31.幸せはどうやって
「リリー、すまない。私はマーリーンを愛してしまった。婚約を解消してくれないか」
リリーは絶望した。またか、また妹にとられるのね……。
「父にはもう話されたの?」
「ああ、さきほどマーリーンとふたりで話してきた。次女が三女に代わるだけだから、問題ないと」
わたくしの気持ちはどうだっていいのですね……。いつものことながら、あまりの仕打ちに言葉が出ない。何度も深呼吸して、やっとのことで絞り出す。
「分かりました。父がそう言うならわたくしは受け入れます。さようなら、キリアン様」
扉の影からマーリーンが覗き込む。キリアンがパッと笑顔になった。
そういうこと、わたくしがいないところでやって欲しいですわ。胸がじくじくと痛む。左手で胸を抑え、右手で左手首を握る。
少しだけ呼吸が楽になったような気がした。
そのまま腕輪を撫でながらしばらく我慢する。
(あの子なら、こんなときどうするかしら?)
意志の強そうな彼女の顔を思い浮かべる。アルフレッド王弟殿下の寵愛を一身に受ける、ミュリエル・ゴンザーラ男爵令嬢。いえ、今は女伯爵だったかしら? 密やかに叙爵されてるとウワサだったわ。
アルフレッド殿下が手段を選ばず囲い込んでいると、社交界で大騒ぎになりましたもの。
高位貴族の令嬢たちに囲まれても、どこかのほほんとしていたわね。ちゃっかり腕輪まで売りつけるなんて、大した子だわ。彼女ならきっと、わたくしのように唯々諾々と受け入れたりしないのでしょうね。
リリーはもう一度腕輪を撫でた。わたくしも、ミリーのように強くなりたい。
夜会になんて行きたくないけれど、婚約者を失ったわたくしは出ないわけにはいきません。一刻も早く、それなりの子息をみつけなければ。一生あの家で、妹マーリーンと比べ続けられてしまう。そんなのはイヤ。
婚約者を妹にとられたというウワサは、既に皆が耳にしたようだわ。憐れみの目で見られています。
とりあえず仕切り直そうと、リリーはバルコニーに出る。
はあーっ 深いため息を吐くと、人の気配を感じた。
バルコニーの奥の方に、男性がひとり立ってこちらの様子をうかがっている。
「失礼しました。どなたかいらっしゃるとは思いませんでしたの」
そっと部屋に戻ろうとすると、声をかけられる。
「よかったら、ここで話をしませんか? 中で社交する気にはなれなくて」
男性が近寄って来られます。整ったお顔立ち。確か、ヒューゴ・モーテンセン子爵子息ですわ。確か彼も、最近婚約を解消されたはずです。
「モーテンセン子爵家のヒューゴです」
「はい、存じております。わたくしはギルフォード侯爵家のリリーです」
「知っていますよ。……最近キリアンと婚約を解消されたとか。私も婚約を解消したばかりなのです。振られた者同士、愚痴でも言い合いませんか?」
リリーは目を瞬いた。
「まあ、随分はっきりと仰いますのね。驚きましたわ」
「貴族らしく言葉を濁していては、欲しいものは手に入らないと悟ったのですよ。あなたもそうなのでは?」
「そう……かもしれません。言いたいことを飲み込まず、吐き出してしまいたい。強くなりたいと、感じるようになりました」
ヒューゴはじっとリリーの腕を見る。
「その腕輪。今、王都で話題になっている物でしょう?」
「ええ、よくご存知ですわね。殿方の耳にまで届いているとは思いませんでしたわ」
「その腕輪を取り扱っている商会の娘が、私の元婚約者なのです。少し見せていただけませんか?」
わたくしはオズオズと左腕を伸ばしました。ヒューゴはそっと顔を近づけてマジマジと腕輪を見つめます。その真剣な眼差しに、少し落ち着かない気持ちになりました。
「少しだけ触っても?」
「え、ええ……」
