179.聖母と呼ばれた女
聖母と呼ばれる女。昔は国母になると思っていたし、思われていた。砂漠の中の秘境に産まれ、森の娘としての力をいかんなく発揮した。
彼女が祈れば枯れかけた植物は生き返り、少し雨を呼ぶことができ、わずかな地下水脈を見つけることができた。
誰にも知られてはいけない楽園。ひと握りの行商人と、皇族のみ存在を知っている、そんな秘密の場所。彼女はそこで、国母になるため研鑽を積んだ。手に入る限りの書物を読み、祈りを欠かさず、その日が来るのを待った。
その日は来なかった。
「お父さま、今なんと仰って?」
彼女は長いまつ毛を震わせる。今、父が不思議なことを言った。
「シャルマーク王子は、別の砂漠の民、ヒルダと結婚した」
「何かの間違いでしょう。殿下は昨年いらした時、確かに私のことを気に入ってくださいましたもの。私ほど、国母にふさわしい森の娘はおりませんわ」
彼女には自信がある。なにせ、彼女のふたつ名は完璧さん。いついかなるときも、気を抜かず、完全無欠なのだから。
「その、な。殿下の馬がサソリに驚いて暴れたとき、ヒルダが暴走する馬に飛び乗って、なだめたそうなのだ。そのときの勇猛な姿に惚れてしまわれたと」
パリン 彼女の持っていた盃が粉々になる。
「お前のことは高く評価されていらっしゃるそうだが。一緒に暮らすなら、気を使うより、気の抜ける女性がいいと」
父は言いにくそうに続けた。
「まあ」
殿下は間違っていらっしゃるわ。間違いは正さなくては。彼女は、殿下に長い長い手紙を書いた。自分がどれほど国を思っているか。水源を見つけ、緑を増やし、国を豊かにしたい。民に教育を施して、武力ではなく、知力で戦える国にしたい。
美しく整った手蹟。夢だけでは終わらせないと思わせる、具体策と過去の実績。
「完璧だわ」
殿下はこれで、心を改めて、私に謝り、愛を乞われるはず。
待てど暮らせど、殿下はお見えにならなかった。ヒルダが第一子を産んだと聞いた。森の娘だそうだ。
「男児ではなかったのね」
彼女はホッとする。なに、自分が男児、森の息子を産めばいいだけのこと。彼女は入念に準備し、機会を待った。楽園には多様な植物が生える。果実や種子には色んな効能があることも分かった。時間はたっぷりある。彼女は研究に没頭した。
ついに狼煙が上がった。行商人や皇族は、秘境から見える奇岩石の上で狼煙をたく。迎えに行き、目隠しをして楽園まで連れて来る。そういう手はずで、ずっとこの場所を守ってきた。
久しぶりに見る殿下は、少しお疲れの様子だが、変わらず精悍だ。次期皇帝としての自信に満ちている。
「息災であったか」
「はい。万事つつがなく」
彼女は短く答える。飲み物や食べ物には何も混ぜない。香に少し手を加えた。ほんの少し、判断力をゆるめ、大胆にする。それで十分なはず。
「ヒルダ様は第二子をご懐妊とお聞きしました。おめでとうございます」
殿下はまだ側室を持っていない。妻が妊娠中の殿方は、浮気をしやすいと聞く。うまく行った。彼女は無事、殿下の子を身ごもった。
「私が森の息子を産めば、私は国母となれる」
きっと森の息子が産まれるはず。だって、こんなに祈っているのだもの。
ところが、産まれた息子は、茶色の目を持っていた。彼女は絶望した。一方、ヒルダが産んだのは、また森の娘だった。
子育ては大変だったが、やりがいがあった。清く、正しく、強い男子に育てねば。自分の持つ全てを、息子に継ごう、そう思った。息子は母の顔色をよく読み、先回りして対応できる、気の利く少年に育つ。
「あなたは皇帝の父になるのよ」
「はい、お母様」
「あなたの妻には、強い森の娘がいいわ。そして、たくさん森の子どもを産んでもらいましょう」
「はい、お母様」
従順な息子。完璧ではない息子。でも、きっと孫は完璧になるはず。
たまに訪れるシャルマーク皇帝を、少しずつ薬で変えていく。行商人から、定期的に森の子どもを買う。作った薬や毒を売れば、お金には困らない。
孫はたくさん産まれた。森の子どもは大切に、そうでない子はそれなりに育てる。シャルマーク皇帝から、孫に譲位させればよい。そう思っていたが。
「シャルマーク皇帝が、ローテンハウプト王国の森の子どもに倒されたですって」
信じられないことが次々起こる。ヒルダが女王になった。祈りが復活し、帝国に水と緑が蘇りつつあるようだ。
「それは、私の孫息子が起こすはずだった奇跡なのに」
ずっと祈りは欠かしていない。美しく整った楽園。聖母に従わない者は、薬の実験体となった。聖母の両親も薬であちらへ逝った。
聖母の住まう場所は、穏やかで調和がとれている。全てに目の行き届く、こじんまりとした箱庭。そこに今、ほころびが入ろうとしている。
聖母は五十年の人生で、初めて自信が揺らいだ。まさか、この私が間違うわけがないのに。
でも、もう植物を生き返らせることはできない。雨も呼べない、水脈も見つけられない。まさかとは思うが、私は神の加護を失ったのだろうか。行商人も、妙なウワサに怯えて、来なくなった。
「おかしいわ。もう一度、祈りましょう。私の思いはきっと神に届くはず」
跪いて、手を合わせた時、聞いたことのないような音と共に、地面が揺れた。
「な、なにごとですか?」
思わず叫んで、音の方を見ると、巨人が外壁を叩き壊している。聖母の民は、半狂乱で逃げ惑う。
「聖母さま。化け物です。助けてください」
聖母の愛しい民が、聖母の後ろに回る。聖母は凛として立った。
「私は森の娘で、聖母、そして未来の国母です。私の民は、私が守ります」
聖母は、巨人から民を守らんと、両腕を大きく広げて、キッと睨みつける。
「巨人よ、立ち去りなさい。ここは聖地です。不浄の者が入れる場所ではありません」
巨人と聖母が、上と下から睨み合う。
「どこが聖地だ。森の子どもの怨念が渦巻いているじゃないか。なんと哀れな。浄化が必要か。父さーん、キレイな雨をお願い。とびっきりのやつー」
「はーい」
楽園の上に、滝のような豪雨が降り注ぐ。川ができ、湖ができ、民は水に浮いた。雨がやみ、虹が出た時、建物の下から、森の娘たちが浮き上がる。
「うーん、やりすぎたか」
イシパは周囲を見回す。楽園は、巨大な湖になった。
突如、砂漠に現れた巨大な湖。その水を飲むと、病が治ると評判になる。アイリーンとサイフリッド商会が主導し、辺り一体は急速に栄えていくのであった。