191.産まれました
「産まれましたー。男の子ですーー」
ダイヴァの声が、夜明け前のヴェルニュスに響き渡った。一睡もせず、ひたすら祈っていた領民たちは、泣いて笑ってわけが分からない状況になっている。
ナディヤが赤ちゃんを布でくるみ、半分気を失いかけて、朦朧としているミュリエルの胸の上に置いた。
「元気な男の子ですよ」
「う、うう。産まれた。私の赤ちゃん」
かぼそい赤ちゃんの泣き声と、ミュリエルのうめき声。ずっと目を閉じて、ミュリエルの枕元で聖典を読んでいたアルフレッド。立ち上がると赤ちゃんとミュリエルを優しく抱きしめた。
「ミリー、大丈夫? よくがんばったね。ありがとう」
アルフレッドの声は枯れて、ほとんど出ていない。初産は時間がかかると聞いてはいたが、夜から夜明けまでかかった。聖典のおかげで、これでも安産だったらしい。ナディヤに言われ、アルフレッドは愕然とする。
「これで安産だなんて。信じられない。ミリー、疲れただろう。ゆっくり寝なさい」
「う、ううう。お腹すいた」
「スープならいいでしょう」
ナディヤの言葉に、ダイヴァは大急ぎで台所に向かう。
「そんなこともあろうかと、スープをご用意しておりました。すぐに温めます」
料理人たちは血走った目でダイヴァと抱き合う。
温かいスープが運ばれ、ミュリエルはたくさんの枕を背にして体を起こす。
「赤ちゃんを軽くお湯で洗いますね」
ナディヤが赤ちゃんをお湯の入ったタライに入れ、布で拭く。ついていた血が少しずつ取れて行く。ミュリエルはボーッとそれを見ながら、アルフレッドがスプーンで口に運んでくれるスープを飲んだ。
「肉が食べたい」
ミュリエルは半分寝かけながら、つぶやく。
「少し寝て、起きたらお肉入りのスープにしましょうね。その前に、初乳を赤ちゃんにあげましょうか。赤ちゃんの体が強くなりますからね」
ナディヤは、「では、少し失礼しますよ」そう言ってミュリエルの胸を優しくマッサージする。
「出てるのかな」
「大丈夫、少しですけど出てますよ。最初はこんなものです。徐々に量が出るようになります」
ナディヤの指示で、赤ちゃんはダイヴァが抱っこ、ミュリエルをアルフレッドが抱きかかえる。その間に、女性たちが入って来てあっという間にシーツを取り替えた。
アルフレッドは清潔なシーツの上にミュリエルを置き、ダイヴァがミュリエルの胸元に赤ちゃんを乗せる。
「さあ、赤ちゃんと一緒に寝てください」
「つぶしちゃいそうで怖い」
ナディヤとダイヴァが優しくミュリエルの上に、軽く柔らかい布団をかけた。
「大丈夫です。交代で女性たちが見守りますからね。安心して寝てください。殿下もですよ」
「僕は端で寝る。寝れるかは分からないが」
アルフレッドは赤ちゃんを潰さないように、ベッドの端にもぐり込んだ。アルフレッドは赤ちゃんの小さな握りこぶしの中に、人差し指を入れてみた。やわやわと握るその小さな手に、少し怖くなる。
「こんな小さな手に、ちゃんと爪がついてる」
くちゃくちゃで赤い顔。グニャグニャの小さな体。言葉にできない感情に、アルフレッドは揺れている。
今までお腹の上から撫でていた我が子が、胸の上にへばりついている。守ってあげなければ。ミュリエルはそう思いながら、あっという間に眠りに落ちる。
ナディヤは仮眠を取りに行き、ダイヴァがミュリエルの近くの椅子に座った。
アルフレッドはしばらくミュリエルの寝息と、息子の立てるかすかなみじろぎの音に聞き入った。恐ろしい。でも安らぐ。収拾のつかない感情に混乱しながらも、アルフレッドもいつしか眠りについた。
「ぐえええええ」
