17.狂乱の領地
「アルアルアルアル」
「はい、ちゃんと十回言って」
ふたりの乗る馬車の中は妙な空気になっている。馬で並走する護衛のケヴィンと影のダンは、漏れ聞こえるふたりの会話に思わず顔がにやけてしまう。
女嫌いでしょっちゅう吐いていた殿下が……。
「もういいでしょう、大丈夫だから」
「うん、これからはミリーがアルフレッド殿下って言うたびに、頬にキスをすることにする」
何を言っているんだ、この王弟は。
ミリーと、聞き耳をたてていたケヴィンとダンは心の中で突っ込んだ。
「あのー、そういうこと言って恥ずかしくはないのかな……?」
「恥ずかしくないけど」
「ああ、そうですか……」
ミュリエルは深く考えないことにする。
***
「ロバート様、王家からの遣いがお見えです」
「なんだとっ」
ロバートは大股で応接室に向かう。くたびれた応接室には似合わない、上品な男が窓から外を眺めている。
「ロバート・ゴンザーラです。王家からの遣いとは、何事でしょうか」
「マシュー・ガブラーです。アルフレッド王弟殿下の侍従兼護衛です。どうぞ、まずは王弟殿下からの書面をご確認ください」
ロバートは急いで書面を読む。読み進むうちに、手が震えた。
「これは……誠ですか」
「はい。紛れもない事実です」
「王弟殿下はいつこちらに」
「早ければ二日後にはお着きになるかと」
「なっ」
ロバートは絶句する。
「王弟殿下からは、なにも特別なことはせず、普段通りでと仰せつかっております」
「いや、さすがにそんな訳にはいかないでしょう」
ロバートは古ぼけた応接室をグルリと眺める。
「いえ、殿下はミュリエル様にベタ惚れでございます。ミュリエル様のご家族にご負担をかけることを恐れていらっしゃいます」
「…………」
「だったらもっと早く知らせて欲しかった、そうお思いでしょうが」
なんで分かったのか、ロバートは思わずマシューを凝視する。まさか、心が読めるのか?
「心は読めませんが、表情は読めます」
マシューは苦笑している。
「殿下は一刻も早くミュリエル様との婚約を整えたいとお望みです。時間を置くほど、邪魔が入りますから」
「なるほど」
「ご家族の相談に乗るよう、仰せつかっております。できる限りのことをいたしましょう。助言は惜しみません」
「それはありがたい。本当に。心の底から……」
「では、まずはご家族をお呼びください」
「もうそこにいます」
扉の向こうにズラリと並ぶ人影。
「おっ……」
マシューは目を見開いた。ロバートが緊迫した声音で言う。
「みんなよく聞け、ミリーがアルフレッド王弟殿下をつかまえた」
ヒュッ 皆が息を呑む。
「二日後にミリーと王弟殿下がこちらに着く」
屍のような顔色の家族たち。
「一刻の猶予もない。全力でコトに当たる。いいな」
一同頷く。
「ハリー、鐘を鳴らせ。六回だ」
皆の顔が青ざめる。
「父さん、六回とは『領地存亡の危機、全領民集合』だけど」
「そうだ、これが領地存亡の危機じゃなくて、なんだというのだ。見ろこのオンボロ屋敷を。ここに二日後、王族を迎えるのだぞ」
確かに……。家族が頷いた。
「いえ、殿下はお気になさいません。どうぞ普段通りで」
マシューの声は、社交辞令と受け流された。
「ハリー、行け」
ハリーは全速力で走った。ミリー姉さん、なんてことしてくれちゃったのー。ハリーは泣きながら屋敷を出ると、隣に立つ鐘楼に入り階段を駆け上がる。
頂上まで登ると、釣り鐘の紐を六回引いた。外を見ると、領民が慌てふためいてこちらに走ってくる。
ハリーは全速力で階段を降りる。
領民が屋敷の前に集まった。ロバートは台に登ると皆を見回す。
「ミリーが二日後、婚約者候補を連れて戻る」
叫びそうな領民をロバートは手で抑える。
「お相手はアルフレッド王弟殿下だ」
「おうていでんかってなんですかー?」
子どもが叫んだ。
「国王陛下の弟だ。王族だ。すごくえらい人だ」
静まり返る領民。
「なんで……」
誰かがポツリとつぶやいた。
「分からん。王弟殿下はミリーにベタ惚れだそうだ」
ロバートの隣でマシューがコクコクと頷く。
「ばあさんたちが、ミリー様に秘技を教えたから」
ひとりの男が言って、手を口で押さえた。五人のばあさんが静かに前に出る。
「これが領地にとって喜ばしいことではないならば、我ら今すぐ首をくくりましょう」
マシューは青ざめた。いったいどうなっているのだ、この領地は。
「静まれーい。いいか、皆に最優先事項を申し伝える。これから一週間、誰ひとりとして死ぬな! なんとしても生きろ!」
ロバートは厳しい目で領民を見渡す。
「よいか、王弟殿下がいらっしゃる間に、葬儀はできぬ。分かるな」
分かる。領民全員が頷いた。
えええー、そうなのーー、マシューはドン引きだ。
「二つ目、皆これから毎日靴を履け。靴がない者は後ほど申し出よ」
領民がザワザワ話し始める。
「三つ目、食糧と酒を献上しろ。上等なものだ。王族の口に……と言っても伝わらんか。こちらの紳士の口に入る質のものだ」
女たちの目が一斉にマシューに向いた。皆一様にうっとりとため息を吐いている。
「いい男じゃないか」
「結婚してー」
「ワシは寿命が十年は延びた」
「カッコイイ〜」
「はう〜ん」
マシューは遠くの一点を見据えて耐えた。
「四つ目、料理の腕に自信がある者は、後ほどシャルロッテの元に集まるように」
シャルロッテが真剣な顔で皆を見る。
「五つ目、屋敷を修繕する。掃除も必要だ。明日から手の空いている者は屋敷に集まれ」
ロバートが声を張り上げる。
「よいか、我らの総力を上げて、王弟殿下をもてなすのだ。皆、死ぬ気でかかれ」
「はいっ」
マシューは遠い目をした。殿下、申し訳ございません。私では止められませんでした。