36.とある靴屋の志
ローテンハウプト王国の王都にある、小さくてかわいい靴屋。平民の女の子でも、がんばってお小遣いを貯めれば買える靴がある。オシャレに興味はあるけれど、お金に余裕はない女の子たちからありがたがられている。
その店は、たったひとりの女主人、ジェシカによって切り盛りされている。ジェシカは、元々は、もっと高級な靴屋の店員だった。靴が大好きなジェシカにとって、靴屋での仕事は楽しかった。
働き始めたころは、やること、覚えることが山ほどあって、無我夢中だった。
「ジェシカ、この顧客名簿、覚えてね。今週中」
「は、はい」
今週中って。分厚い名簿にめまいがする。しかも、機密情報なので家には持って帰れない。閉店後に事務所で、うつらうつらしながら必死に頭に叩き込むのだ。
ありがたいことに、名簿には名前の他に、見た目や特徴、口癖、注意事項、好きな靴の種類など、事細かに記されている。絵が得意な誰かが描いたのだろうか、似顔絵まである。
「ケイト・ベッドフォード子爵夫人。ご主人のマックス・ベッドフォード子爵は王宮で文官をされていて、アルフレッド王弟殿下のお気に入り。ケイト夫人は、文官の奥様方のまとめ役。華美な靴は好まれないと」
なるほど、派手な衣装はお召しにならず、質の良い上品な服をお好みなのね。靴も品がよく長持ちして履きやすいものをお勧めすればよいのか。子爵夫人にしては珍しく、直接お店に買いにいらっしゃるらしい。
たいていのお金持ちのご婦人は、屋敷に靴を持ってこさせて、気に入ったものを購入されるのだが。例えば、そう、この方のように。
「ミランダ・サイフリッド男爵夫人。サイフリッド商会会長の最愛の奥様と。びっくりするほどの美人。決して笑顔はお見せにならない。男爵夫人ではあるが、高位貴族のご婦人方から愛されているので、決して粗相があってはならない」
ミランダ様は、美しすぎて事件が起こりすぎるので、外商が屋敷までお伺いするのが常らしい。
「ミランダ様がご購入された靴は、王国中で流行るので、在庫に注意すること」ですか。すごいわ。
よく流行っている高級靴屋、外商がほとんどなので、お店に買いにくるお客様はそれほどいない。高位貴族を見慣れていて、目の肥えている店員は、一見さんを冷たくあしらうこともよくある。
カランコロン ベルが鳴って、扉が開くと、店員はにこやかな笑みを浮かべてさっと客を一瞥する。頭の先からつま先まで。一瞬で。
「田舎から出てきた貧乏貴族」そんな判断をくだすと、さっさと追い出しにかかる店員も。貧乏人に接客するぐらいなら、事務所で上客に手紙でも書く方が、効率がいいからだ。
「いらっしゃいませ。ありがとうございました」暗に、あんたは客じゃない、さっさとお帰り。そんなことを言う店員までいる。それは、ジェシカには耐えられない。苛烈な先輩店員が口を開く前に、さっとジェシカは笑顔で歩み寄る。
「ようこそいらっしゃいました。本日はどのような靴をお探しでいらっしゃいますの?」そう柔らかく尋ねると、緊張していた女性はホッとした表情になり、小声で欲しい靴を話してくれる。
お客様のご要望を聞きつつ、その方の服や靴を頭に叩き込み、大体の予算の目星をつける。高すぎる靴を出すと委縮されるだろうし、安すぎると気分を害されてしまうかもしれない。
とはいえ、安い靴はほとんど置いていないのだが。なんとか、安めの靴をご紹介しても、こっそり値札を見て、さっと顔色を変えるお客様も多い。
「あ、あの、ごめんなさい。私」モゴモゴと言い訳を口にしながら、真っ赤な顔で出ていくお客様。
「だから、言わんこっちゃない。貧乏人を相手にするだけ、時間の無駄よ」先輩店員は呆れた顔でジェシカに声をかける。それでも、やっぱりジェシカはお客様に無碍なことはしたくない。
