196.英才教育
ルーカスは最近、自分の手がお気に入りだ。目の前に手を広げてじっと見ている。なんとかして、手を口の中に入れようとしているが、まだ難しい。手を思ったように動かせない。
目の前に上げていた手を、バッと頭の横に下げる。そろそろ、顔に沿って手を下までずらしていく。やっと手が口元まできた。顔を思いっきり右に曲げ、手を近づける。何度も失敗したが、ついに親指が口の中に入った。
無心で親指を吸うルーカス。一部始終を見ていたミュリエルは複雑な気分だ。両親から聞いていた、赤ちゃんのときの自分とまるで同じなのだ。
「親指吸うと、安心するよね。きっと」
覚えてはいないけど、夢中で吸っているルーカスを見ると、そんな気がする。ミュリエルは四歳ぐらいまで吸っていたらしい。いつの間にかやめて、ふやけてボロボロだった爪もきれいになったと聞いている。
「不思議なところが似るんだねえ」
親指をくわえたまま、眠ってしまったルーカスをダイヴァに任せて、ミュリエルは外に出る。産まれたばかりの子馬を見に行くのだ。
人の子とは違い、子馬は産まれて一時間以内に立ち上がれるようになる。そのあと、大事な初乳を飲めれば安心だ。お乳を飲み、よく寝る。そうすれば元気な馬に育つ。そこは人と同じだ。
馬小屋の近くに行くと、母馬が子馬と一緒にのんびり歩いている。ミュリエルは遠くからじっくり眺める。よかった、母子共に元気そうだ。産後の母馬は気が荒くなるので、あまり近づかない。我が子を守ろうと必死なのだ。
ミュリエルにはその気持ちがよく分かる。たった今、来たばかりだというのに、もうルーカスの元に戻りたい。ダイヴァがいるから大丈夫なのに。でも、空っぽの腕がウズウズするのだ。
馬から離れて、のんびり歩く。肩を回して少しずつ体をほぐす。
「石投げも訓練しなおさなきゃなあ」
妊娠してから狩りに行っていないので、体がなまりまくっている。徐々に鍛えなければ。いざとなったら、ルーカスを担いでどこまでも走らなければならない。
「ミリーさまー」
上から小さな声が降ってきた。見上げると、カラスに乗って手を振る親指小僧。カラスの周りには、他にも色んな鳥が飛んでいる。そしてそれぞれ、親指たちが乗っている。
「みんな、鳥に乗るのすっかりうまくなったねえ」
手作業が苦手で、体を動かす方が得意な親指たちは、鳥部隊の一員となった。空から危険を監視し、いち早く知らせる役目を担っている。
いざとなったら戦ってもらうが、戦いよりは監視を主にしてもらっている。だって小さいから、危ないではないか。
「怪しいやつは、決してルーカス様に近づけませんから。安心してください」
親指たちが頼もしく言う。ルーカスは領地の宝だ。絶対にさらわれる訳にはいかない。
「ありがとう。ちゃんと休憩してね」
「はい」
親指たちは空高く舞い上がり、領地をグルリと回る。
「もしルーカスに何かするやつがいたら、私も魔剣投げるわ」
今なら、変態を瞬殺した父の気持ちがよく分かる。ボヘーっとさらわれて、悪かったなーと思っている。
「ルーカスがものをつかめるようになったら、布振りやらせるか。やっぱり、守られる側も強くないとね」
石投げ族の英才教育が間もなく始まるであろう。
***
ところかわって、ゴンザーラ領。ロバートとシャルロッテは、黄金の馬アハルテケで乗馬デートだ。いつもはお淑やかなシャルロッテ。乗馬のときはキリッと強くなる。ロバートに負けないぐらいの速さで馬を駆る。
ヒルダ女王は、約束通り、たくさんのアハルテケを送ってくれた。馬の世話人まで一緒によこしてくれた。
『馬の世話人たちは、ロバート様の信者ですので、ご心配なく』そんな手紙と共に、馬が続々とやってきた。今は二十頭のアハルテケが、のびのびと領地で暮らしている。
「気候の違いが馬たちにどう影響するか、注意して見ていてくれ」
ロバートの言葉に、世話人たちは嬉しそうに請け負う。大好きな馬に、神の御使ロバート様が乗るのだ。これほど誇らしいことがあろうか。
とてつもない速さで馬を走らせていたふたりは、川辺で馬を止めた。馬はゴクゴクと水を飲んでいる。
「このまま走って、ヴェルニュスまで行くか。ルーカスの顔を見て、帰ってこよう」
ロバートは半ば本気で言っている。
「心惹かれる提案だけど、やっぱり無理よ。マリーナも妊娠中ですし」
「そうだな」
長女のマリーナが第一子を妊娠中なのだ。ミュリエルが無事出産して、なんだか気が楽になったらしい。森の子どもを産まなければと、密かに気にしていたようだ。ミュリエルが森の息子を産み、弟たちがモテ期という真偽の定かではない鳥便で、マリーナはホッとした。
「あーよかった。私ががんばらなくても、弟たちの奥さんが産んでくれるよね」
そう思って、肩の荷がおりた。そしたら妊娠した。不思議なものである。
「マリーナが安定期に入ったら、少しだけヴェルニュスに行きましょうか」
「そうだな」
ふたりとも、初孫に会いたくて仕方がない。
「孫って、しつけとか気にせず、ただかわいがればいいから、かわいいんですって。お義母さまが言ってたわ」
「そうか。子ども用の石投げスリングを作っておくか」
ロバートは孫を鍛える気まんまんだ。母と祖父に鍛えられ、ルーカスは強くなりそうである。