ミュリエルのうなり声でアルフレッドは飛び起きる。赤ちゃんは弱々しく泣いた。
「どうした、ミリー」
「お腹が痛いー。ギュウウって締めつけられる感じ」
ミュリエルはアルフレッドの腕をギリギリつかむ。
「後陣痛です、ミリー様。赤ちゃん用に大きくなっていたお腹の中が、元に戻っているんですよ。アル様は、ミリー様のお腹に手を当てて、温めてください。少しは楽になります」
それから、ダイヴァの助けを受けながら赤ちゃんを胸に当てる。
「うわああ、胸がツーンてするー」
「母乳が出始めたんですよ。よかったですね」
「どこもかしこも痛いよ」
ミュリエルは弱音を吐いた。体中が痛くて、うまく力が入れられない。
「ゆっくり寝てください。ミリー様の体は今ボロボロですから。体を休めて、赤ちゃんに母乳をあげられれば、それで十分なんですよ」
「ダイヴァも休んでね」
「はい、交代の人が来たら寝ますね」
女性たちが入れ替わり、つきっきりでミュリエルと赤ちゃんを見守る。
「すっごいお腹減るんだけど」
「出産で体力を使いましたからね。母乳を出すとお腹が減るのですよ。どんどんスープを飲んでください。水分を取ってきっちり食べないと、ミリー様が痩せてしまいます」
仮眠を終えたナディヤに言われ、ミュリエルは遠慮なくスープをモリモリ食べることにする。肉も入っている。
「ケーキは」
「少しだけならいいですよ。食べすぎると、母乳が詰まって、胸がカチカチになります。激痛です」
「はーい」
ミュリエルは、料理人たちが用意してくれた、小さなリンゴのパイを食べる。ケーキを食べて、ミュリエルは元気になった。アルフレッドに助けられながら、ゆっくりとベッドから降りる。
「神様にお礼をしなきゃね。みんなにも報告しないと」
見苦しくない程度に身なりを整えてもらい、バルコニーに赤ちゃんを抱いて出る。領民たちにも連絡が行き渡り、バルコニーの下に集まっている。ミュリエルと共に、皆跪いた。
「父なる太陽、母なる大地、我ら大地の子。無事に子を産めたことを感謝いたします。新しい森の息子、ルーカスに祝福を賜らんことを。全ての子どもに祝福を与え給え」
ミュリエルは腕輪を握りしめると、静かにささやいた。
「無事に産まれました。男の子、ルーカスです」
領民は歓声を上げる。
「よかった。おふたりが無事でよかった」
「いい名前だ」
「普通っぽい」
「色じゃなかった」
心配していた領民たちは、安心のあまり思わず失礼なことを言っている。ミュリエルはドヤ顔で領民たちを見下ろした。
「色じゃない名前だって、つけられるんだからね」
アルフレッドは吹き出し、領民たちは爆笑する。
その日、ローテンハウプト王国の至る所でラッパが吹き鳴らされた。王宮には吉報を示す国旗が掲げられる。王家と貴族家から酒場に遣いが行き、振る舞い酒が出された。ミュリエルの大好きな、ソーセージ入りパンが、道行く人に配られる。サイフリッド商会のはからいだ。
ロバートは号泣し、シャルロッテは安堵のあまりへたりこみ、ばあさんたちが宴の準備に若者たちを追い立てる。
ラグザル王国にいるラウルとハリソンも、腕輪の声で大騒ぎ。抱き合って飛び上がった。
「男の子だから、ラウルは結婚できないね」
「うむ、よいのだ。余は、自分で好きな人を見つける」
ハリソンのからかいに、ラウルは大真面目に答えた。
アッテルマン帝国の帝都でも、ヒルダが祈りを捧げた。旅の途中のデイヴィッドたちも、腕輪からの報告に歓声を上げる。ジェイムズが祈りを捧げ、イシパが叫び、空の上の父が応える。
優しい雨が、祈りを捧げる人たちの上に降り注いだ。初夏の空気を爽やかに洗い流すような、清々しい雨であった。