。
「はいっ。あの、こちら新作のクルミケーキです。味見されますか?」
「え、いいの? アルに怒られないかな……」
ミュリエルはお皿に乗った小さなケーキを見つめる。上部にクルミが敷き詰められて、とてもおいしそうだ。
「お昼ごはんに差しさわりのない、味見程度なら大丈夫では?」
「そ、そうかな。わーい。……おいしい。クルミが香ばしくて、そんなに甘くないのにケーキ食べたーって気持ちになれる。もう少し食べても?」
「……あと半切れだけですよ」
思いがけずケーキにありつけ、ミュリエルはウキウキだ。もしや、台所は毎日労いに行くべきではないか? きっとそうだ。これは仕事だ。ミュリエルに新たな日課ができた。
ミュリエルは城塞内のお礼行脚が終わると、街に向かう。ミュリエルがお礼を言うと、倍以上になって返ってくる。ミュリエルはほんわかした気持ちになった。
***
パッパは護衛と共に元ムーアトリア王国の領土をゆっくり回っている。闇雲に回るのもなあと考えていたときに、ダイヴァから記録帳を託されたのだ。ヴェルニュスの主要取引先などがまとめられていた。
原材料の仕入れ先から、製品の売り先まで。ヴェルニュスの産業が丸裸にされた貴重な資料だ。
職人たちの家族は、ここに記載されたどこかにいるはずだ。パッパはそう確信する。親類縁者がいればそこにいる可能性が高い。
原材料の生産地は、あのとき粛清を免れた。原材料はラグザル王国にとっても価値が高いからだ。頼る縁故のいない者は、最終的に取引先に流れ着くのではないだろうか。
見つけてあげたい。あのとき引き離してしまった、家族に会わせてあげたい。その思いがパッパを突き動かす。
それに、これからヴェルニュスが復興するには、今のうちに原材料を大量に仕入れておく方がいいからな。
パッパの行く先で金が動く。少しずつ小さなうねりが起き始めた。