173.天然の王子さま
少しずつ、ラウルの評判が辺境の領地に広まり、諸手を挙げて歓待されるようになってきた。
「もはや、お忍びとはなんぞやと感じるな」
「むしろ、次期王の顔見せと思われているのでは」
イヴァンとガイはじみじみと言う。言葉には出さないが、第一王女の刺客が増えるだろうと、気を引き締めるふたり。
見るからにやり手といった雰囲気の壮年の領主。ラウルの訪れを心から喜んでいるようだ。
「ラウル第一王子殿下、我が領地にご足労いただいたこと、感無量にございます」
うっすらと涙ぐんでいる渋い領主に、ラウルはおおらかに対応する。
「うむ、世話になるぞ。ここは何の問題もなさそうなので、久しぶりに羽を伸ばそう。名前をつけるのは、存外に神経を使うものだ」
うっそだー、ハリソンは思った。ノリと反射で名づけをしていたようにしか、見えなかったぞ。
「殿下がお見えになると分かってすぐ、準備を始めまして。本日は歓迎の舞踏会を催したいと思っております」
「うむ、そうか。しかし、礼服は持って来ていない気がするが」
ラウルがイヴァンを見る。イヴァンは「ございます」と静かに答えた。
「あるのか?」
「はい、このようなこともあろうかと。皆の礼服は一着ずつ持って来ております」
「さすがだ、イヴァン」
イヴァンは品よく微笑んだ。イヴァンはテキパキと皆の着替えを手伝う。ラウルは着慣れているので、すぐ終わる。問題はハリソンだ。数えるほどしか着たことがない。
「首が苦しい。肩がきつくて、石が投げられない。お腹がピシッとしてるから、いっぱい食べられない」
ブーブー言っている。イヴァンはにこやかに聞き流す。
「ハリー諦めろ。今後こういうことも増える。慣れておいて損はないぞ」
ガイが真面目な顔でたしなめた。ガイは意外と似合っている。体の線がよく分かる礼服を着ていると、ガイとイヴァンの隙のない体躯が明らかだ。
「ラウルは知ってたけど。ガイもイヴァンもかっこいいね。今日モテるんじゃない」
ガイはニヤッと、イヴァンはいつも通りの笑みを浮かべた。
大きな広間は色めき立っている。今か今かと、ラウルの入場を待ちわびる人々。
スッとラウルが足を踏み入れると、ざわめきはピタリとおさまり、皆恭しく礼をとる。巨大な三匹の犬を従え、堂々と歩くラウルは、既に王者の風格を漂わせている。
一番奥の席にラウルが座ると、ラウルの合図で皆立ち上がった。始まりのダンスはラウルと、領主の娘だ。ガチガチに緊張した、初々しい娘。ラウルは如才なくエスコートし、踊り始める。
「うわー、ラウルって王子さまだね。すっごい慣れてる」
ハリソンはすっかり感心してしまった。名づけのあれやこれやで、大丈夫かこいつ、なんて思っていたが。優美で、高貴な王子さま。会場中の少女たちは、キラキラと憧れの目でラウルを見つめる。
視線に臆することもなく、なめらかに流れるように踊るラウル。緊張している領主の娘を、さりげなく踊りやすいように誘導している。
「これはモテるわ」
ハリソンの言葉に、イヴァンが誇らしそうにかすかに微笑んだ。
ダンスが終わり、ラウルは娘の手を取って歩き出す。そのとき、会場の扉が開いた。そこに立つは花のような乙女。少女から女性に移り変わるユラギの中にいるような。サナギから蝶になった瞬間のような。
一瞬だけの美を閉じ込めた奇跡。誰もが息を呑んで彼女を見つめた。
ラウルはわずかに歩みをゆるめたが、笑顔を崩すことなく、娘を領主の元に連れていく。
「素晴らしいダンスでした、殿下。ありがとうございます」
「一生の思い出にいたします、ラウル殿下」
娘は控え目にお礼を述べた。夢のような時間は終わってしまった。どこの誰か知らぬ女に、全て持っていかれた。この数日、この時のために準備してきたのに。
震える娘の肩を、領主がしっかりと抱き寄せる。
まるで当然のことのように、ラウルの次の踊り相手は彼女になった。遅刻したのに? どこの誰とも知れないのに? 圧倒的な美貌の前には、全ての門が開くのだ。
強い風に煽られ、必死で飛んできたかよわい小鳥が、やっと木陰にたどりついた。そんな儚げな、微かに震える手を、ラウルはなんということもなく、自然と握る。皆が麗しいふたりの踊りを、ただ見つめる。
「そなた、働き者の、良い手をしているな」
ラウルはポツリとささやく。白くほっそりとした手は、水仕事をする女のそれだ。少女は、ハッと手を引っ込めようとするが、踊りの最中ではかなわない。
「継母と異母姉の言いつけなのです」
少女の長いまつ毛が弱々しく震える。
「家を出て、働けばよいではないか」
「伝手がございません」
「そうか。そなた、名をなんと申す」
「灰まみれと申します」
ラウルと灰まみれの視線が交わる。ラウルはかすかに首を傾げる。
「おもしろい名前だが。どういう意味だ」
「暖炉掃除をして、灰まみれになっているからです」
「ほう、それは感心なことだ。誰もやりたがらない暖炉掃除を、率先してするとは。ふむ」
ラウルは優しく笑った。ふたりの踊りを注視している少女たちが、キャッと小さく悲鳴をあげた。
ボーンボーン 時計が十二時を告げ始める。身をこわばらせる灰まみれ。
「私、もう帰らなければ」
「では、扉まで送って行こう」
ふたりは足早に会場を出る。灰まみれは慌てて階段を駆け下り、靴が片方脱げてしまう。
ラウルは駆け寄り、靴を手に取った。
「灰まみれ、受け取れ」
ラウルは石投げで鍛えた肩で、靴を投げる。靴は理想的な放物線を描き、灰まみれの腕の中に落ちた。
「領主に言って、家政婦の仕事を斡旋しよう。達者でな」
ラウルは爽やかに手を振ると、会場に戻った。
「ええええー」
呆然と立ち尽くす少女。ひらりひらり、豪奢なドレスが散って行き、灰色の仕事着に変わる。
「ま、仕事見つかるならいっか」
もしかして、お金持ちに見初められて、玉の輿に乗れるかなー。なーんて密かに期待していた灰まみれ。とりあえず、タダ働きとはおさらばっぽい。やったー。
灰まみれは、元気に走って帰った。
***
「お手をどうぞ、お嬢さん」
フフフ 笑いながらミュリエルはアルフレッドの手に、自分の手を重ねる。
夕方になると、ゲッツがオルガンを弾く。そろそろ家に帰って、ごはんの時間ですよ、と告げる音楽。ゲッツの気分によって、毎日曲調は変わる。今日はとてもウキウキして軽やかだ。
アルフレッドにがっちりと支えられながら、ミュリエルは自由気ままにクルクル踊る。
「お腹が当たるね」
「三人で踊っているみたいだ」
「そうだね」
両思い。一緒に生きていくと誓ったふたり。優しい愛の時間だ。