あるとき、古ぼけた服を着た老婦人が、これまた流行遅れの服をまとった侍女を連れて来店したことがあった。他の店員は、挨拶だけして、さっさと事務所に下がる。いつの間にか、お金のない客はジェシカが担当、そんな流れができていたから。
「ようこそいらっしゃいました」ジェシカはもちろん、いつも通り、にこやかに接客する。
杖をついた老婦人を椅子に案内し、ゆっくりと会話を交わす。
「わたくし、足の幅が広くて、甲が高いのよ。ですから、なかなか合う靴がなくて。膝も悪いし、とにかく履いていて楽な靴がいいの」
老婦人は目をしょぼしょぼさせながら、ボソボソ言う。ジェシカは老婦人の靴や服、帽子、アクセサリーを見て、怪訝に思った。古びてはいるけれど、とても上質な品々のように見えるけれど。もしかしたら、裕福な方かもしれないわね。
ジェシカは悩んだあげく、値段は張るが、足にピッタリ沿って歩きやすいと評判の靴をいくつか並べた。老婦人はいくつか試して、一番高い靴を杖で指す。
「これをいただきましょう。あなた、来週屋敷に来なさい。いくつか靴を持ってきてちょうだい」
老婦人と侍女が店を出ていったあと、もらった名刺を見てぼんやりしていると、先輩たちに取り囲まれた。
「オリヴィア・デンチ伯爵夫人。え、名前聞いたことある。隠居してるけど、お金持ちって」
「うっそー、すっごーい」
「やったわね、ジェシカ」
お高くとまってはいるけれど、意地悪ではない先輩たちは、手を叩いて喜ぶ。皆で、選りすぐりの靴を選んでくれた。
初めての外商。緊張して喉がカラカラのジェシカに、オリヴィア伯爵夫人は意外な打診をした。
「お金を有意義に使えないかと考えていてね。靴屋でも開こうかと思っているのよ。お高くとまってなくて、平民の女の子でも緊張せずに靴が買えるお店。そういうお店があったらいいと思わない?」
店に来たときとは、打って変わって、威厳たっぷり。いかにも高位貴族といった雰囲気のオリヴィアの言葉に、ジェシカは言葉が出ないまま何度も頷く。
「長年舞踏会で見てきたのよ。足に合わない靴で必死に踊る若い子たちを。お金がないと、靴を選ぶのもままならないでしょう。お金のなさそうな、みすぼらしい客にも、誠実に接客してくれる店員を探していたのよ」
ジェシカは、オリヴィア伯爵夫人のお眼鏡にかなったらしい。新しく開ける、靴屋の女主人に雇ってもらえた。
「別に儲ける必要はないのよ」
だって、お金ならあり余ってるし。そんなことを匂わせるオリヴィア伯爵夫人。
「気負わず、じっくりやりなさい。急がなくていいわ」夢のような話だ。
ことさら宣伝などはせず、徐々に人づてにお客様が増えていく。ジェシカは、どのお客様にも、誠心誠意、心を込めて対応した。
あるときから、急にお客様が増えてきた。皆さん、口々におっしゃる。
「あのミリー様が、例の夜会で履いていらっしゃった靴。こちらのものなんですってね」
目をキラキラ輝かせたお嬢様たちが、小声でこっそり聞いてくる。
「あのミリー様」最初はなんのことだか分からなかったけれど。サイフリッド商会のイローナお嬢様がいつか連れてこられた、背の高いお嬢さん。それが、あのミリー様らしい。
少しでも、あのミリー様の幸運にあやかろうと、若い女性たちが来店される。ジェシカはすっかり忙しくなった。
「店員を増やす方がよさそうね」オリヴィア伯爵夫人は嬉しそう。
「また変装して、いい店員をつかまえてくるわね」すっかり楽しんでいらっしゃる。
足に合った、素敵な靴を、かわいいお値段で。オリヴィアとジェシカの志は、王都で大きく花開いた。
フリザンテーマさま「私は靴屋のエピソードがお気に入りです。マリーナさんもそこの靴屋で買ったのかな、と思いました。靴屋視点の話を読みたいです」
リクエストありがとうございます。
書籍1巻に出てきた靴屋のお話です。




