34.腕力と握力が大事
「帰りたくない」
アルフレッドはマチルダの家の客間でグズグズしている。
「今日ここに泊まってもいいだろうか?」
アルフレッドが子犬のような目でミュリエルを見つめる。
「えーっと、私は構わないけど?」
「本当?」
アルフレッドが満面の笑みを浮かべる。
「殿下、なりません。陛下から、必ず王宮に連れ帰るように仰せつかっております」
執事のジャックがキリッとたしなめた。ダンもうんうんと頷いている。
「もう結婚してるからいいじゃないか」
アルフレッドが恨めしそうな表情でジャックをにらむ。
「式はまだです。殿下、自重をお願いいたします」
「自重か……。ミュリエルの領地に置いて来てしまった」
「殿下、明日から王宮でミュリエル様と晩餐を楽しまれてはいかがです? 文官を同席させれば、陛下もお許しくださるかと」
「ジャック!」
アルフレッドが輝く笑顔でジャックを見る。
「すぐに手配いたします。さあ、そろそろお帰りいただきませんと」
***
翌日、家まで迎えに来てくれたジャックに連れられて、ミュリエルは王宮に行った。部屋の中ではアルフレッドが微妙な顔つきで座っている。ミュリエルはアルフレッドの隣の男性を見て、ドキンとした。
陛下がいるんですけど……。いや、いずれ挨拶するんだろうなーとは思っていたけれども……。
「ミリー、ごめんね。兄上が、文官よりまず自分だろうって聞かないから……」
アルフレッドが立ち上がって、ミュリエルの耳元でささやく。
「いえ、あの、いずれその時が来ると思っていたので、大丈夫」
いつも落ち着いているアルフレッドが、いつになく慌てている。
ミュリエルは王の前で跪こうとすると、止められた。
「よい。もう既に義妹だ。座りなさい」
真っ白のクロスがシワひとつなくかけられた長方形のテーブル。アルフレッドとミュリエルは王の向かい側の席に座る。
前菜から始まって次々とご馳走が運ばれてくる。初めは緊張していたミュリエルも、徐々に落ち着いてきた。なんせ料理が絶品だ。ミュリエルの舌ではもはや素材が何かも分からない、複雑で豊かな味わいのソース。
ミュリエルが夢中で食べているのを、アルフレッドは穏やかな笑みを浮かべて見ている。
「ミリーは狩りが得意だと聞いたが、領地では何歳ぐらいから狩りをするのかね?」
王が話を振ってくれる。
「そうですね、大体三歳ぐらいから森に行って狩りの真似事を始めます。もちろんまだ獲物は追えません。年長の子どもたちと森で遊びながら、近くにいる動物に石を投げて少しずつ技術を身につけます」
「それは、思ったより早いな」
「森で遊ぶと、狩りができる体になっていくのです。木を登ったり、ツタにぶら下がったり。そのうち自然と、ツタからツタへ移動できるようになります。猿と一緒です」
「猿と一緒……」
王がポツリとつぶやいた。
「私の最初の獲物はウサギでした。五歳のときでした。今でも覚えています。柔らかく温かい体がだんだん冷たく、硬くなります」
「そうか……」
「初めての獲物は家族で分け合って食べます。私は吐いてしまって……。でも、父さん、父が最後まで食べ終わるまで許してくれませんでした。それが命をいただく者の責務なのです」
「それは、幼い者には酷であろうな」
王が気の毒そうな表情になる。
「仕方がないです。狩りをするというのは、そういうことですから。獲物がとれるようになったら、徐々に解体も学びます」
王が真面目な顔で聞いている。
「片手でリンゴが潰せるようになったら、一人前です。単独での狩りも許されます。領地では、単独での狩りはしませんが」
王は驚いたようで、目を瞬かせる。
「ミリーは潰せるのか?」
「はい。私は十二歳のときに潰せるようになりました」
「試してみよう」
ジャックが頷いて給仕係に指示する。しばらくすると、リンゴの入ったカゴが運ばれてきた。
「見せてくれるか?」
「はい」
ミュリエルは立ち上がると、リンゴを持った手をまっすぐ伸ばす。深く息を吸うと
「はっ」
一気に力をこめ、リンゴを握り潰した。リンゴの汁が下のお皿にポタポタ落ちる。
ミュリエルはリンゴの破片をお皿にのせると、ジャックが渡してくれた布で手を拭う。
「見事なものだな。私も試してみよう」
王が立ち上がり、ミュリエルと同じようにやってみる。
「……無理だ。手が痛い」
王が子どものような笑顔を見せる。
続いてアルフレッドも試してみる。
「無理ですね。腕がプルプルする」
アルフレッドは悔しそうな顔をしている。
「コツさえつかめばできるようになりますよ。毎日練習すれば大丈夫です」
「やってみよう」
王とアルフレッドは真剣な顔で頷く。
「父は、片手でクルミも割れます。私はまだできません」
「すごいな……」
王とアルフレッドは目を丸くする。
「片手で人間の首を折れなければ、領主は務まらないそうですよ」
「…………」
王は何か言おうと口を開いたが、結局何も言わずに口を閉じた。
「私は片手でウサギの首なら折れます。イヤな感触です。でも、それができなければ一人前の狩人とは言えません。道具を使わずに、生き物の命をこの手で奪うのです」
ミュリエルは手のひらに視線を落とす。
「命を奪う、その感触を忘れないようにしなければ、驕りが出ます。生き物と自然に対して、驕り高ぶれば、人間は滅びます。領地ではそう教えられます」
王とアルフレッドは静かにミュリエルの顔を見つめた。
***
「なんとも、表現に困る少女だな」
王が複雑な表情でアゴを撫でる。
「そうですか? 僕はミリーのことならいくらでも語れますけどね」
「私との初めての食事で、あそこまで食べる人物は見たことがない」
王は苦笑する。緊張のあまり何も食べられない者がほとんどだった。
「魔牛を単独で狩れる少女ですよ。兄上や私など、一瞬でヤレる自信があるのでは? 臆する必要がないのでしょう」
アルフレッドは肩をすくめた。
「まあ、お前が気にいる理由は分かった。あの生命力の強さは、王都ではまぶしすぎるぐらいだ」
「あげませんよ」
アルフレッドがギロリと王をにらむ。
「私がお前のモノを欲しがったことが一度でもあったか? 私は妻を愛している。私にはアレで十分だ。あの少女は私の手には余る。お前は……大丈夫そうだな」
「逃げられないように必死ですよ」
アルフレッドは朗らかに笑った。
「ほどほどにな。もう印章を好き勝手使うのはやめよ」
「前からやっていたではありませんか。兄上も、書類仕事の手間が省けるから、見て見ぬフリをしていたのでしょうに」
「今回のことで、文官にバレたではないか。しばらくはやめておけ」
王は口を歪めて注意する。
「はい、分かりました」
「ラグザル王国との交渉条件を詰めなければならないな」
「それについては、間もなく準備が整います。もうしばらくお待ちください」
「うむ、任せた」
王とアルフレッドはゆっくりとウィスキーのグラスを傾けた。