27.シャルロッテ
「シャルロッテ、あれがパンサーという動物だよ」
父に連れて行かれた公爵家の庭の、大きな囲いの中に、その動物はいました。子馬ほどの大きさのある、猫のような生き物です。淡い褐色の肌に不思議な黒い斑紋があります。
歩くたびに、しなやかな筋肉が盛り上がります。なんて美しい……そう思ったとき、目があったのです。全てを諦めたような目でした。
「ちょっとしたモノだろう。父上が貿易商から高値で購入したのだ」
公爵家子息のゲイリー様が自慢げに仰います。
「来た当初は暴れたのだがな。今はああして大人しいだろう。何度か水をかけてシツケをしてやったのだ」
わたくしは何を言えばいいのか分かりませんでした。
「死んだら毛皮を応接室に飾るつもりだ」
わたくしは、もう一度その哀しい目を見ました。わたくしは耐えられなくなって、目をそらしました。
***
「ロバート・ゴンザーラ、男爵家の長男だ。田舎の領地に住んでいる。領民は千人ばかりの弱小領地だ。産業はない。狩りと農業で暮らしている。厳しい領地だ。健康な人間でないと暮らしていけない」
その男は、静かな目で教室を見回しました。
「健康で金のある女性を嫁にもらいたい。ひどいことを言っているのは分かっている。だが、騙して連れて帰っても逃げられるだけだからな」
教室は静かです。男はニコリともせず、席に着きました。
なんとなく気になって、その男を目で追うようになりました。今まで王都で見たことのない、荒削りな男だったからかもしれません。
彼はいつもひとりです。古びた流行遅れの服を着て、たまに裸足で学園に来るのです。
「どうして靴を履かないの?」
気になって聞いてみました。彼は少し照れくさそうに笑います。
「領地では、冬しか靴を履かないんだ。靴は高いからな。それがクセで、つい履き忘れてしまう」
「まあ……」
靴を履かない領地があるだなんて。わたくしには想像もつきません。少しずつ、彼と話をするようになりました。
「石で狩りをするの? 弓ではなくて?」
「弓は高いからな。滅多に使わない。石はいいぞ、どこにでもあるだろう。それにタダだ」
彼が屈託なく笑います。子どもみたいに邪気のない笑顔です。
彼が剣術の授業を受けているところを見ました。意外にも剣が使えるのです。雅では決してないですが、じっくり機会をうかがって一撃で急所を突くのです。
美しい、そう思いました。なぜだか、あのときの哀れで優美なパンサーを思い出しました。
父がわたくしに婚約話を持ってきました。あのときの、公爵家のゲイリー様です。わたくしは咄嗟に、イヤだわと思いました。でも、そんなことは言えません。貴族女性は親の決めた相手と結婚する、それが幸せだと教えられてきました。
「シャルロッテ、なんて美しいのだ。そなたは完璧な淑女だ。私は誇らしく思う」
滅多に褒めない父が、珍しく上機嫌です。公爵家と縁つづきになるのが嬉しいのでしょう。
わたくしは父に従って、公爵家の応接室に入りました。すっかり背が高くなった青年のゲイリー様がいらっしゃいます。わたくしは挨拶しようと近づいて、息が止まりました。
ゲイリー様が、パンサーの毛皮の上に立っているのです。わたくしは頭が真っ白になりました。足がすくんで一歩も動けません。
「シャルロッテ」
父の咎めるような声が遠くで聞こえます。都合よく、わたくしは意識を失いました。
「わたくしは、ゲイリー様とは婚約いたしません」
生まれて初めて父に反抗しました。父にひどく頬をぶたれました。母が止めるまで、何度も叩かれました。
顔が腫れあがって、学園をしばらく休まなければなりませんでした。
やっと学園に行けたとき、わたくしを見てロバートはパッと笑みを浮かべ、そのあとすぐ表情をくもらせました。
「何かあったのか?」
わたくしは、ロバートにパンサーのことを話しました。ゲイリー様のことも。彼とは婚約したくないことも。
「ロバート、わたくしをあなたの領地に連れて行って」
ロバートはわたくしを黙って見つめると、わたくしの手を優しく両手で包みます。
「分かった。すぐご両親にご挨拶に行こう。許してもらえるまで何度でも頭を下げるよ」
父はロバートの話をろくに聞きもせず、屋敷から追い出しました。わたくしは部屋に軟禁され、外出を禁じられました。
「ロバート……」
泣きすぎて頭がはっきりと動きません。ロバートの幻影が窓の外に見えるぐらいです。
カタリ 窓が開いて、ロバートの幻影が部屋の中に入ってきます。冷たい夜風がわたくしの頬を撫でます。
「シャルロッテ、君のお母さんに連絡をもらった。今なら出られる。俺と一緒に行ってくれるか?」
「わたくし、持参金を払えないわ……」
「金なんてどうでもいい。シャルロッテが来てくれるなら、俺はそれだけで幸せだ」
「行くわ」
「二度と王都に帰れなくなるかもしれない」
「それは行ってから考えるわ」
わたくしは母にだけ別れを告げました。母はわたくしをキツく抱きしめ、何も言わずに金貨のぎっしり詰まった袋をくれました。ほとんど着の身着のままで家を出ました。
ロバートが手配した馬車に揺られ、靴を履かない領地にやって来たのです。
***
「シャルロッテ、領民がお前のドレスを買ってやれって。明日一緒に隣の領地に買いに行かないか?」
ロバートが照れくさそうに誘います。
この二十年、ロバートにはほとんど毎年謝られ続けてきました。
「すまないシャルロッテ。新しい井戸をいくつも増やしたせいで、もう金がないんだ。新しいドレスを買ってあげたかったのに」
その度にわたくしは、笑いました。お金はいつだってないのです。なんとかするしかありません。わたくしは安い布で家族の服を作れるようになりました。
ドレスを買いに行くのは久しぶりです。ロバートの新しい上着も買いましょう。家族全員の服を買えるなんて、心が浮き立ちます。
「ずっと苦労させてすまなかったな」
「確かにそうだわ」
ロバートが少し肩を落とします。
「でも、檻の中で毎日新しいドレスを着るよりよっぽどいいわ。わたくしはどこにだって歩いて行けますもの。靴を履かなくたって、あなたとならどこにでも行けるのよ」
ロバートが不安そうにわたくしを見ます。
「六人も子どもを産んだのに、どうしてそんな顔をするの?」
おかしくて笑ってしまいます。
「幸せか? シャルロッテ」
「もちろんよ、ロバート。わたくし、ずっと幸せよ」
ロバートの首に腕を回して、優しい瞳を見つめます。
あの哀しい目をしたパンサーを、わたくしは忘れることはないでしょう。
ロバートが、そして家族と領民が、あのような目をすることが決してないよう、わたくしは強くあらねばなりません。