180.知力、体力、生活力
イシパの大きな手によって、浮いている人たちは救い出された。聖母はへたり込み、湖を見つめて小刻みに体を揺らしている。聖母の後ろにいる子どもたちは、わあわあと泣いている。
「助けに来たのに、私の方が悪者に見えるな」
イシパは少ししょんぼりしている。
「時間がたてば、分かってもらえると思うよ。それに、ほら。大人は感謝しているみたいだ」
はかなげな雰囲気の男性が、早足で近づいてきた。たくさんの森の娘が、男性を取り囲んでいる。まるで、彼を守ろうとしているかのようだ。
「神の御使い様であらせられますか? どうぞ、私と母を罰してください。他の民には、罪はありません」
彼は、ユラユラしている聖母を見る。聖母は湖から目を離さない。
「こ、この人も、あのクソばばあの犠牲者なんです。この人は、私たちに優しくしてくれました。決して無理強いすることはなく、いつも守ってくれました」
森の娘たちが、彼の前に出る。
「罰するのは、ヒルダの仕事だ。私は、助けに来ただけだ。話を聞こう。といっても、建物が湖の下に沈んでしまったけど」
イシパは困ったように辺りを見回す。
「大丈夫です。テントをはりましょう」
アイリーンの指示で、護衛たちがテントをはっていく。子どもたちから順番に中に入れられ、果物を与えられた。
人の大きさになったイシパは、聖母の息子や森の娘たちから、話を聞いた。息子は終始、淡々と、声を荒げることもなく、冷静に話す。一方、森の娘たちは感情を爆発させた。
「あんのクソばばあ、ねちねちねちねち言いやがって。しつけー」
「シャルマーク皇帝から逃れられる避難所だって聞いて、やって来たのよ。なのに、若い男女しかいらないっつってさー」
「両親は追い払われたの。生きてればいいけど」
「正しくありなさいって、クソばばあ。お前、人殺しておいて、どの口が」
「両親が実験台に使われてないといいけど」
ハッとして、森の娘たちは顔を見合わせる。息子が静かに言う。
「多分、それはないと思う。母は、森の子どもを重要視していたから。行商人に売ったかもしれないけど」
「ふーん。では、行商人もつかまえて、聞き出さなきゃいけないな。リーンの両親や、マッチ売りの少女のお父ちゃんはここにはいないみたいだし」
イシパはガバッと立ち上がる。
「詳しい話は、アイリーンが聞いておいて。私とデイヴィッドと護衛で、さっと行って行商人を探してくる。一刻を争うかもしれないだろう」
デイヴィッドは、少し休みたかったが、ぐっと我慢した。イシパひとりで行かせるわけにはいかない。イシパ抜きでここに残ったら、それはそれで面倒なことになるだろうし。
デイヴィッドと護衛たちは、疲れた体に鞭打った。楽園のラクダに乗り、出発する。さすがに乗ってきたラクダを休ませずに酷使するのは、かわいそうではないか。
「行っちゃいましたねえ」
「イシパ、元気だなあ」
残された者たちは、気を取り直して、今後のことを話し合う。
「せっかく水場があるから、ここでイシパさんたちを待てばいいと思うのですが」
アイリーンが、自信なさげに言う。ジェイムズは頷いた。
「そうしましょう。テントがあるから、なんとかなると思います。でも、少しずつ、簡易的な家は作りましょうか」
「どのように?」
「壊した石垣の石を積み上げて、屋根には木の枝とか葉っぱ被せればいいんじゃないでしょうか」
ジェイムズの言葉に、アイリーンの護衛たちが同意する。
「そうしましょう。少しずつ作りましょう」
「これだけ大きな湖ができると、あっち側に動物が水飲みに来ると思います。罠か落とし穴を仕掛けましょう」
ジェイムズの言葉に、テントから顔をのぞかせていた子どもたちが、少し笑顔になる。
「お肉、食べられますか?」
「多分。狩ってくるね」
ジェイムズは、家づくりは他の人に任せて、クロにまたがり駆けて行った。
残された者は、家を作ったり、水を運んだり。それぞれが、出来ることをする。小さな子どもたちも、一生懸命、石を運んだ。
アイリーンは力仕事には全く役に立たない。後宮に閉じ込められていた王女だ。世間知らずで生活力は皆無である。アイリーンは護衛ひとりと共に、聖母を監視する役目を請け負った。聖母の手と足はゆるく縛ってある。一点を見つめて呆けた顔をしている聖母。逃げたりはしなさそうだが、アイリーンは油断なく見つめる。
「あなたがヒルダのお腹にいるときに、あなたのお父様と寝たわ」
聖母は抑揚のない声でつぶやく。
「何を言っているの?」
