176.少年よ武器を持て
ミュリエルの弟、ダニエル。十歳で森の子どもで、読書が趣味。本を読んでいられれば幸せなのだが、弟をこき使うことには定評のあるミュリエル。どんどん弟に仕事を積み上げる。
「魔牛お姉さんたちに、狩りと解体教えてー」
「えー」
「新しく来た子たちに、牛舎の掃除と牛の乳搾りのやり方教えてー」
「ううー」
「新しく来た子たちに、読み書きと計算教えてー。今、セファがやってくれてるけど、ひとりじゃ大変だからさ」
「うもー」
ポン 不満を漏らすダニエルの頭の上に本が乗せられる。
「パッパが仕入れて来てくれたよ。新しい本」
ダニエルは目を輝かせて本を手に取る。
「『名づけ。名に込める思いとは』ってこれ、姉さんのための本じゃん」
「そうなんだよね。読んで、どんな内容だったか、かいつまんで教えてよ」
「もー、自分で読まなきゃ意味ないよー」
「いいのいいの。ダニーの説明、分かりやすいからさ」
ミュリエルはダニエルの髪の毛をもしゃくしゃにすると、のっしのっしと立ち去った。お腹が大きくなったミュリエル。ガニ股で歩くようになった。
「そんな歩き方じゃ、アル兄さんにガッカリされるよー」
ダニエルは姉の背中に声をかける。ミュリエルはギロリとダニエルをにらむと、少し小さな歩幅で歩いて行った。
できればずっと本を読んでいたいけど、居候の身でそれは許されない。まだまだ読んでいない本がいっぱいある。追い出されないように、働かなくてはならない。
ダニエルはセファを探しに行き、セファの悩みを聞く。
「へえー、文句たらたらで授業にならないの。へえー、姉さんにあれだけやられて、まだこりてないんだ。すごいね」
「ほら僕、まだ十歳だし。こんな見た目だし、軽く見られやすいんだよね」
ダニエルは珍獣を見るような目でセファを眺める。
「セファ、アッテルマン帝国の王族だよね。権力振りかざしてやりなよ。そもそもさあ、王族に読み書き計算教えてもらえるって、あり得ないんだけど」
「うー、権力振りかざすなんてできないよ。それに、親がいなくて、ここに逃げて来た人たちでしょう。きっとまだ、心の傷が癒えてないんだと思う」
ダニエルは丸い目をさらに丸くする。
「セファ、心に傷があろうが、王族に不敬を働いたら、普通は処刑だよ。まあ、ミリー姉さんがああいう人だから、ヴェルニュスでは身分制度が崩れてるけど」
そういうことで、ダニエルはギュッと言わせに教室に向かった。最初が肝心、どっちが上か分からせる。父の教えだ。ダニエルはケンカはそれほど強くない。でも頭がいい。そして口が達者だ。なんとか乗り切るぞ、強く思って部屋に入る。
部屋の中には、元々ヴェルニュスにいた子たちと、新しく来た子たち。長机に分かれて座っている。新しく来た子たちは、椅子に座って勉強するという経験がないのだろう。とても居心地が悪そうだ。こんなことして、なんになる。そんな不満が顔に出ている。
「ダニエル・ゴンザーラ。領主の弟。十歳だけど、本をたくさん読んでるから、知識だけはたくさんある。それをうまく使っていけるかは、これからの僕次第。知識は武器になる。みんなに武器を与えるために、セファと僕が時間を使う。だから、きちんとそれに応えて」
わーっと話されて、子どもたちは目をパチパチさせた。
「最初に言っておくけど、不幸自慢をされると、僕の完敗。貧乏領地だったけど、温かい家族と領民に囲まれて育った。ミリー姉さんがアル兄さんと結婚したから、僕の将来は明るい」
子どもたちは顔を見合わせる。
「セファは王族だけど、皇帝がおかしくなったせいで、母と離れて父と放浪していた。今は旅に出てるけど、ニーナって子は、皇帝に血を吸われて話せなくなった」
セファはうつむき、子どもたちはそっとセファのつむじを見る。
「僕は、もっと本がたくさんある家に産まれたかったって思ってた。贅沢だよね。自分より幸せそうに見える人をみて、うらやんで、ねたんで。自分より不幸な人を見て、あの人よりマシだから、我慢しなきゃって。ひどいよね、最低だ」
シロに宙吊り空の旅に連れられた少年が、じっとダニエルを見る。
「そういうのを浅ましいって言うんだ。自分の浅ましさを、本を読んで気づけた。まだまだ知らないことがたくさんある。でも僕は読めるから、色んな知識を得て、少しずつ成長できる。読み書き計算ができると、もっといい仕事につける。だから、みんなに教える」
ダニエルは黒板に自分の名前を書いた。
「文字が分からない人たちは、まずは自分の名前を書けるようになろう。そうすれば、契約するとき自分で署名できるよ。もっと読み書きできるようになったら、自分で契約書を理解できるようになる。ズルいヤツらに騙されないようになる」
空飛び刑に処された少年がボソッとつぶやいた。
「俺の父ちゃん、よくないケイヤクショに名前書いて、借金押しつけられたんだ。それで飲んだくれるようになって。俺と母ちゃんのこと殴るようになって。俺は母ちゃんと逃げたんだ。でも母ちゃん、病気で死んじまった」
ダニエルは拳を握りしめる。
「この世界は、弱肉強食なんだ。悲しいけど。弱い人は、強いヤツらにいいようにされる。だから、武器を持って。読み書き計算は基本の武器だよ。そして、石投げを覚えて狩りができるようになるんだ。そしたら、どこでも生きていける」
少年は泣いてるような怒ってるような表情でダニエルを見る。
「ミリー姉さんは優しいから。ヴェルニュスにいれば安心。でも、いつ何が起こるか分からない。勉強して、農業と狩りができて、手工芸の技術があれば、最強だ」
「俺、勉強する。そんで、父ちゃんをぶん殴って、酒をやめさせる。その後、父ちゃんをダマシしたヤツもぶっ飛ばす」
少年は唇を噛み締めた。
「じゃあ、まずは名前の練習からだね」
ダニエルはひとりずつ名前を聞き、紙に見本を書いた。傷ついた少年少女たちは、ゆっくり何度も紙に繰り返し綴る。
「自分の名前を書けるようになったら、次は好きな人やモノの名前。お父さんでもお母さんでも、鹿肉でも。なんでもいい」
ダニエルの言葉に、皆がふふっと笑う。
「じゃあ、俺は母ちゃんの名前。その後、父ちゃんの名前もついでに書けるようになってやっか」
少年が少しだけ、少年らしい笑顔を見せた。ダニエルは、自分より少し年上の、その笑顔を見て、胸が苦しくなった。現実は、本で読むより暗くてきつい。自分にできることは、全てやろう。そう思った。