ヒューゴは指先だけで、スルリと腕輪を撫でます。
「リリーに幸せが訪れますように。私に幸せがみつかりますように。イローナが幸せになりますように」
「まあ、なんですの、それ?」
「願いを込めて撫でると、それが叶うと言われています」
「まあ、本当ですの? 初耳ですわ」
ヒューゴは黙って微笑んだ。
「私は変わりたいと思う。今までは両親に言われるがままに生きてきた。平民上がりの成金と、両親がイローナを見下すのを聞き流していた。その結果、イローナを失ったように思う。失ったあとで、惜しむぐらいなら、もっと優しくしていればよかったのだ」
私はバカだ、小さなつぶやきが聞こえました。
わたくしは黙って、夜空を見上げる彼の横顔を見つめます。
「わたくしは、キリアン様のことはそれほど好きではありませんでした。家から出られるなら、誰でもよかったのです。誰かに頼らずとも、家を出て、ひとりで生きていければいいのに」
「働けばいいのです」
「まあ、何をして? わたくし、何もできませんわ」
リリーの丸い目を、ヒューゴがチラリと横目で見る。
「私もそう思っていた。でも、探せば仕事はあるものですよ」
「それは男性だからですわ。女性にまともな働き口など、ありませんわ」
ヒューゴがまっすぐリリーに向き合う。
「読み書き計算ができる、貴族女性。大丈夫ですよ。家庭教師でもいい、礼儀作法を教えてもいい。伝手があれば王宮で官吏として働いてもいい。今王宮は文官を募集中だ」
「まあ……。何かやってみようかしら」
ほんの少し、気持ちが動いた。少しだけ、ウズウズするような、踊りたくなるような、そんな感覚が浮かぶ。
「やってみたらいいと思う。仕事が軌道に乗ったら、小さな家に住めばいい。もしくは家庭教師として住み込みで働いてもいい」
「物知りですのね。すごいわ」
「親に目隠しされたままではいけないと思ってね。いい年なんだし。色々なことを試している。私も家を出るためにお金を貯めているところだ」
ヒューゴの表情がかすかに明るくなる。
「……家庭教師なら、できるかもしれないわ」
そう、それなら今まで教わったことを、自分なりに工夫すればなんとかなるかもしれない。じんわりと胸が温かくなる。
「爵位を買ったばかりの成金男爵がオススメだね。礼儀作法や貴族社会の常識を知りたがっている」
「どなたかご存知であれば、紹介していただけないかしら」
「いいですよ。男爵になりたての商人をいくつか知っている。紹介しましょう」
「ありがとう。どのようにお礼をすればいいかしら?」
ヒューゴはしばらく考えて、リリーを見つめながらゆっくり言葉を紡ぐ。
「そうですね……。本音で会話してくれる相手が欲しかったのです。たまに会って、話し相手になってくれますか?」
「そんなことでよければ、ええ、もちろんですわ」
リリーとしても大歓迎だ。世間知らずの自分には、ヒューゴに聞きたいことがまだまだたくさんある。これではお礼にならないけれど、いいのかしら……。
ヒューゴのぎこちない笑顔を見て、リリーはとにかくやってみようと心を決めた。
***
「リリー先生。もう今日はおしまい。ナータン、疲れちゃった」
「ナタリー様、わたくしと仰ってください」
「はーい」
「伸ばしては優雅ではありません。はい、ですわ」
「はい」
「リリー先生、今日はデートでしょう。そろそろ行かなきゃ」
「……どうして知っているのかしら」
「だって、リリー先生って、嬉しいとひとり言が増えるんだもん。みんな知ってるよ。そろそろ結婚かって、かあさま言ってたよ」
「…………」
「リリー先生、顔赤いね。早くヒューゴさまに会いに行ったら?」
「なっ」
リリーは真っ赤な顔を両手で隠した。リリーの左腕の腕輪がキラリと光った。