「私の息子の父親は、シャルマーク皇帝なのよ」
アイリーンは息を飲んだ。向こうの方で、ヨロヨロと石を運んでいる男性。父の面影はあるだろうか。アイリーンは目を凝らすが、よく分からない。少し考えて、バカバカしくなった。
「それが本当だとしても、どうでもいいわ。母が女王、次期女王は私の姉。後ろ盾どころか、頭のおかしい母親がいる彼に、入り込む隙間はないわ」
アイリーンは、しばらく聖母と意味のない会話を続ける。聖母はうだうだと恨みごとを述べるだけで、重要な情報は話さない。アイリーンは護衛に命じて、聖母にさるぐつわをかませる。
「帝都に行ったら、好きなだけ話せばいいわ。情報を聞き出す専門の者をつけてあげます。そうね、聖典の民の末裔とかいう男と話が合うのではないかしら。地下牢は退屈だから、彼と信仰談義でもするといいわ」
聖母は一瞬、憎々しげにアイリーンを見たが、そっと目を閉じた。
そうこうするうちに、ジェイムズとクロが獲物を持って戻ってきた。
「鹿みたいなのをいっぱい狩ったよ。水場に現れると思った通りだった。まだ向こうにたくさん置いてきたから。誰かラクダで行って取ってきてください」
子どもたちが歓声を上げてジェイムズにまとわりつく。
「お兄ちゃん、すごいや。お肉食べるの久しぶり。それ、ガゼルっていうの」
「そうなの? 今からさばくからね。たっぷり食べられるよ」
ジェイムズは楽園の民の心を一瞬でわしづかみにした。子どもたちが小躍りする中、ジェイムズは肉を切り分けていく。焚き火を囲み、肉を食べる。半日一緒に働いただけなのに、もう一体感ができた。肉はすごいなあ。ジェイムズはしみじみ思う。
星空を眺めながら、クルトの歌を聞く。クルトは、あえて陽気な歌を選んでいるようだ。色んな地方の、祭りの歌を次々と披露する。さらわれてきた森の子どもたちは、歌に合わせて踊り出した。
禁欲的に生きてきた楽園の民に、久しぶりに訪れた娯楽。巨人に、王女に、犬で狩りするお兄ちゃん、そして歌う人。
「今日は楽しかったなー」
子どもたちは、笑いすぎてクタクタになって、テントに転がり込む。そのままコテンと寝てしまう。
翌朝、テントから這い出ると、砂漠に緑が広がっていた。
「うわー、草が生えてる」
その日からどんどん緑が増えていき、イシパたちがやっと戻ってきた数週間後。湖の周りには森ができていた。
「森ができてる」
イシパが少し焦った顔をする。
「ヤバい。神様に怒られないかな」
「大丈夫だと思うよ。いっぱい獲物の血を捧げておいたから」
ジェイムズがのほほんと言った。
「そうか。ならいいか。悪い行商人たちは痛めつけて、衛兵に渡してきたぞ。そいつらが幽閉していた森の子どもも助けてきた。人数が多くて連れて来れないから、街で待っててもらってる」
イシパが胸を張る。ジェイムズたちの拍手喝采に気をよくしながら、イシパは不思議そうに周りを見る。
「なんだか、人数が減っているような?」
「ああーうん、それねー」
ジェイムズはチラッと聖母と並んで座っている彼を見た。ニーナがコソコソっとささやく。
「あの人のたくさんの奥さんたちね。子ども連れて自分の故郷に帰って行っちゃった」
「えっ、そうなの」
「久しぶりに自由にのびのび暮らしたらね、目が覚めたって。やっぱり狩りができる、頼り甲斐のある男がいいよねー。故郷の男たちの方がいいわーって。母親の言いなりの弱虫はいらないんだって」
「ああー」
イシパとデイヴィッドはジェイムズを見て、納得と言った顔をする。
「聖母という共通の敵がいる極限状態だったからな。判断力が低下するし、依存しやすくなるんだろう」
デイヴィッドは、目の焦点のあっていない母と息子を見て、ため息を吐く。
「まあ、ひとりの男をたくさんの女で共有するのは。ちょっとどうかと思っていた。私は絶対イヤ」
イシパの言葉にアイリーンとニーナが強く首を縦に振る。デイヴィッドも頷いている。
「もうしばらくしたら、故郷に戻った森の子どもたちが、部族を連れてここに戻って来るはずです。こちらならたくさん住めますから」
「では、それまではのんびりするか。私は大丈夫だけど、デイヴィッドと護衛たちは疲れているから。ラクダも」
森になった楽園で、デイヴィッドは久しぶりに体を休めた。まだまだ片付けなければならない問題はたくさんあるが、いったん区切りはついたと言える。
もっと体力をつけないと、イシパの夫は務まらないな。イシパの健やかな寝息を聞きながら、デイヴィッドはすぐに眠りに落ちた。